9話 カミシロユイカ×カミヤマユカリ

 葵さんは恐らくドクペを渡されたのだろう。

 しかし、この程度の事態であれば彼は簡単に切り抜けられるはず。

 例えば、渡された飲み物を蓋を開けたと同時に手を滑らせ地面に落としてしまう、などの簡単な方法でこの場は切り抜けられる。


《…………》


 ドクペを渡された後、彼は無言だ。

 神代由衣夏さえも一言も発していない。

 一体何が起きているのだろう、まさか渡されたものに口をつけ、昏倒してしまったのだろうか。

 いやそんな訳がない。一体何が──。



《──葵先輩、奇遇ッスねぇ》



 ……まさか、そんな馬鹿な。

 この局面に、『神山ゆかり』が現れるなんてありえない。神山ゆかりは商店街にいるはず。

 しばし思案する。

 葵さんの意図を私は汲み取れていなかった、という事なのだろうか。いや、そんなはずはない。

 私の勘違いでなれば、答えば一つ。

 ──神山ゆかりが、葵さんに嘘をついていた、という事になる。

 商店街の薬局に居た、という事自体が「嘘」だった、そういう事だろう。


《叔母さんに呼び出されたんじゃなかったんじゃなかったッスか? しかも神代先輩と一緒にいる。おかしいッスねぇ》


 流石の彼でもこの状況を一人で打開する術はないだろう。

 そう考えた私は作業を中断し、部屋の片付けもせずに即座に葵さんの部屋を飛び出した。


《叔母さんの家に行ったら丁度買い物に出かけててな。戻るまで散歩がてら歩いてたら偶然神代に──》

《それ、嘘ッスよね?》


 走りながら考える。

 神山ゆかりは、帰宅するふりをして葵さんの家の前で待ち伏せをしていたのだろう。そして、彼が一度家に戻った事を把握していた。それからは彼を尾行していた。

 ここまでは分かる。

 しかし、アパートの中からは作業を終えた神代由代夏が現れる。とすれば彼女達は遭遇する事になる。そこで言い争いが必ず起きたはず。

 もし神山ゆかりが隠れていたのだとしても、彼女の性格上、神代さんに対して何かしらのアクションをとるはず。


 それから、何故こんな事になる……?

 ……駄目だ。理解が追いつかない。


《嘘じゃない。な、神代。それにお前、商店街にいるんじゃなかったのかよ》

《あーあれは嘘ッス》


 あっけらかんというゆかりさん。

 神代さんを抱き込んでの現状の強行突破に出る葵さん。

 ……恐らく、それの方法では無理です。

 赤信号で停車しているタクシーへ駆け寄る。

「すみません! 近衛森林公園までお願いします!」

 タクシーに乗り込んでイヤホンからの音声に集中しながら思案する。


《……繭墨くん、何を言ってるの?》


 ……やはり私が直接割り込むしかない。この場面で出来るのはそれくらい。


 落ち着け、私。

 高鳴る鼓動を収める様、胸に手を当てる。

 落ち着いて考えてみれば、彼はこの場面を無理に切り抜ける必要はないかも知れない。

 神代由代夏と神山ゆかりが勝手に言い争いをしてくれれば、矛先は彼には向かない。大丈夫、彼女達の口論の最中に私が──。


《神代先輩、ありがとうございます。盗聴器、やっぱりあったッスよね?》

《……うん、カメラもあったよ》

《やる事が姑息ッスねー優子先輩じゃないと思うんで、多分華先輩ッスね》


 終わった。

 彼女達は──協力関係だ。

 それならば神代さんが葵さんの家から出てきた際に二人が衝突しなかった理由も納得できる。


 しかし、その会話は葵さんの突破口になる。時間は稼げる。


《おい、カメラって何の話だ?》

 怒気を込めた葵さんの声が聞こえてきた。

 ここからは彼のターン。


《いやーそれがッスね──》

《ゆかり、お前には話しかけてない。黙ってろ》

《あのッスね……》

《「黙れ」と言った。次に口を挟んだらどうなるか分かってんだろな?》

《…………》

《返事をしろ、理解してないのなら何億回でも言う》

《……はい》


 葵さんブチギレである。

 恐らく演技だとは思うけれど。

 音声だけで感じ取れるこの威圧感。その場に居ない私がビビってしまうくらいの怒りを込めた口調だった。その矛先が自身に向いていたら、と考えただけでも身震いがする。


《神代、カメラとはなんだ》

《…………》

《お前も耳が聞こえないのか? 質問に答えろ》

《……あの、その……》

《そんなに僕を怒らせたいんだな。分かった、ならばこちらにも考えが──》

《あっあの、あ、葵くんの部屋にカメラが、あのあって、それをあの》


 よし、完全に会話の主導権を取り返した。

 私の仕掛けた機器を発見出来た嬉しさでつい口走ってしまったのだろうけれど、それは葵さんとっては付け入る『隙』でしかない。

 最早、叔母さんの家へ行くというどうしようもない八方塞がりを作ってしまった『嘘』も強引に流せる状態にある。

 この場は彼に任せよう。

 今度は私がピンチだ。


「すみません、行き先を変更して頂けますか?」

 私は運転手さんに声を掛けた。

「はい? どちらへ?」

「直ぐに元の場所へ戻って頂けますか? 忘れ物をしてしまいました。あと途中、ホームセンターへ寄って下さい」


 カメラの話をしている、という事は葵さんの家へ彼女達がくる可能性がある。撤収の準備をしないと不味い。


《意味が分からんな。一から説明しろ》

《…………》

 葵さんの高圧的な口調に神代さんは何も言い返せていない。


《全く……誰だ、こんな時に》

 そう彼が言った瞬間、私のスマホが鳴り出した。

 それに慌ててスマホを落としそうになる。着信に即座に応じる。


《…………》

 念のため、沈黙を返答にした。

 私の声がほんの少しでも彼女達に聞こえてしまう可能性を排除する。

 もし話しても問題なさそうであれば言葉を口にする。

《もしもし、あー再配達ですか? 今から家に? すみません、わざわざありがとうございます。でも僕、今外出してまして、19時以降なら家に居るかな……》

 時間稼ぎ、そして足止めの連絡だった。

 何という機転。発言許可も降りたと考えて問題ないだろう。


《ありがとうございます。全ての機器を一度外し、神代さんの設置した盗聴器とカメラのダミーを再設置します》


 私の仕事量が半端ない事になってしまったー!

 彼女の機器類全部破壊してしまいましたよ。どうしよう、割と真剣にどうしよう。


《あーでもいいですよ、申し訳ないですから取りに行きます。そのままで大丈夫です》


 ……ありがとうございます。

 彼の言葉を要約するとこうだろう。


『時間を稼ぐから、作業を続行して構わない。彼女達を家に入れる事はないから安心しろ』


 全面的に協力して頂けるというのは本当だったのですね。しかも電話先が私である事が露見するというリスクを背負ってまで伝えてきてくれている。


《わかりました。本当にありがとうございます、作業を続行します。彼女達を足止め、そして部屋には入れさせない様に誘導するという認識で動きます》

《はい、よろしくお願いします》

 そう彼が言って通話が終了した。


 直ぐにホームセンターへ行き、10分程待ってから会計を済ましタクシーへ乗り込む。

 葵さんの家の前で降りた所で、一人の背の高い若い女の子が立っている事に気が付いた。


「華先輩、葵の家に何か用事ですか」


 ──木村優子が、立っていた。

 私にも、関門が現れた。

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