第8話 魔女っ娘たちの最後

「回頭しますっ! 鳥舵いっぱいっ」

「馬鹿やろう、舵を切るときにいちいち敬礼なんかするんじゃねーよ!」

 サイファを怒鳴りつけるストランディル。ともあれ、船は左に急旋回し、目前の巨大な壁を避けようとした。

「うわあ、こっちもだ」

 その前にまた新たな壁が海中から浮上する。

「後ろにもだっ!」

 気づけば四方を壁に囲まれ、ラクーン号は行き場を失ってしまった。

「くそっ! 袋のネズミとはこのことだぜ」

 ストランディルが吐き捨てた。

「…………」

 サイファは舵を握りしめたまま天を仰いだ。術理の紋様が消失し、船はその推進力を失い、ゆっくりと停止した。ラクーン号は四方を高い壁に囲まれた海の囚人となったのだ。

「ユーリク、なんか手はないのか?」 

 俺は、ダリアの体を甲板に静かに横たえた。

「なーんも思いつかん。やれやれ、敵さんもしつこいのお」

 どんなときも決して口の減らないユーリクが壁を見上げてため息をついた。何をどうすればいいのか甲板上の誰も思いつかない。誰も言葉を発さない。しかし重苦しい沈黙に耐える必要などなかった。すぐさま触手の攻撃が始まったからだ。

 四方の壁が、その連結をほどいて無数の触手に戻り、ラクーン号の頭上から降ってきたのだ。

「ももも、もう終わりだあっ!」

 俺はただただ、絶叫した。それは兵士たちも、船員たちも同じだったらしく、甲板上は阿鼻叫喚の嵐だ。

 そんな中、突如として闇と静寂が訪れた。

「?」

 次に訪れる大破壊(カタストロフィ)を予期して、死を覚悟した人々は、キョロキョロと辺りを見回した。

 ―闇に包まれているのに?

 いや、完全な闇ではなかった。甲板上で一ヵ所、淡く光を発している場所がある。

「クアリスッ!」

 それは彼女を取り巻く術理紋様の光だった。彼女の重力障壁が、ラクーン号を海の藻屑に帰そうと落下してきた触手たちを、かろうじて受け止めたのだ。半球形の重力障壁を取り巻いた触手たちは、その密度で光を通さない屋根を形成したのだった。

 クアリスは目を閉じ、眉間に皺を寄せ、祈るように手を胸の前で組んでいる。

「クアリス!」

 もう一度名を呼びながら俺は彼女に駆け寄った。

「ゲ、ゲンゴ……」

 彼女の声が弱弱しい。たったひとりで、あれだけの触手の重量を支えているのだ。その消耗の速度は尋常ではないはずだ。いったいどれだけの間、彼女の力は持つのだろうか。


 ミシッ、ミシッ


 重力障壁を押しつぶそうと、間断なく触手が締め上げ、圧力を加えている。

「わ、私を抱いていて」

 俺は黙って背後から彼女を抱きしめた。

「ありがとう。父と母を助けてくれて。ありがとう。私のワガママを受け止めてくれて。わ、私、全部一人で抱え込んでいたから、独りぼっちだったから、誰か、気持ちをぶつける人が欲しかったの」

「何も言うなクアリス」 

「ごめんね」

「謝ることなんてないよ」

「今度は私があなたを守る」

「え?」

「ゲンゴ、離れてて!」

 術理の紋様が拡大し始めた。それに押されるように、俺は彼女を手放した。

「何をする気だ、クアリス」

 彼女は俺に向かって小さく微笑むと、短く、しかしするどく呪を唱えた。


 ヴワアアアンッ

 

