第10話 さらばユーリク1

 10本ほどの触手が蛇のように海面をウネウネと進んでくる。間近に迫ると鎌首をもたげ、ラクーン号の船尾にへばりついている俺たちを遥か頭上から見下ろした。身をくねらすばかりでなかなか攻撃してこないのは、無力な俺たちを嘲笑しているのだろうか。

「どれ、始めるとしようかの」

 ユーリクは船尾にヨタヨタと立ち上がった。船が急角度で傾いているのだから、バランスがとりにくいはずだ。

「ユーリク、危ないぞ!」

 条件反射で叫んでしまったが、すぐそこに死が迫っているときに危ないもクソもないだろう。我ながらこっけいなことだ。こういうのを人間の悲喜劇というのだろうか。

「ほいっ」

 ユーリクが小さく杖を振った。手のひらに収まるほどの術理紋様が展開する。あんな小規模な魔道で、どう触手に対抗しようというのだろう? 反抗の意を認めた触手たちは気分を害したらしく、間を置かず一斉に襲い掛かってきた。俺は静かに目を閉じた。

(ついに死ぬのか)

 その割に心は妙に静かだった。この世界に来てまだ日も浅いが、思えば随分生きたような気がする。俺の情けなさはなんら変わることはなかったが、やれることはやった。元いた世界では出会えないようなヤツラと仲間になって、笑い、泣き、飯を一緒に食い、ほのかな恋心まで持つことが出来た。

 そう悪くない死かも知れない。

(それにしても、まだ襲ってこないのか?)

 いつまでたっても最後の時が訪れないので、俺は目を開けた。

「ん?」

 触手たちの様子が変である。細かく震え、痙攣しているのだ。そして突如、その柔軟さを失ったかのように硬直した。

「何が起こってるんだ?」

 触手たちの表面に白色の繊毛が生え出した。見る間にその密度を増していく白い繊毛のせいで、触手はまるで綿毛に包まれたようになった。そして完全に動きがとまったかと思うと、ボロボロと崩れ去っていく。

「あ、ああ……」

「カビの一種じゃ」

「カビ?」

「菌の中には、動物に寄生して宿主(しゅくしゅ)の栄養分を吸い取り、滅ぼしてしまうものがいる」

 ユーリクはこともなげに言った。

「触手を宿主にしたっていうのか?」

 この期に及んで我ながらなかなかの韻である。

「小さな術理も使いようじゃて。おお、クラーケンめ、利口じゃのう。寄生された触手を切り離しよったわ」

 先ほどまで遠巻きにラクーン号をを取り巻いていた触手たちも姿を消し、海面が静けさを取り戻した。あとはちょこんと突き出たラクーン号の船尾にいる俺たちしかいない。

「まずは沈まんようにするかのう。海は素材の宝庫じゃで、助かるわい」

 ユーリクが甲板を杖でトンと突くと、そこから芽が吹いて若々しい双葉が伸びてきた。

「な、なんだこれ?」

 次に茎が育ち、葉を広げ、あっというまに綺麗な花が咲いた。

「な、な……?」

 俺が驚いている間にも柔らかな下草が甲板を覆っていく。やがて甲板だったところは、そこかしこに美しい花が咲き乱れる小さな野原のようになった。おまけに白くて小さな蝶まで飛んでやがる。

「おおお?」

 グラグラと船体が揺れた。無理もない、さすがにもう沈むのかと思いきや、逆に海面から隆起していく。気づけば、俺たちは海面からこんもり盛り上がった小島にいるではないか。爽やかな風が吹き抜け、小さな砂浜に波が打ち寄せている。 

「は、ははは!」

 ついに俺は気が狂ったらしい。こんな景色は幻覚で一番ありがちなヤツだ。今日は気が狂ってもおかしくないことが立て続けに起こった。この悲しみから逃れて気が狂ったとしても、誰が俺を責める?

 そうだ、いっそあの可愛いチョウチョを追っかけよう。

「チョウチョ、チョウチョ、ハラヒレホレハレ」

「ほっほっほ、やはりお前さんは面白いのう」

「なんだい、ユーリク? 見てごらん、お花が綺麗だよ」

「しっかりせい、ゲンゴ。これは現実じゃ」

 ユーリクがビシバシと俺の頬をたたいた。

「ああ、クアリス、もっとお願いします」

「ちっ、しょうのないやつじゃ。じゃあ、目を覚まさせてやるかのう」

 ユーリクが杖を天に突き上げると、海面から数えきれないほどの触手が突き出てきた。

「うわああ、もう触手イヤ! 触手イヤ!」

 元来、大好物だったはずの触手は、今日ですっかりトラウマになってしまっていた。一瞬で正気に戻った俺は、触手たちから顔をそむけ身を丸めた。

「バカモン、よう見い!」

「あっ!」

 よく見ると、それは途方もなく大きい、肉厚な海草であった。そしてところどころに人の体が絡まっている。

「……」

 事態がよく呑み込めない俺は、しばらくその海草を凝視していたが、

「ル、ル、ル、ルヴィ様!」

 絡めとられているうちの一人は、黒い衣装に、赤錆色のマント、燃えるような紅い髪、美しい横顔……、ルヴィ様だ! 間違いなかったルヴィ様だ! そして、

「ダリアッ! クアリス!」

 それにビトー、ストランディル、サイファ、みんないる! 兵士たちや、船員たちも! 一様に意識を失っているが、頬に赤味があり、生きているのが分かる。

「この種の海藻は浮袋にたっぷり空気を持っておるでのう。酸素供給もばっちりじゃ」

 そういえば図鑑で見たことがある。ジャイアントケルプという昆布の仲間は、50メートルから、ときに100メートルにもなり、浮袋の浮力を利用して、海底から真っすぐに育つそうだ。それと似たような種類の海草がこの世界にもあるのか。

「よ、良かった…! 良かった…!」

 あまりの嬉しさに俺はおいおいと泣いた。本当に泣いてばかりいる自分には呆れてしまうが、誰だって泣くだろう、こんな場合はっ!

