6

 日曜日、車で山中を進み、寺に着くと、座禅を組んだ。


 ドライブもストレス解消になる。付き合っていた頃は、いつも将平が運転をしていた。学生時代からそうだった。二人で行った場所は数えきれない。初デートは海だった。彼はまだ免許を取ったばかりで、とてもゆっくりとした運転で海を目指した。波に足を浸していると、将平は靴を両手に抱えてついて来る。感情の起伏がないけれど、なぜか何を考えているのか実里にはわかる気がした。


 こうして座禅に集中していると、その頃のことを鮮明に思い出してしまう。エンジンが切られて、お気に入りの曲が途中で止まる切なさも、海の匂いも。


 座禅が終わり、安田から茶が出された。今日の体験は、定年過ぎくらいの男性の二人きりだ。住職は言葉を選びながら、丁寧に話した。きっと、隣にいる彼は檀家の一人なのだろう。


「では、お疲れ様でした。今日は予定がありませんので、自由に見ていってください。説明が必要であれば、私とこちらのものとでお答えしましょう」

「この寺を復元したのは何年前だったっけ?」男性が住職に質問した。

「三十年くらいになりましょうか」

「そうか。ずいぶん前なんだな。あの時は駆り出されて大変だった」

「皆様には本当に支えられました。斎藤さんは消防団でしたね」

「夜中に引っ張り出されて。二軒、はしご。寄合の飲み会じゃねえんだから。でもまあ、親父さんは立派だったよ。自分の家より他の家を優先させて陣頭指揮執るんだから」


 しばらく、住職の酒井と斎藤という男性の話を聞いていると、安田と目があった。


「こちらは、一度、火事で全焼しています」安田は隣に膝をつき、小声で話しかけた。

「そうなんですか」実里も小声で返す。

「あの、私はこちらの方をご案内します」安田は立ち上がって言った。


 酒井は、よろしく、とだけ言って話に戻った。安田の後をただ黙ってついていった。講堂に着くと、庭が見えるほうに座った。最初に来た時は、咲いていた白い花がもうなくなっていた。


「少し、お話をしましょう。何か理由があって来られているのでしょう?」


 姿勢を正し、こちらに柔和な笑顔で語りかけてくる。色素の薄い綺麗な目だ。

「あの、名字が違うんですね」

「ああ、住職とですね?私は居候の身の上です」

「修行中なんですか」

「まあ、そのようなところですよ。私へのインタビューは良いんです。ええと、座禅はいかがですか」

「まだ分かりませんけれど、貴重な体験です。それに、仕事のストレスも解消されている気がします」

「そうですか。それはよかった」

「まあ、本当は仕事のことだけじゃありません」

「そうでしょうね。何やら熱心ですから」

「私は、救いのようなものを求めているとこのお寺を紹介してくださった吉田さんには言われました」

「難しいですね。それは、私も求めています」

「どうやったら、救われますか?」

「私には分かりませんが…。御仏の教えに従うことでしょうな」

「教えですか。そうして悟るんですか?」

「教えは文字になりません。本質は言葉にもならない。禅宗は元々、一子相伝です。師から弟子へ継がれるものです。しかし、私は衣鉢を譲られただけで、おっしゃられている悟りには至っておりません」


 そこまで言うと、少しだけ目を伏せた。


「あの、私は仏門を志して日が浅いのです。貴女が思われているような僧侶としての振る舞いもできているかどうか」

「正直なんですね。普通はそういうのを隠すと思います」実里は吹き出した。

「ここは、悩みを解決する場所ではありません。悩みそのものを有耶無耶にする場所です。少なくとも私はそう思います」

「あの、なんていうか私は悩みを解消してほしいとかそういうことを思っているわけでもないですし、目的がないというか…。ドライブで気分転換して、こちらでは特殊な体験を目的にしている観光みたいなもので」

「ええ。言葉にされない方がよろしいでしょう。結局、言葉にすれば小さいものです。抱える悩みなんて。あなたも正直ですね」

「いえいえ。そんな、私だって嘘ばかりついているのかもしれません。座禅をしているとそういうことが許される気がして、安心します」


 何が嘘で、何が本当なのか。仕事のこと?人生のこと?私は誰より正直に生きてきたはずなのに。そのせいで、今、こんなに苦しんでいるのに。誰にも言いたくない悩みを小分けにして、ここに流しに来たのだと思っていた。誰かに悩みを聞いて欲しい。そんな、単純な気持ちが自分の中にあるなんて認めたくないからだ。


 実里は、思ったよりストレスを抱え込んでいたことに気が付いて、俯いた。安田は、何かを察したように立ち上がった。


「では、戻りましょう」

「あの、あそこにあった花は枯れてしまったのですか?」

「どれでしょう?」安田は庭を向き、実里を横目で見た。

「あの、緑の茂みのところにあった白い花です」

「ああ、ええと、フタリシズカですかね」

「フタリシズカ?なんだか詩的な名前ですね」

「私も詳しくありませんが、毎年春ころに咲いています。今年は少し寒かったからか、以前に来られた時にまだあったのですね」

「そうですか。じゃあ、また来年の春まで待たないとですね」

「ええ。あの…」

「何でしょう?」

「正直に生きてください。きっと、救われるには正直でいることしかありません。私が言えたことではありませんが。とにかく、私たちができることなんてありませんけれど、あなたが正直に生きられるようにいつでも訪ねてください」


 この人はとても誠実に不器用で、将平に似ていると思った。どことなく信用できる理由が分かった。


「頑張ります。でも、こちらの体験が楽しいので、また来ます」実里は笑いながら言った。


 住職と斎藤に別れの挨拶をして、実里は帰った。最後まで、安田の不器用な気遣いがおかしかった。まるで、ここへは来るなという警告のようだった。彼の抱えている悩みも指のことも、聞くことはできなかった。彼がそうしてくれているように、自分も彼にはあまり込み入ったことを聞かないようにしたかった。それは、あそこで得られる安心感のために必要なことだと思えた。

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