 クアリスは最後の力をふりしぼり、重力障壁を爆散させたのだった。万力のように締め上げていた触手たちは、突然の膨張に耐えきれずズタズタに千切れ去った。

 ラクーン号の頭上に、青く晴れた空が取り戻されたが、衝撃で激しい波が巻き起こり、船体は揺れに揺れた。

 甲板上の人々はうつ伏せになり、何かにしがみつき、振り落とされるのを必死で耐えている。その中で、俺は見た。

 クアリスがスローモーションのように倒れていくのを。そしてそのまま海に落ちていくのを。彼女の体は波に飲み込まれ、あっというまもなく姿を消した。

「クアリースッ!」

 俺は海への落下の恐怖も忘れて立ち上がり、甲板を駆けだした。いや、駆け出そうとしたとき、

「止めろ! 死ぬぞ」

 ビトーに腕をつかまれた。

「離せ、ビトーッ! 見てなかったのか? クアリスが落ちたんだ!」

 ビトーは目を閉じ、首を振った。

「離せ、離せったらっ!」

「見て分からないのか! もう彼女は助からん!」

「馬鹿やろう、お前に何が分かるんだ、ビトーッ!」

 俺がいくらあがいても、ビトーの力はすさまじく、振りほどくことが出来ない。俺はがっくりと頭を垂れた。

「ク、クアリス! クアリス!」

 とめどなく涙が零れ落ちる。生まれてこの方、こんなに悲しいことはなかった。

「見ろっ、ゲンゴ! 泣いている場合ではない!」

 クアリスの必死の反撃などなかったかのように、再び海中から無数の触手が這い出してきた。

「そ、そんな」

「残念ながら、先ほどの攻撃では数十本を屠ったに過ぎない」

 ビトーが無念そうに言った。彼女は俺たちの死をほんの少し、先延ばしするだけに過ぎなかったというのか。そ、そんなこと、そんなこと……!

「絶対に許さないっ!」

 甲高い声がこだました。

「ダリア、気づいたのか?」

 いつの間にか、ダリアが俺の傍らに立っていた。だが様子がおかしい。目を見開いたまま、ぶつぶつ何事か呟いている。いや、こいつの様子がおかしいのはいつものことだが、そのいつもより更におかしいのである。

「ゲンゴ、アタシ、あんたの気持ちわかるよ」

「な、なんだこんなときに」

「アタシもみんなに気持ち悪いとか怖いとか言われてたんだ」

 俺のことを気持ち悪いと言ってたのはお前だけだ、と言いたいのを飲み込んで、ダリアの言葉に耳を傾ける。

「しょうがないよネ。人の心が読めるんだからネ。でも、クアリスはそんなアタシを怖がらずに受け入れてくれた! なんの裏表もなく受け入れてくれたの!」

 クアリスに裏表がない? 俺には表のクアリスも裏のクアリスも愛しい存在だったけどな。こいつ心を読めるくせに人を見る目は節穴か…いや、そんなことどうでもいい。ダリア、この期に及んでお前は何がしたいんだ?

「許さない……! クアリスを返せっ!」

 ダリアの瞳が萌黄色に輝き始めた。

「禁忌……解除」

 彼女の体から蛇のような紋様が湧きたち、妖しく鎌首をもたげた。

「き、禁忌?」

 それって、絶対に使っちゃいけないし、所持してもいけない術理公式のことじゃなかったっけ?

「むう。あの小娘、禁忌の術理を隠し持っておったのか」

 ユーリクが唸った。

「だよな? いいのか、それ?」

「露見すれば重罪じゃ。死刑もあり得る」

 そんな危ないものを持ち歩いているとは、こいつは本当に危ないヤツだ!

「な、何をする気だ、ダリア?」

「アイツの心を焼いてやる! 焼き切ってやる!」

 その口元には笑みが張り付いている。はっきり言って引くほど怖い表情だ。術理紋様の形が凶悪であれば、その呪(じゅ)の節も恐ろし気だ。ダリアの音痴の詠唱は、呪(のろい)のまじないにしか聞こえない。

