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軽自動車には厳しい坂道が続いた。木々の葉は黄緑に近い。川は岩の間を駆けるように流れている。修行には良い環境なのかもしれないと実里は思った。
わきにある砂利の駐車場に止める。一周して、外観を見た。門構えは立派だが、ところどころ剥げている。趣はあるが、流行ってはいないのだろう。石畳を歩き、本堂らしいところへ向かう。奥に巨木が見え、廊下の脇には枯山水があった。宗派は違うと言うことだったが、どこでもこんな庭があるのだろうか。渡り廊下のようなところに、僧侶がいるのが見えた。彼も庭を見ている様子だが、表情は険しい。きっと、修行が厳しいのだろう。
奥に進んでいくと、先ほど見えた巨木があり、白い花が群生する庭があった。枯山水とは違う、普通の庭だ。
「御用ですか?」低く響く声がした。
振り返ると、先ほどの僧侶が入口に立っていた。無表情だが、少し警戒しているのが分かった。剃髪で、年齢は分からないが、端正な顔をしている。
「あの、すみません。今日、修行体験を申し込んだ者ですが」
「そうですか。こちらは寄宿舎です。向こうです。ご案内しましょう」
実里は、一瞬固まった。
挙げられた右手の人差し指が欠けていて、爪がなかった。彼は実里がその指に気を取られている様子を一瞥した後、意に介さず、進んでいった。後をついて講堂へ入る。体験者が壁を背にして座禅を組んでいた。
「予定表です。今日の座禅は午後からです」
さらに本堂の方へ、移動する。歩きながら目を通し、説明を受けた。本堂に入ると、香の匂いが飛び込んでくる。
「では、まず作務からです」表情を柔らかくして、僧侶は言った。
主に掃除だった。僧侶は見本を見せると、自分の作務に戻る。あとは自由だ。道具が古く、手間取ったが、作業自体は楽しかった。新しい職場では、慣れるために余計なコミュニケーションが多かったので、誰とも離さなくて良いというのは、気が楽だ。
庭の木々が風に揺れる音以外は何もない。吉田がこちらを薦めた理由が分かる。
昼食は申し込んだ通り、精進料理だった。参加者は十人もおらず、全員が自分より年上だ。檀家の婦人会というものらしい。普段から集まる仲なのだろうか。親しげだった。そのうちの一人が話しかけてきた。
「ねえ、あなた一人で来たの?」
「はい。初めて来たのですが、良いところですね」
「そうね。副住職もいい男だしねえ」
「どなたが副住職なのですか?」
「最初に説明してくれた人。私たちは半分、彼目当てで来ているのよ。あ、来た!」
「申し訳ありません。みなさん。実は、朝から住職は葬儀に出ておりまして、座禅と説法は私が行います」
「いいんですよ。若い人の方が」
参加者からどよめきが起こる。副住職は少しだけ笑みを浮かべ、講堂へ促した。廊下を歩く。季節は夏の入口で、日差しは強く、湿度が高い。右手に見える庭に降る光は、木漏れ日で、くっきりと葉の形を映している。影が揺れ、風が吹いたことが分かる。
「気になりますか?」
近くにいた副住職から尋ねられた。
「あ、ええ。少し」
「それは、風が?葉が?」
「え?葉です」
「そうですか」
それだけ言うと、先に歩いていた婦人会の集団に追いついて、中へ入った。
「これから、座禅を組んでいただきます。まず、最初に座禅というものが何か、ご説明いたします。修身一等を掲げる私どもの宗派では、座禅というものは、何かを得るための手段ではございません。座禅自体が目的でございます。只管打坐といいます。これは、少し難しいお話でした。そうですね、この座禅の時間の目的は、私を滅する。私、自分以外のものを感じることにあります。これもまた難しいですね」
副住職は眉を下げ、微笑んだ。
「多くの方には、繰り返しになってしまいますが、ご容赦ください。座禅を組んでいる間、いろいろなことが頭の中に浮かぶと思います。妄念や雑念という言い方をしますが、これは、振り払おうとしないでください」
副住職は、実里の方を見た。
「邪念、雑念、妄念は私、自分、自我のものです。振り払おうとすればするほど、とらわれてしまいます。『ああ、来たな』というくらいで、深く考えずに過ぎ去るのを待っていてください。もし、仕切り直したいと思った場合は、手を顔の位置、鼻の前に持ち上げ、合掌してください。私が警策で叩きに参ります。基本的に、私の方からあなた方を律するということはございません」
「説明ばかりでもなんですから。始めます。半跏、結跏のどちらでも構いません。足を組んでください。大丈夫ですか?」
はーい、と間延びした声が聞こえる。
「それでは、始めます」
