15

 宵闇に、漏れ出すろうそくの暖色の光は、身体に染み入る優しさだった。徹夜をしたせいだろうか。頭がぼんやりとしている。隣の鹿野は唇を薄紫にして、身体を震わせている。


 住職の酒井が入ってきた。安田は、座布団を敷いている。昨日のことなど、なかったかのような、すべてがうまくいった朝だ。


「それでは、座禅と写経を行っていただきます。その後は小食と作務を行い、終わりとなります。では、講堂へ」


 空気は張りつめ、ホワイトノイズだけが流れる。揺らめくろうそくの炎だけを見つめた。実里の頭には何も浮かんでこない。障子戸のガラスから見える空気は身体が溶け入りそうなほどに綺麗な青だ。線香の香りが講堂に立ち込め、ホワイトノイズはさらに深くなる。


 結婚式のことが頭をよぎる。将平のことをここ最近は思い出す暇がなかった。それは今までありえないことだったが、いずれは、それが普通になるのだろう。これから、また新しい恋をして、そのことでいっぱいになる。それは、期待や予感のような不確かなものではなく、ただ身体が知っていることだ。そして、テレビのように他人事だ。この感覚が、とても心地よい。何かを考えようと思っても、脳に信号が伝わらない。


 これが悟りなのかもしれない。安田が言うにはは、悟りは瞬間ではないらしい。それでも、実里はたしかに今、悟っていた。そう思っていたかった。

 境内の雑巾がけが始まった。季節は夏の只中なのに、寒さで震えた。隣の山陰になるこの場所では、まだ日が見えない。庭と塀で囲まれているからだろうか、それを忘れていた。そもそも、ここはどこかという疑問にも意味はないような不思議な心境だ。


 今朝は、鹿野が一人で眠れなかったので、聞き耳を立てていたという話を延々聞かされた。障子だけの部屋で遅くまで電気をつけているのは気が引けたようで、暗闇の中を必死に耐えたようだ。


 人間って、日が沈むと眠くなるものなんですねと、同じく修行体験をしている男性に声をかけられた。少し驚いたが、他意はないようだ。安田と同じくらいの年齢だろうか。日焼けした顔は若々しかったが、纏っている時代感は二十代ではない。もっとも、作務衣を着ているため、服装からの決定打には欠ける。


 人間的な生活ってこういうことかも知れませんね?と返すと、満足そうに頷いてクラウチングスタートのポーズをとった。こういう、人生を楽しんでいる感じの人も、鹿野と同じタイプだと実里は思う。深い苦悩があるのかもしれないが、それが周りに伝わらないというだけで、生きやすさが違うのだ。その器用さを実里は心のどこかで羨みながらも、蔑んできたことに気付き、足の冷たさも忘れて、実里もクラウチングスタートのポーズをとった。

 

 一通りの作務が終わり、部屋を片付けた。一時間くらいで、小食の時間だったが、アラームをかけ、実里と鹿野は少し横になった。


 昨晩、初めて会ったが、大橋という高齢の僧侶が一人で、料理の番をしていた。彼は典座と呼ばれる料理担当の僧侶で、前の寺を譲った後、この寺の手伝いをしているらしい。首座である安田は、この役割を兼任することができないようだ。実里と鹿野は、膳の準備だけ任せられた。料理も修行の内ではあるが、典座である彼の邪魔をしてはならない。そのあとは、促されて、部屋に戻った。鹿野は何か言いたいことがあったようだったが、すぐに眠ってしまった。実里は、軽く息を止めて、目を閉じた。様々な疑問をフリーズドライする。何かを考えてしまえば、これまでのことが全て無駄になるような気がしたからだ。


 将平との思い出を捨てずに、醜い自分だけが捨てられると思っていた。そんな神秘がここにはあると信じていた。


 信じる者は救われる。当たり前だ。誰だって、何かを信じて生きている。疑うことしか知らない人間も疑うことを信じて生きている。ただのトリックじゃないか。ただのレトリックじゃないか。それでも、救われると報われると信じていたい。星空に手を伸ばすような感傷の中でしか生きていることが感じられない。宗教が無くならない理由が少しだけ分かった。


 いつの間にか失神したように眠っていた。鹿野が心配そうに見つめていた。アラームをかけた時間には早いが、促されるまま起きた。化粧をしない方が修行らしいかと思ったが、マナーを優先して薄く整えた。


 安田の過去を知ることで、彼を好きになることができるとなぜか思っていた。そうして、次に進めると思っていた。彼に惹かれていることへの言い訳だったのだろう。


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