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 一月末、遅めの新年会が部署合同で開かれた。決算期が近づき、忙しいにもかかわらず、管理職の休みが取れる日程で行われた飲み会は参加者が一様に仕事の疲れを忘れようと盛大に飲んだ。実里は上司のことが少しだけ気になったが、大勢がいる安心感からすぐに忘れて主賓側を楽しんだ。


 しばらくして、トイレに立つと、自分が相当酔っていることに気がついた。もう飲まないようにしようと考えて、トイレから出た瞬間だった。


 顔はもう目の前にあった。


 あまりにも現実感のないことに笑ってしまった。そして、何があったのかよく理解して泣き叫んだ。すぐに、店員と数名が来たが、上司は笑って「交錯しただけだ。何でもない」と説明した。


 女性の同僚が、すぐに家まで送ると申し出た。覚えていないが、錯乱状態だったのだろう。カメラもなければ、誰も見た人間がいない。それこそが彼がその瞬間を狙っていた証拠だと言えるのだが、状況だけでは、「疑わしきは罰せず」の前にもみ消されてしまうだろうと思った。上司には散々罵詈雑言を浴びせたような気がした。それでも、気が済むことはなかった。


 家に着いてしばらくすると、急にその瞬間のことが鮮明になり、震えが止まらなかった。落ち着き出すと、記憶は強固になって、ますます怖くなった。深夜になっても、それは止まず、実家暮らしの将平を、家に呼んだ。


「飲み会、大丈夫だった?」将平は玄関で靴を脱ぎながら聞いた。下を向いていたからか声は部屋の壁を反射した。それを聞いた瞬間に、涙がこぼれてきた。慌てて拭っても、将平には見られていたようだった。肩に回された手に込められた力はいつもより強く、しっかりと体温が伝わっていた。



 将平が別れを切り出したのは、実里の引っ越し準備が始まる三月だった。雨が降る日、実里の部屋に来た途端のことだった。


「俺のために別れてください」ただそれだけの言葉だった。


 それ以上のことをたくさん考えていながらも、たったそれだけを繰り返した。涙を堪える様子でひたすらに。実里はその言葉に将平の未練をひしひしと感じながらも、それを許すしかなかった。


 将平が帰った後、声をあげて泣いた。彼のことで泣くことはよくあった。今までとは全く違う、思い出にするために自分自身に言い聞かせるための涙だった。過呼吸を繰り返して、それを止めてくれる人がいなくなって、その寂しさにまた泣いた。目の奥が痛くなって、涙も枯れたと思っても寝ころぶと頬を伝うしっとりとした涙が出てきた。


 翌朝将平から感謝の長文メールには、結びにもう会わないことが誓ってあってまた泣いた。散々泣いて目が腫れあがった顔を見た時、休日であることを思い出し、彼が前々から別れ話をしようとしていたのだと気がついた。将平は国立の大学院に通う学生であるため、いつも実里のスケジュールに合わせていたからだ。そして、メールを振り返りながらどうして止められなかったのか考えた。それでも、自分に思い付くのは相談を聞く程度で、それは今まで何百回もしてきたことだった。


 彼が将来について、不安そうにしていた時、いつも「将平のやりたいようにして。私は付いて行くよ」と言っていたことを思い出した。自分は仕事が楽しくて、やめたくないということも言っていたのに。


 もう、将平と一緒にいた時間のどこを振り返っても、楽しい記憶の中に後悔が紛れ込んでしまうようになってしまった。できれば、こんなことに気がつく前に、そう、昨夜のうちに泣き過ぎて死んでいたらよかったのにと思った。


 しばらく、仕事の細かいミスが続き、残業の時間が増えた。注意力がなくなっての単純なミスだったのか意図して残業を増やしたかったからなのか、今となっては分からない。


 とにかく働いた。働いて、休日には電車とバスに乗って遠くのショッピングモールやアウトレットに行った。混雑が嫌いだった将平との思い出がない場所に行きたかったからだ。それでも、よくご飯を食べに行ったチェーン店を見つけて、日常に溶け込んでいた彼の面影にふと苦しくなったり、何気なしに選んだ映画に彼がよく言っていたことと似た台詞があって泣いてしまったりと一向に落ち着く気配はなかった。むしろ、どんどんと別れたことへの実感がなくなっていき、悲しみだけが大きくなった。


 何故言ってしまったのか。それだけが頭の中をぐるぐると廻る。それだけが原因ではないと分かっていた。それでも、きっとその言葉がなければ、彼は踏み切らなかったのだと思う。

いっそのこと、開き直ってみればよかったのかもしれない。ずっと、自分のせいにしていた。そうだ。私は悪くない。そう主張してみれば良かったのだ。


 なんて。


 二人だけのルールでは許されないことがたくさんある。それを積み重ねていくことが喜びでもある。だからこそ、勝手なことを言うことはできなかった。思いつく自分が悔しかった。行き場のない思いだけが募り、積り、生活を取り囲んでいった。彼の人生に私は必要なかった。それだけのことが、どうしても飲み込めないままだった。

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