20

 酒井は呼吸器をつけて、眠っていた。


 ベッドの脇に、三つ椅子が用意されていて、医師が座っていた。三十代くらいだろうか。髪は短く刈り揃えられ、清潔感があった。柔和な笑みを浮かべているが、当直医だったのだろうか、少し疲れが見えている。二人を一瞥すると、安田の方を向き話し出した。


「了承していただきましたが、肺水腫という病状の手術をさせていただきました。こちらです。先ほどお見せしましたが、肺に水がたまるという病気になります。胸の脇の方から水を抜かせていただきました。開腹…メスで身体を切るような大掛かりなものではありません。但し、二泊程度の入院が必要です。ご承知おきください。以上で説明は終わりです。外へ。ああ、奥様もどうぞ」


 なりゆきでついていく。ロビーではなく、内科の診察室の方へ進んでいる。空いている部屋に通された。


「すみませんね。ゆっくりお話できる部屋があまりありませんので、こちらで」医師の顔が険しくなった。それでも、威圧的な印象が受けない。事務的だが、誠実な口調だ。

「あの、こちらが本題です。酒井さんは眠ってらっしゃいましたが、聞こえるかも知れませんので。ええと、まだ断定できませんが、酒井さんには、濾胞ろほう性リンパ腫という病気の疑いがあります。進行は遅い種類ですが、ガンの一種といってよいでしょう。こちらについては、診察や問診のみで断定することはできません。局所麻酔をかけ、扁桃腺の方から一部検体を採取して、検査をかけます。それについてもご了承いただければと思います」


 その後は、行われた手術の細かい説明と今後のスケジュールをされた。


「これで本当に全部です。ご質問をどうぞ」

「あの、その」予期していなかったのか、安田は答えに窮していた。俯き、考え事をしているようだ。

「事務的なお話ばかりで、すみません。医者もサラリーマンなので、やらなければならないことを先にしてしまいたかったのです。それでは、ご質問が固まるまで、少しこちらから質問よろしいですか?」医師は、更に優しい口調で言った。

「はい」

「お寺というのは、ずいぶんとお忙しいのでしょうね?」

「普通のお仕事に比べれば、不規則になりますね」

「実は、ご家族がいらした時、再度お話をしようと思いますが、もう、退かれた方が良いと思います。月並みな言い方で恐縮ですが、あまりご無理ができる体ではありません」


 安田は逡巡したように見えたが、顔をあげて医師の方を向いた。


「酒井は作務の中で生き、死ぬことを選んだ人間です。尊敬する人間です。私は、本人の意思を尊重したいと考えています」

「お気持ちは分かりますが…。こういう言ってはなんですが、安田さんが跡を継ぐのではいけないのですか?」

「檀家が決めることです。私にはなんとも…」

「そうですよね…。わかりました。まずは考えておいてください。それから、奥様の方にお願いですが、こうしたことで戸惑っておられるお気持ちお察ししますが、どうか落ち着いてお話ができるようにサポートしてあげてください。まず、今日はお戻りになって頂いて構いません。それでは、失礼します」


 看護師に促され、最初の休憩スペースに戻ってきた。夕日は、遠くに見える稜線めがけて落ちていく。消毒アルコールの匂いが鼻につく。


「あの。すみません。私」

安田は無言のまま首を振った。俯いている。

「気にしないでください。もう結構です」

「でも、お一人で大丈夫ですか?」

「酒井もいます。二人です」

「すみません。そういうつもりじゃなくて」

「いいえ、人はいつか亡くなります。酒井も。愛別離苦と言いまして、私は、このような苦しみから解き放たれなければなりません。死に苦しみ、悲しむ必要がありません。それが尊敬する彼への敬意の表し方です」

「それで、良いのですか?」

「ええ、私が愛した人間ではありませんから」


 漏れ出そうな溜息を必死にこらえる。

 身体がこわばる。こんなことを言いたいわけじゃない。そう聞こえる。それでも、止めることもできないのだと分かった。


 安田はふっと溜息をもらす。


「跡を継ぐかもしれませんね。気乗りしません。でも、きっと、それが良いんでしょう。やりたくないことでも、誰かがやらなくてはなりません。偽善ですね」


 怒りで、すっと、身体の芯まで冷えていくようだった。


「どうして、そんなこというんですか?今、そんな話しなくていいじゃないですか」

「貴女の怒りは、偽善ではなくて、あくまで独善です。自分だけの満足のためです。そんな綺麗なだけの言葉に意味はありません」

「あの、もう帰ります」

「ええ、お引き取りください。分かってもらわなくて結構です」

「分かりたくありません」


 実里は立ち上がって、廊下を足早に歩いた。

 散々なことを言われてしまったのに、なぜか笑ってしまった。


 こんな大変な時まで私を案じてくれる優しさに最後まで甘えてしまった。

 勝手に来て、勝手なことばかりして、勝手に怒って帰っていくだけの自分がひどく恥ずかしかった。でも、彼だって少しは悪いはずだ。だから、振り向かないで病院を出た。

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