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梅雨特有の鈍色の雲と軽そうな白い雲が不気味な日だった。誰かの溜息と憂鬱がすっかり溶け込んでいるようだ。その中に自分のものもきっと混じっているだろう。
印刷所は繁忙期を迎えていた。8月上旬の七夕まつりに合わせて、フライヤーやDMの発注が大量にかかっていた。二色刷りの企業が増えて、不景気なのだと改めて感じた。休日まで駆り出されると、単純作業でも気が滅入る。その上、半休でつけられ、休みがろくに取れてはいない状況では、どうしても本社と比較してしまう。同じ半休でも、異動前は、帰り道の食事ですらも、記事のネタに使おうと考える生活だった。こちらの仕事も忙しいのだが、相対的にスローに感じてしまう。
「先輩、私、お昼食べますけど」
休憩時間になった途端にフロアにやってきた鹿野が言った。彼女は、子供が熱を出したパートの分、ラインに入って仕事をしていた。ホワイトカラーまで駆り出す人員配置は、適切には思えなかったが、とにかく人員が少ないため、対案はなかった。
「そう、じゃあ、休憩室で食べよう」
実里はおにぎりとカップスープ、鹿野はヨーグルトとアイスクリームだった。こちらに来て、実里は昼食の選択肢が広くなった。好きなものを食べても、陰で何か言われる心配がないからだ。
「鹿野、ちゃんと食べなよ。午後からもきついんだからさ」
「なんか最近、身体冷やすって分かってても、無性にアイス食べたくなっちゃうんですよね。ホルモンバランスかな?それに、気分悪くなっちゃって。インクの臭い、嗅ぎ続けていると、トイレ行きたくなりません?」
「なんか、その現象って名前あったよね?思い出せない」
鹿野は、周囲を確認し、小声で、ブラックっすわー、と言った。相変わらず態度や顔は媚びていない。
「二年目にして、ようやく本性あらわしたなって感じですよ」
「まあ、仕方ないよね。私も総務と言っても、簡易検品の作業は手伝っている。でも、ラインに入って仕事なんて、私にはできないな。凄いね」
「呑気すぎますよ。先輩。こういう仕事はやらないってことで、事務やってるんですから」鹿野は睨み付けるように実里を見つめている。
「うーん、外注にしろとは言わないけどさ、もう少し、ここの仕事量減らした方がいいと思うな」
自分だって、正直、印刷所の労務管理のために総合職をやっているわけではない。そんなことは会社には言えないし、この印刷所の売り上げが会社に利益を還元してくれていることは事実なのだ。
「チーフミーティングの時に、進言したらどうですか?」
「現場から声が上がらないと、かな。私が言ったって、ここでは新入りだからね。リアル感ないよ。私って恩を売っとく相手でもないだろうし。まあ、職務上言えることは言ってみるか」
たまに開かれる飲み会でも、職場の愚痴を言われることが多くなった。ほとんどが、どうにかしてほしいという依頼がセットだ。本社から出向してきた偉い人間と勘違いしているのだろうのか。それとも、ただの嫌味なのだろうか。意図を把握することができていない。ここまでの肌感覚では、前者であるようだ。不当に低く評価されるのは嫌だが、不当に高く評価されるのも居心地が悪い。
ただ、謙遜であったとしても、迂闊に本社に戻れないかもしれないというようなことを言えば、それこそ左遷を追認してしまう。どのような立場にあるのか分からないが、本社からの出向の上司がいる以上は、多少の居心地が悪くても、本社の空気を纏っている必要がある。異動以来、こちらに根付いてしまうのが嫌で、どんどんと身動きが取れなくなっている自分がひどく滑稽に思える。
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