 触手の動きがおかしい。やがてざわざわともがきだし、苦し気にのたうちまわり始めた。それ共に海面も踊り狂う。

「効いてる……みたいだっ!」

「わしにも詳しくは分からんが、直接、敵の自我を攻撃しとるんじゃろう」

 あんな訳の分からない化け物相手に、ダリアとは恐ろしい魔導士だ。

「これはあのガルシアというドラゴンの自我を喪失させた魔道と同系統のものじゃな。他者の自我を殺すとは恐ろしい禁忌じゃ」

 触手たちは狂乱している。これはとりもなおさず海中深くにいるである本体が苦しんでいる証拠だ。それはいいのだが、

「うげぇ、酔いそうだ!」

 あまりの船の揺れ方に、海の男であるはずのストランディルさえ、顔を歪めている。

「キィハハハハ! 狂え! 狂え!」

 ラクーン号は波に弄ばれ、ブランコのように上下し続ける。悲鳴を上げながら兵士が何人も海に落ちていく。

「こ、この揺れ方はやばいぞ、ユーリク!」

 俺たちはうつ伏せになり甲板にしがみついて耐えている。

「じゃが、止めろとも言えんじゃろ。何しろ、あの底知れぬ怪物を倒す唯一の手段かも知れないんじゃ」

「確かにその通りだけど!」

 かといって、兵士たちが海に落ちていく姿を正視できない。

「行きます!」

 突然、サイファが言ったかと思うと、

 ガクンッ

 船が加速し始めた。

「そうか! 触手がおかしくなっている今なら!」

「そうじゃのっ! 脱出の千載一遇のチャンスじゃ」

「いいぞ、サイファッ! 飛ばせ、飛ばせっ!」

 荒れ狂う海の中、更に大きな波が発生した。それはラクーン号を後押し、船はぐんぐん加速していく。ときに波の山を捉えると、ラクーン号は小さくジャンプするほどだ。サイファは、あまりの船の揺れ方にフラフラになりながらも、必死に魔道を維持している。

「うわー、前、前、前に気をつけろっ!」

 前方の触手が狂ったように旋回してくる。

「よっこらせっと」

 ストランディルがサイファの体を宙に放り投げた。

「はっ! 何をするでありますか?」

 空中で敬礼姿勢を取ったサイファはそのまま落下すると、ストランディルの肩にすとんと座る形になった。

「お前は、船を進めることに集中してろ! 舵は―」

 ガラガラガラガラ

 ストランディルが思いっきり左に舵を切った。危機一髪、触手はラクーン号の右舷をかすめ、致命的な打撃を避ける。

「―艦長の俺がとるっ!」

 サイファを肩車したまま、ストランディルの曲芸のような舵取りが始まった。

「おらあっ! 主舵いっぱあい! そいやあぁ! 鳥舵だ! サイファ、今だ! スピードを上げろ!」

「はっ! 了解です」

 ストランディルとサイファの急造コンビは、初めてとは思えないほどの息のあったコンビネーションを発揮し、襲い来る触手を次々と避けていく。

「お前、気に入ったぜ! どうだ、この船の機関がわりに乗組員にならないか?」

「はっ! 光栄であります」

「ストランディル! 引き抜きはご法度だぞ!」

 ビトーが苦言を呈した。

「はっはーっ! 固いこと言うなって!」

 ストランディルの不敵な笑顔を見るうちに奥に小さな希望が湧いてきた。

(もしかすると、逃げ切れるかもしれない)

 ―だけど。

 ダリアに目をやると

「死ネ、死ネ、死んじゃえ!」

 彼女は禁忌の術理の威力を存分に発揮している。触手たちは痙攣し、のたうち回り、苦しんでいるのは明らかだ。その禍々しい術理の蛇は、今やとてつもない大蛇に成長していた。それとももに、彼女の瞳は狂気を帯び、その顔は正視できないほど禍々しいものになっている。

―だけど、このままダリアを放っておいていいのか?

「危ないのぉ」

 ユーリクが、顔をしかめる。ダリアの鼻から一筋の鮮血が流れ出た。

「言わんこっちゃない! あんな化け物に真正面から精神戦を挑んだら、ああなるわい」

「ダ、ダリア、頑張れっ! あと一息だ!」

「死…ネ…、死ん…じゃえ…!」

 ダリアの声が徐々に弱弱しくなり、術理の蛇の勢いが陰っていく。

「ギァッ!」

 突如、彼女の鼻から血しぶきが舞い上がり、その眼球がぐるんと裏返っり白目になった。そのまま体制を崩したダリアは、転倒し、ガツンッと後頭部を甲板に打ち付け、動かなくなった。

「ダリアーッ!」

 狂ったように動いていた触手の動きがピタっと止まった。そしてスルスルと海中にすがたを消していく。さっきまで荒れ狂っていた海が嘘のように静まり返った。その海上を何事もなかったように、ラクーン号が快走を続けている。

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