19

 病院へ行く道は、渋滞していて、なかなか先に進まない。急に喉が渇いた。ホルダーのコーヒーは冷めていて、鉄のような味がした。

 酸味の残る舌で、唇のなぞって、いらだっている自分を思い知る。早くいかなければ。何故か、想像の中で、彼はいつも一人きりだ。


 駐車場が満車で、近くのコインパーキングまであふれていた。駅前まで出て、大型店の立体駐車場へ車を止め、タクシーを拾った。ワンメーターに満たない距離だったが、とにかく急ぎたかった。受付で病室を聞いて、エレベーターで向かう。休憩スペースで、安田が自販機の前に座り、俯いていた。


「あの」小さな声で、呼びかけた。

「え?ああ、なんだ。どうも。どうしてここへ?」安田は目を開き、驚いたように立ち上がった。

「なんですか、なんだって?あの、大橋さんから聞きました」

「すみません。気を抜いていました」

「大丈夫ですか。酒井さんは?」

「今、回復室に入れられています」


 実里は紙袋を差し出す。安田は中身を見て、頭を下げた。


「手術をしたんですね?」

「肺に水が溜まったようです。抜き出す処置でした」

「あの、もしあれでしたら、改めて、伺います」

「いえ、あの、お時間ありませんか?」

「え?」

「少しだけ、ここにいていただけませんか。あの、病室に戻されるまでで構いません。それに、着替えもしたいですし」

「ええ、私は構いませんよ?元々、時間は空けてあったし」首を傾けて視線を向ける。声が震えた。呼び止められることが意外だった。


 安田は、トイレで着替えた。ブルーのセーターと黒いデニムという若々しい姿だった。見慣れないため、違和感はあったが、スタイルが良く、似合っているように思う。


「実は、前から歩くのが少しだけ辛いようだったのですが、二日前に転びましてね。少し大事を取っていたら、急に具合が悪くなりまして。人間、足腰から悪くなるのだと言うのは本当ですね」


 安田は、ベンチに一人分スペースを空けて座った。俯いて両手を握っている。


「大橋さんは大丈夫でしたか?」

「ええ。斎藤さんもいらっしゃいました」

「ああ、隠居の斎藤さんですね。あの方は、前の住職の親族ですから」

「あの、今の住職のご家族は?」

「奥様とは離婚されていらっしゃいますが、お子さんが二人。連絡をしましたが、娘さんは九州で、明後日までは来られないとのことでした。息子さんは仙台にいらっしゃいます。夜にはこちらに、ということでした」

「よく、ご対応されましたね」

「いや、大橋さんがいなければ私だけでは、とても無理でした」


 実里は、一人分のスペースを詰めて、俯く安田の手を握った。


「すみません。でも、結構ですよ…」安田は少し安心した顔をした。

「いいんですよ」

「…本当は、怖かったんです」


 安田のすすり泣く声が聞こえた。実里は、そちらを見ないように、天窓に目を向ける。濃淡のない水色を横切る飛行機雲が見えた。純度の高い冬の空を閉じるファスナーのようだ。そのせいで、ここだけが、世界から切り離されたような所在ない心細さを感じる。ありふれた感傷だ。どこへ行っても居場所がないような日が、人生にはたまにある。

 酒井を慕っていた安田だ。こうした悲しい気持ちになるのは、修行が足りないということでは決してないのだろう。自然な気持ちだ。


「彼女は、身体を悪くしていました。私は、それを知っていました」


 泣き止んだ様子の安田が思い出したよう語り始めた。


 実里は独白を制して、自販機でコーヒーを買った。彼女とは、以前に話を聞かせてくれた女性のことだろう。


「喉、渇いてたんです。どうですか?」

「施しに感謝。実りのない話をするところでした」コーヒーを両手に受け取ると、座り直した。

「いえ、聞かせてほしかったので」

「はは、百円を入れて動く遊具みたいなものですか」

「そんなつもりは」


 自分も、同じ連想をしていたとは言えない。

 ホコリ混じりのオレンジ色の光が、窓辺に射し、影は直角三角形を作る。


「気が紛れるかどうかは、分かりませんが」

 

 コーヒーを啜り、一呼吸を置いた後、決心したように話し始めた。


「私たちは結婚しました。もう二度とベースを触らないように指を削ぎました。一思いにすべて削ぐことができればよかったのですが、躊躇した結果がこの醜い指です」


 安田は指を控えめに見せてくれた。爪もなければ第一関節付近まで指自体がない。不思議とグロテスクには感じず、その不思議さをまじまじと見つめた。


「檀家の方々から学費を出していただいておりましたから、頭を下げて留年して、卒業しました。間もなく、父は亡くなりました。その後は、修行と称して、家を出て、大手の自動車工場で働きました。重労働でしたが、とにかく彼女と一緒に生きるということだけが私の目標でした。お金がたまると、社員寮を出て、二人で新しい家に引っ越しました。二十七歳の時です。安アパートでしたね。その頃には、彼女の病気は、病院にいても手の施しようがありませんでした」

 

 病院でするような話ではありませんが、と安田は呟いた。


「彼女はすっかり開き直っていて、心穏やかな日々を過ごしました。昼食休憩に合わせてランチデートをよくしました。その時食べた洋食の味を今でも思い出します。今は食べられませんので、思い出すだけですけれど。買い物に行くときは、私がカートを押して、彼女は振り返って夕飯の相談を持ちかけてきました。袋を持つのは私で、彼女は少し先を歩いて。色素の薄い、短く切りそろえられた髪が土手の夕日に揺れるのが、小さいけれど確かにある幸せでした」


 安田はそこで上を向いた。溜まった涙が顎を伝って零れ落ちていく。

 綺麗だ。

 その横顔が。

 その涙が。

 二人の思い出が。

 彼の涙は止まない。呼吸は荒くなった。背中をさすった。


「なんで今、急にこんな話をしたのか」

「いえ、いいんです。素敵なお話ありがとうございます」

「あの、私は、貴女が思うような清い人間ではありません」

「…ええ」


 ああ、振られたのだなと俗っぽいことを思ってみた。ホワイトノイズとナースシューズの音だけが響く。この気持ちのことはよく知っている。

 

 ストレッチャーのキャスターが廊下を滑る音が聞こえてきた。看護師一人がこちらに駆け寄ってくる。


「術後経過の説明があります。奥様も中へ」

 実里はとまどったが、安田の所在なさげな背中を見つめ、黙ってついていくことにした

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