14


 安田の部屋には、机と本棚しかなかった。彼と同じように整然とした印象だ。安田は、近くの部屋から座布団を持ってきた。実里は足を崩して座った。


「何からお話しましょうか…。火事の話は、先日出ましたね」

「お寺が燃えた話ですね?」

「はい。少し、話をする時間をください」

「はい。でも、あの」

「ええ、私にも勤めがあります。そうですね、あと数十分で明朝の食事の支度が始まります」

「分かりました」実里は掛け時計を見る。時刻は十二時になる所だった。


「その日、もう一軒の家が燃えていました。私の生家です。両親はどちらもサラリーマンでしたが、火事で亡くなりました。その後、私は、近所のお寺にもらわれました。今では、吉田さんが管理されているお寺です」


「当時、小学校に上がったばかりでしたので、よく分からなかったのですが、どうやら市の給付があったようです。それは引き取り先の住職の懐に入っていました。こちらの地域では、いまだにお寺は偉いところです。それについて、何か咎めがある訳ではありません。父も努めて人格者であろうとしました。とにかく、檀家との付き合いを大事し、飲んだくれて、帰ってくる日もありました。ずぶずぶの付き合いですね。中学に入った頃には、そういう穿ったうがった見方をするようになって、すっかり逃げ出したくなりましたね。檀家の評価を気にした住職は、それを押さえつけるために色々なものを買い与えました。ほとんどが流行りのものでした。そのおかげで、私は寺の息子というレッテルを張られず、友達に仲間として受け入れられていました。それでも、多感な時期はとにかくイライラしていました。一度だけ、欲しいものをねだりました。ベースです。一番音が静かだと、プレゼンテーションしてね?とにかく、唯一の救いは音楽でした。最初に買ったのは、ニルヴァーナの『Never Mind』です」


 安田は声をあげて笑った。彼なりのジョークだったのかもしれない。実里はなにが面白いのか分からない。


「大学は、関東に行きました。それまで、こっそり貯めたバイト代と奨学金で何とか最初の内は生活できていました。二年生くらいになると、組んでいたバンドで、レコード会社にデモテープを送りながら、ライブ漬け。その頃には、すっかり大学には足が向かなくなっていました。休学届を出して、オーディションにも応募しながら、本格的に活動を始めました。夢を追う中で、女性と一緒に住むようになりました。通っていたライブハウスのブッキング担当の女性でした。二つ歳上で、田舎者の私によく世話を焼いてくれました。いつも、穏やかで、美しい人でした」

「インディーズの頃、一度、CDを出す話がありました。大手傘下でしたから、メジャーデビューが確約されたも同然でした」

「すごいじゃないですか!」実里は思わず口をはさんだ。

「ええ。それくらい当然だと、当時は思っていました。ああ、すみません」


 安田は、ポットを手繰り寄せて、茶を沸かした。部屋は寒かったので、実里は勧められるままに飲んだ。


「毎日、スタジオに入りました。何曲か、聴かせて、ミニアルバムを一つ作る段階まで、作業は進みました。もちろん、喧々諤々しながらでしたが、幸い、ボーカルが強権で、まとまりました。誰か引っ張る人がいないと、作品は形にならないですよ。お仕事もそうでしょう?」

「ええ、そうですね。私は、引っ張る側に立たされることが多いですね。前は、まあ、フリーペーパーみたいな内容でしたけど、一応、雑誌を作っていましたから」

 

 安田は頷き、努めて優しい声色で話した。


「そうでしたか。あなたのご苦労もよく分かります。誰でもいいですけど、どんな内容でも良いですけれど。形にしなければ、なかったも同じ。当時はそう思っていました」


 実里は共感して頷いたが、出来上がる前の議論が必要だということも知っている。夢がなければ、ものを作る気持ちにもならない。そこを会社は理解するべきだと思う。


「ミニアルバムは、ほどほどに売れたようでした。ライブハウスで手売りして、ようやく自分たちも報われると思っていました。でも、締切に追われて、デビューに向けた作品を作っていくうちに、私も疲弊していきました。慢性的に寝不足で、帰ってくれば、泥のように眠りました。CDが売れたとしても、まだ自分たちには金銭が入って来ない。生きることを優先しなければならない。時給の高いバイトを探していました。汚くて辛いことばかり。生きているだけでやっとだった。自分が作る綺麗なものが、こんな日常から出てくるなんて認めたくなかった」


 安田は、息継ぎをするように立ち上がり、奥からファンヒーターを持ってきた。点火の瞬間、馬の欄間に影が宿った。青い炎だけがぼんやりと見えた。遠くから、虫の音が聞こえてくる。


「もう少し、良いですか?」安田は、上ずった声で言った。


 実里とその向こうの時計を見ているのだろう。初めて、彼に見つめられていたことを意識する。午前一時を過ぎていた。鹿野は、眠っていただろうか。


「毎晩、彼女はリビングで帰りを待っていました。ただ、じっと。その目が泣き腫らしていることもありました。もう、終わりだと、思いました。あの時、泣いている彼女が面倒だと思いました。邪魔だと思いました」


 声が出ない。急に身体が硬直したように感じた。まだ、恋愛の話をうまくかわすことができない。


「締切の前日、初めて喧嘩をしました。実際には、私が一方的に怒っただけでした。きっかけは、バイト生活の私に気遣って、彼女が蓄えを差し出したことでした。プライドだけは高かったので、受け取れませんでした。彼女にそれを投げつけて、家を飛び出しました。地獄のような日々でしたが、それでも、作品が大切でした。」


 安田は悲痛な表情だ。その顔を見て、神経から漏電したような痛みを全身に感じた。


「当時、大学を卒業する年齢でした。意地もあって飛びついたのがいけなかったんでしょう。バンド転がしという詐欺のようなものでした。私は全く知りませんでしたが、ボーカルとマネージャの間では、デビューまでにかかるレッスンや宣伝活動費用をミニアルバムの収益で賄うという約束だったようです。幸い、私たちはどれくらいの収益があるか、まだ計算ができた部類でした、早くに気が付いて、搾取された額は少なく済みました。バンドは解散し、ボーカル名義の作品と無駄にした時間だけが残りました。久しぶりに彼女に電話をかけると、彼女は謝りながら自分の病気のことを告げました。子宮頚がんでした」


 安田は涙を拭い、時計を見て、片づけを始めた。もう、涙はない。また、この目だ。冷たい場所へ自分を追いやったのだ。


 無性に腹が立った。

 そして、急に泣きたくなった。

 何故。

 いつも私は。

 どうして。

 何故、私はいつも、どうして。いつだって、誰一人も幸せにできないのだろう。誰かに飛び込んで、向き合って。みんなのように上手くできないけれど、私なりの言葉で話してきたのに。何故、嘘だと分かっていても、この瞬間だけ、たった数秒だけ、彼の手を握ることができないのだろう。


「骨は?」精一杯の声で訪ねた。

「彼女のものです。離れられなくて。」

「やっぱり、手伝います。」

「いえ、いや…。それでは、お願いします。ええと、そちらにおられる方もできれば」


 安田が指す方向には、鹿野が立っていた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る