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 本社の後任が、休職したという話を上司に聞かされたのは、修行から帰った二日後だった。上司の話を要約すると、どうやら、総務と兼任していたようだ。確かに兼任であれば、バッファが足りなくても仕方がない。実里は、内心でバツが悪く感じた。


 本社に戻る意思を問われ、あるが、判断に任せる旨を伝えた。後釜が用意されていないということは、必要な人事ではなかったということではないのか。疑問と不満が頭の中に渦巻き、憂さ晴らしに、里奈と食事の約束をした。


 約束の当日は、雨だった。二人は互いの駅の中間点で落ち合い、最寄り駅まで電車で向かった。一時間だけ残業をした。仕事のコントロールは、以前よりも得意になった。職場で市民権を得ているからだろうか。


「お互い、土日に会えないってなんだかね」里奈はため息まじりに呟く。

「良いじゃない。そのおかげでイタリアン取れたんだから」

「平日の夜に。完璧に独身貴族の遊びだね」


 レンガ風の外観に、小太りなシェフの人形が出迎える。想定していたほど、高級店ではないようだ。完全に一軒家の間取りだが、内装は洒落ている。夫婦や家族連れが多いようだ。


「なんか、当たりっぽいね」

「もう、雰囲気で分かるもんね。私は、明日も早いから軽めにするけど、里奈は?」

「牽制されて控える私ではないのだ。赤ワインデキャンタで。大丈夫、金ならあるぞ」


 二人はコース料理を頼んだ。飲み放題は別途にしても、三千円程度で、料理が出てくるようで、申し分ない。


「飲み過ぎないでね。結婚式の時みたいなこと嫌だよ?」

「なんだっけ?それ」

「六月の時、一緒に仙台まで行ったじゃん」

「ああ、もう何か月も前でしょ?」

「ごめんね。あの時」

「ん?ううん。私の方こそだよ。それで、今日は?」

「あのね、まだ決まってないんだけど、本社に戻れるかもしれないの」

「え?いつ?」

「いや、そこまで具体的ではないけれど」

「えっと…良かったじゃん?」

「うん。まあ、そうなんだけど」

「どうしたの?」

「いや、なんていうかさ。私の後釜の人がね、いつかも話した全然仕事ができない人。その人がさ、体調悪くしちゃって」

「そうなんだ。何はともあれ、チャンスじゃないの?」

「そうとも言えないんだよね。臨時の人事だし」

「でもさ、実里がこっちにいる間、代わりをしっかり育ててなかった訳でしょ?それって、なんていうか言いづらいけどさ、セクハラ問題されなければ、こっちに来させなかったってことじゃない。うーん、まあ、私のところは総合職なんてないし、そういう社内行政みたいなの分からんけどねえ」


 アンティパストが下げられ、大皿の肉料理が運ばれてくる。実里も赤ワインを頼んだ。里奈は、おもむろに煙草の箱に手を伸ばしたが、手持無沙汰にいじっているだけだ。最近は、禁煙していた様子だったが、元々、ヘビースモーカーだ。


「いや、うちも名ばかり総合職だから。一応、全員に幹部への挑戦権はあるって建て前だけど、女性は辞めるって思ってんじゃない?」

「まあ、確かにジェンダーだなんだって、言ったってねえ。でも、デリケートな問題がデリケートに扱われているのは良いじゃない。うちなんて、大半の女性社員が未だにお茶くみコピー取り要員だし。私みたいな営業だってマスコットよ。ごめんね、愚痴っぽくて。でも、ない?そういうの」

「まあ、取引先には多いかな。ジェンダーと言えば、そうだな、地方コミケ間近は、すごいよ」

「うわぁ、電話対応なんて死んでも嫌だね」

「女性が多いんだけど、やっぱりその二次創作?とか、割とエロいの多いんだよね。それでさ、入稿締切ぎりぎりまで粘ってくるから、こっちも深夜にゲスい台詞で会話しまくってる」

「うわ、なんか華やかな業界の闇ってやつ?」

「まあ、白鳥のバタ足なんだよ。どんな業界だって。なんか、こういう話してると、お互いさ、大人になったなあって」

「そうよ。私たち、二十六なんだってさ。研究室に入る前の頃なんて、二人でよく食べ歩いたじゃない?その時は、メニュー一つで喧々諤々けんけんがくがくだったでしょ?」

「今は、無難にコースだもんね。そうだね。あの時はお互い、食べたいものを必死でプレゼンしてた」

「まあ、今日は選択肢少ないっていうのもあるけど。でも、ああいう時間が贅沢で豊かだったなあって。なんかさ、お金で買える時間じゃ、贅沢さが味わえないっていうか。結局、時間の方が何倍も価値があるってこと」


 里奈は遠い目をしている。その様子がおかしくて、実里は笑う。本社に戻れば、里奈と会うことも少なくなる。それは、もったいない気がした。

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