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 輸入食品の店で買ったテーブルワインだったが、それなりに美味しかった。鹿野は、最初の一杯だけで、酔いが回っている様子だった。実里の住所は、職場で盗み見たらしい。どうやら彼女は一歩間違えるとストーカーになる気質が備わっているようだ。しっかり教育しなければ。


「先輩、私ね、言ってないことがあるんですよ」管をまくような口調で鹿野は言った。

「どういう話?」実里はあきれながら聞いた。

「彼氏の家に行ってきました」

「そっか」

「あたしの荷物、まとめてテニスボールのカゴの中に入ってましたよ。中ですよ?上にテニスボール乗ってましたから」


「うん…」そういう男の浅ましさというのがなんだか間抜けで可愛らしいとも思ったが、そんなことを言えるような雰囲気でもない。


「マジで酷くないですか?小物は出しっぱなしだったから、まあ、許しましたけど。私の服とかとにかく女の匂いがするものは、全部突っ込んであったんですよ。ビニール袋に入れて。ボールプールみたいになってて!アッタマきて!カゴごと持って帰りました。あいつ、めっちゃ慌てて、『サークルで使うからマジで勘弁』とか言って。今頃、ボール買いに行ってますよ。ウケるわぁ」


「なんていうか、私は何か言える立場じゃないけど、ひどいね。それでか。私、テニス部だったから、懐かしい。大会とかの日に、下級生が家に持って帰ることあったから」実里は玄関の方を指して言った


「先輩、テニス部だったんですか?私もです。あれ、乱打用ボールみたいですよ」

「懐かしいな」

「なんだ。割と共通点あるじゃないですか。避けないでくださいよ。まったくもう」

「そう?避けてるように見えた?ごめんね」

「いえ、本心じゃないのは分かってましたから大丈夫ですよ。なんか、帰り際の先輩、なんだか辛そうでしたから。声をかけてたのは、安否確認の意味もありました」

「なんだ、気を遣わせてたな。すまんすまん」


 ただ、柔らかい世間話が続いた。

 オレンジの光が強くなって、日没を知る。空気のコントラストが綺麗だ。俯き加減の鹿野の頬にブルーの影を落とした。


「あのね、先輩。あたし、まだあるんです」鹿野は正座に直って言った。

「どうしたの?改まって」

「ええと、その、子供ができたかもしれません」

「は?え、マジで?」

「マジで」

「あの、こういうのどういったらいいのか分からないんだけど、産むの?」

 

 鹿野の表情が一気に曇った。


「分からないです。産みたいのかどうしたいのか。こういうの、小説とかドラマとかだと、『私、産みたい!』って即答するんでしょうけど。それが正解なんでしょうけど」

「うん」


 涼しくなった風が窓の外から吹いてくる。遠くの山と山の間に夕日が落ちて、縦長の光線が部屋の窓から入る。うつむきがちの顔が照らされ、流れ落ちる涙が光った。

 沈黙が続く。鹿野の肩が震えている。

 実里は、彼女の後ろに回って、抱きしめた。彼女が話すまで、何も言わずに待った。


「私、分かんないんです。おかしいですよね?子供産みたいって思ったことは何度もあるんですよ。生まれようとしてる命があるというだけで、たまらなく愛おしいんですよ。でも、私一人じゃどうにもできない。お母さんにもお父さんにも言えない。それにね、私、ヒドいんですよ。もし、子供がいたら、私の人生はこの子のものになっちゃう。そんな風に思っちゃう自分もいるんです。どうしよう」


