17

 副菜が運ばれてきた。シーザーサラダだ。里奈は一人でワインを二本近く開けていた。実里もつられて、一本程度飲んだのだろうか。頭が重たく、考えるのが面倒になってきた。トイレに立つと、酔っているのが分かった。明日まで残らなければいいが。席に着くと、里奈は居住まいを正して座っていた。


「里奈は、今の仕事いつまで続けるつもり?」

「え?うーん。あの、えっとね」


 里奈は逡巡している様子だ。普段はめったに見せない表情で、実里は驚く。彼女は、恥じらうことを恥じる。それでも、彼女の顔は明らかに恥じらいを感じ取って欲しい様子だ。


「あのね。私、その、言わないといけないことがあるんだ」

「うん?」

「もう、良い歳じゃない?だからね、結婚も考えようかなって」

「え、ああ、そう。よかったじゃない」

「あれ、驚かないの?」

「だって、里奈はそういう人だって思ってたから。急に結婚するって言いだすんじゃないかってさ」

「えー、驚かすのが目的だったのに」里奈は不服そうな顔をしていった。

「なんでよ。そんな目的がないと、私と食事するの嫌なの?」

「そうじゃないよ。でも、最近こうして会ってるの彼がいい顔しないから」

「なんで?」

「知ってる人だからじゃない?」里奈はわざとらしく冷めた口調で告げた。


 肉料理が運ばれてきた。

 骨付きの仔羊。皿を彩る鮮やかな緑。

 目の前でブラックペッパーとチーズが降りかけられてる。

 その様子がなぜかスローモーションのように見えた。

 ああ、そうか。

 段々と実感が湧く。体中がこわばって、うまく口にできない。

 里奈は、まっすぐに実里を見つめている。


「…将平?」

「そうだよ」

「そうなんだ」実里は平静を装った。

「もう、実里は彼女じゃないからね」

「なんで?」

「なんでって…何をいまさら」里奈は鼻で笑った。

「いまさら?」

「ちゃんと言ったじゃない。綺麗な女の子と一緒に出たって。途中のトイレでかけたの。結婚式に出てって頼んだのも私だよ。最低でしょ?なんで将平君いるんだ?なんて。本当は、あの日に言うはずだったの。実里が帰っちゃったから言えなくて。この前、メールした時も、なんか元気なさそうだったし」


 全身の血の気が引いていく。冷たくなっていく。不思議と里奈に対する怒りは湧いてこない。むしろ、笑ってしまう。何が、自分のやりたいことだ。結局、別れたかっただけだったんだ。メールが最近多くなってきたのは、私のことをキープしようとしていただけじゃないのか。それを里奈にばらしてしまおうか。

 いや、きっと、絶対に将平はそんなことをしない。本気だ。だからこそ、頻繁に連絡を取ることができるようになった。彼の中に私への未練などないからだ。


 お互いが、唯一残しておいたドアのノブが、外れてしまった。もう、二人の間には、壁しか残っていない。


「最低だね」実里は呟く。俯いたまま顔をあげられない。

「ごめんね、こんなやり方しかできなくて」里奈も呟く。

「良いよ。なんか、もういい」

 情けないという思いが突然沸き上がった。何が情けないのか分からない。

 彼を繋ぎ止めておけなかったこと?

 里奈の気持ちに気づかなかったこと?

 こんなに思いつめていたのに、泣くことができない私?

 今、涙を流している里奈?


 そのあとは、黙々と食べ続けた。彼女は、人生の大きな決断をしたのだ。食べて飲んで喜んであげなければと思った。戸惑っていたが、里奈も食べ始めた。

 仔羊はとても柔らかく焼いてあって、付け合わせのマッシュルームもおいしかった。久しぶりに二人で食べ歩いていた頃のように純粋に料理を楽しんだような気がする。ああ、ただこうして二人で美味しいものを食べ続けるだけで幸せだったのに。私はいつからこんなに幸せを感じるのが難しくなったのだろう。

 里奈は泣きながら食べ続けている。彼女のこういうところが好きだ。ぶっきらぼうでいながら気を遣う。将平にそっくりだった。


 様子を見ながら、ばれないように、友達のままいて、ほとぼりが冷めてから言うことだってできたのに。こうして、たまに会って、おいしいものを食べて、なんとなく名残惜しさを感じながらも、私が立ち直らなければ、フェードアウトして別れることだってできたのに。そういう優しい嘘であっても、彼女にはつけなかったのだ。どれだけつらいことだろう。目の前の親友に同情してしまう。


 彼女が傷つく言葉でも、投げつけてあげるべきなのに、何も言えなかった。ここで完全に仲違いして、もう二度と会えなくなったら彼女は少しは救われるのかもしれない。それなのに、彼女が救われるであろう言葉を料理と一緒に飲み込んだ。別れてからずっと抱えてきた生きているのがつらかった日々も一緒に飲み込んでしまいたかった。


 今日の日を思い出して、彼女が苦しくならないように、せめて、自分の泣き顔を思い出さないように、実里は努めて明るく笑った。会計を済ませ、ぐしゃぐしゃに泣きながら謝り続ける里奈を家まで届けた。


 アパートのドアが閉まった瞬間に、涙が止まらなくなったことを、彼女は一生知りませんように。そう、願った。

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