「ほっほっほ。グランザップのやつめ、誰を相手にしておるか気づいたようだの」

「グランザップ……、海の魔王か?」

「そうじゃ。自分のペット可愛さに、逃がそうとしとるわ」

 俺は海面に目を凝らした。この小島から、直線状に大きな波が立っている。海中深く何ものかが移動している証拠だ。

「じゃがのう……」 

 ユーリクが杖をオーケストラの指揮者のように軽やかに動かした。 

「そうは問屋が卸さぬわい」


 ドバアッ!


 杖が躍った空間から術理紋様が噴出した。そして恐ろしい速さで広がっていき、それに伴う強い風圧まで感じた。

 今までルヴィ様や、クアリス、ダリア、サイファの術理紋様を見たことがあるが、風圧など感じたことがなかった。というより、あのような物質だか光だか分からないものが風を起こせるものなのか。裏を返せばこの紋様はそれだけの質量を伴っているということである。

 そして―。

 完成をみたその紋様の広大さ!

 ユーリクを中心に、目測で周囲数百メートルに及ぶ空間が術理紋様に満たされ、複雑な公式や文言が、そのなかで絶えず形を変え、息づいている。その光のあまりの強さに直視できない。

「ゲンゴ、術理の深淵を……、魔道の真髄を見せてやろう」

「ユ、ユーリク、いったい、あんたは何者なんだ?」

「わしか? わしの本当の名を知りたいか、ゲンゴ!」 

 ユーリクが詠唱を始めた。普段のユーリクとは思えない、野太く、低く、確かな声が響き渡る。術理の紋様はその声に呼応した。描かれた数々の公式の解をはじき出し、それを具現化すべく働きを開始する。

「わしの名はデボワ! 緑常(りょくじょう)のデボワじゃ!」

「な、七賢者……!」

 沖合に、俺たちの島を取り囲むようにして蔓(つる)植物が繁茂し始めた。ただの蔓ではない。あのバカでかい触手よりも何倍も太く、しなやかだ。海面から伸びるそれは幾何学的な、そう、フラクタルを描いて巨大な壁を形成していく。

「このイケスはあの化け物には、少し狭いかのう」 

 いやいやイケスの直径は何百メートルあるか分からない。360度、ぐるりと回って、ようやく全貌を見ることが出来たが、それでもこの光景は信じがたい。

「ほれ、逃げ場を失って慌てておるぞ」

 確かに大きな波が弧を描き、あちこちを行ったり来たりしている。しかし、やがて逃げることをあきらめ、波はこの島に向かって一直線に伸び始めた。

「ほほう、健気にも向かってくるか」


 ザアアアアアッ


 触手が海面から出現した。だが問題はその数だ。周辺の海域、全てを埋め尽くす触手、触手、触手! 何百本、いや千本近くあるかも知れない。こんなの10本や20本、やっつけたところで意味が無かったんだ。

「いやあああっ! 触手はもういやあああっ!」

 俺は絶叫した。そしてついにその本体が海面に浮上した。赤黒くヌメヌメとした皮膚を持つ、イカとタコを混ぜたような巨体、そして数メートルはあろうかという巨大な単眼。そいつが俺たちを凝視した。無機的な瞳に睨まれる恐怖に身がすくむ。

「残念じゃったのう。この術理は二階建てなんじゃ」

 ユーリク、改め緑常のデボワがそう怪物に話しかけると、突如、海が持ち上がった。

「うわああああっ」

 海が持ち上がったとしかいいようがない。大きな泡と共に浮上しつつある物体から、滝のように海水が流れ落ち、真下から突き上げられたクラーケンの巨体が上昇していく。

 俺の前に姿を現したものは、もはや形容する言葉のない大きさの樹木だった。その幹からは無数の枝が伸びており、青々とした樹葉が隙間なく重なり、傘を開いた見事な大木である。それがまだまだ成長し続ける。見上げる俺はついに真上を向いた。信じられないことに大木のてっぺんは雲に届いていた。

 俺たちの小島はすっかり樹木の影に入り、陽が陰った。

「そ、そんな馬鹿な……」 

 俺はヘナヘナとその場にへたり込んだ。

「名付けて術理『天まで届く木』じゃ。お前さんの世界では、世界樹とでも言いよるかいのう」

「か、神か……!」

 俺の声は無様に震えた。これはもう魔道だの、術理などでは断じてない。奇跡だ。奇跡そのものだ。

「神?」

 デボワは、ふんっと鼻を鳴らし薄笑いを浮かべた。

「わしはただの意地の悪いじじいじゃよ」



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