 そこまで言って、鹿野は声をあげて泣いた。過呼吸気味になっている彼女の背中をさすってあげることしかできなかった。

 そうしているうちに、実里も泣いていた。

 昨日、鹿野は彼氏に話さなかったことが分かったからだ。

 伝えられなかったこと、伝えらえられるはずないことが分かったからだ。

 腕の中にある、この一生懸命な恋を自分の内側に迎え入れるように、ただ強く抱きしめた。


 回した手を、鹿野がゆっくりと解く。


「ありがとうございます。もう、大丈夫です。何にも解決してないけど」

「私は、都合のいい女なんでしょ。構わないよ。あのね、お酒飲まない方がいいよ。というか絶対飲むな!」実里は鹿野の頭を叩いた。

「痛っ!まあ、そうですよね。飲んだら、大人になれないかなって。馬鹿みたいだけど…」鹿野は虚ろな目をして笑い、呟いた。

「正直、私にしてあげられることはないな。鹿野がどうしたいのかも分からないよ」

「良いんです。先輩の家に押しかけたのも、こうやって泣きたかったからなんで。前に踏み出そうって言ったって、どっちが前かわからないし。立ち止まってるだけなんです」まくしたてるように話した後、静かになった。


「一緒に婦人科行こうか」

「え、いいんですか?」

「何にもできないけど、『何にもしない』をしてあげるよ」

「ありがとうございます」鹿野は深々と礼をして、深呼吸した。


 頭を上げると顔がニヤついている。そのまま何も言わずに棚を指さした。

 実里はつられてその先を見つめた。フォトスタンドがあった。

 フォトスタンドがあった。しまっていたはずの…。


「こら」

「ねえ、先輩、あの写真の人とはいつ別れたんですか?」

「なんで別れた前提で聞くのよ。別れたけどさ…」


 鹿野には失恋の話なんていくらでもできるような気がした。私が抱えている悩みなんて小さい。懸命な恋を前にして、離れていくことを許した自分の弱さに悩んでいることが恥ずかしく思えた。


「だって、フォトスタンドしまってたじゃないですか。どんな人なんですか?」

「高校生の同級生だよ。付き合い始めたのは、大学入ってからだけど」

「結構、前ですか?別れたの」

「いや、三月。こっちに異動決まる少し前かな」

「え?じゃあ、結婚する予定だったんじゃないですか?あんまり、感じないですけど、先輩適齢期ですもんね」

「なんで、感じないのよ。リスペクト足りないんじゃないの?鹿野、「適齢期」なんて言葉、職場のおじさんおばさんたちが平気で使ってるけど、危ないからね、気を付けて」


 鹿野は首をかしげたが、「分かりました」といった。こういう感覚は共有できていないのが意外だが、仕方ない。分かり合えた気になっても、互いを完全に分かっているわけではないのだ。


「まあ、結婚はするもんだと思ってた。でもね、私は働いてたけど、あっちは大学院生だったからそういうことはあからさまに言えなかったの。プレッシャーになると思って」

「ああ。うん」

「鹿野も思ったんでしょ?相手の人生潰しちゃうって」

「うん。はい、正直。だって、お互い二十歳そこらで結婚なんてね」

「したくなかったの?」

「今のタイミングじゃなかったら、したかったですけど、今じゃ相手がいますからね。泣きそう。やめてください」

「うん。私も泣きそう。散々泣いたのにね」

「なんか、先輩ってもう少しサバサバしてるんだと思ってました」

「仕事の時は、割り切ってそうしてるつもりなんだけどね。普段は全然ダメ。通勤途中に涙でることもあるし」

「絶対、先輩モテるじゃないですか。大丈夫、大丈夫。タンブラーだって可愛いもん」

「そうだね。それ、本当は私の趣味なの。可愛いのは大好き。でも、簡単に可愛いって言うのも言われるのも大嫌い」

「じゃあ、前の彼氏さんに合わせてたんですね。ほら、やっぱりかわ…じゃなくて、素敵」

「ありがとう。鹿野はとても可愛いよ」

「先輩、褒めても何にもありませんよ。いいんです。お世辞でもうれしい。ねえ、先輩、部屋物色してたら、変なの見つけちゃった。何だと思います?」

「なに?」

「そのパンフレットですよ」鹿野は棚に立てかけてあるパンフレットを指さして言った。

「なんですか?『古都京都 仏像巡りの旅』って」


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