開け広げられた講堂には、虫の羽音、鳥の声が流れ込む。座禅の邪魔をするようなものがたくさんあった。しかし、前回と違い、周りと自分の境界線が少しだけぼやけたように感じる。呼吸だけに意識が向かっている。生きている感覚が流れ込んでくる。
順調に進んでいるとはずだったが、誰かが咳をしたことで一気に集中が途切れた。そこからは、雑念や妄念と呼ばれるらしいものが頭の中をしきりに暴れていた。
純粋に、学問の世界を目指した彼には受け入れられないことのはずだった。たった一度、自分の彼女が他人にキスされたことでも、それが与えたショックは相当のものだったのだろう。
怖くて泣いていた私を見て、彼は何も言いだせなかったに違いない。自分がどれだけ傷ついたかということも、これから先の不安も。そういう優しさが彼には満ちていた。
実里は時々、彼の優しそうな眼を恐れた。その優しさを見せるために、心を冷たく、暗い場所へ追いやっているのだと本能的に気付いていたからだ。何もかもを本心で許すのではなく、理性で処理しているような冷たさもまた、あの優しそうな目には映っていた。
ふと、副住職を見遣る。彼もまた、そういう目をしている。激しい内面がきっとありそうだ。目が合った。彼は、首を傾げている。ばつが悪いので、叩いてもらうことにした。彼が歩み寄ってくる。警策が前に構えられたが、なかなか叩かれず、顔を上げると、彼は姿勢を低くするジェスチャーをした。実里は謝るように頭を下げた。
座禅が終わると、本堂に移り、茶が出された。基本的に、質素で無骨な感じがする寺だが、細やかな配慮はある。茶器は渋い風合いで、歴史を感じた。
「講話といっても、私が学んできたことをただお伝えするのでは、意味をなさないと考えます。あまり細かいことはお話しません。私どもの教えは不立文字で、書になりません。とはいっても、道元尊師は『正法眼蔵』にて、記しておりますがね」
副住職は初めて、声をあげて笑った。実里も笑ってしまったが、他の誰も笑ってはいない。副住職は実里を流し目で見た後、話をつづけた。
「いや、今日の座禅はなかなかよろしい。皆様のお心掛けが良いからでしょう」
彼女たちがようやく笑う。
「何も世辞ではありません。座禅というそのものが悟り。作務そのものも悟り。皆様の中に、何か得られるものがありますよう」
講話というよりは少し長い挨拶という感じだった。その後は片づけを少し手伝い、会が閉じられた。
婦人会の面々は、バスに乗って帰っていった。この後に、月に一度の集会があるらしい。実里は、庭にある木をもう一度見に行った。葉が落ちている。
「やはり気になりますか?」
声がする方を向くと、副住職が廊下に立っていた。
「ええ、気になってしまいます。でも、仏様は気にしてはいけないと言いそうですね」
「一切の執着は捨てなければなりません。ただ、私も気になってしまいます。いけませんね」
「でも、一生懸命、修行をなさっているんでしょう?だから、なんというかスタートが違うはずじゃないですか?」
「
「え?」
「高校の頃、倫理で習いませんでしたか?」
「私、現代社会だったので、うろ覚えです」
「ああ、私の頃はマイナーな教科でした。今は、もしやそちらが?」
「入試だけ見たら、現代社会が多いと思います」
「時代ですね。一切衆生悉有仏性というのは、生きとし生けるもの全て、仏になる性質を持ち合わせているということです」
「人間以外も?」
「はい、動物も草木も」
「意識は関係ないのですか?」
「心は空、空なればなくても構いませんね?まあ、私なりの解釈です。草木に意識があるんだという方が素敵ですね?」
「あの、案外、おしゃべりですね」
「え?ええ」副住職は力なく笑った。
「よく気づきましたね。私はおしゃべりなんです。お坊さんにしてはね」
「意外です」
「穏やかに、無口に見せることに慣れています。ずっと、寺におりますから」
庭に落ちている葉が力なく鳴った。
「私、悩みがあって」
「そうですか。悩むことを諦めてはいかがです?」
「え?」
副住職はふといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「諦めてしまえば楽になる。誰しも難しいと思っていることですが、悩むことを諦めてしまえば楽になりますよ」
実里も力なく笑った。それはシンプルで、シンプルだからこそ難しい。
「あの、また、来ても良いですか?」
「是非。住職の酒井か私、安田宛にご連絡ください。さあ、この辺りは急に暗くなってきますからお気をつけて」
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