第6話 北溟の恐怖

「お、おい見ろ!」

 甲板のへりから海を監視していた兵士が叫んだ。

「そ、空だ!」

 兵士が海面を指して言った。

「何を馬鹿な……」

 同僚があきれて海を覗き込み、そして絶句した。海があるべきところに確かに空があった。

「まるでこの船が空を飛んでるようだぜ」

 波が一つもないのである。完全な凪のせいで、海面が鏡面のようになり、空を寸分たがいもなく模写していたのだ。

「それにしても静かすぎる」

 波が全くない海は全くの静寂を造り出していた。

「おい、なんかやべえ感じがしないか?」

「た、確かに」

 平時なら、天上天下を空に挟まれた光景など、めったに味わえない絶景のはずだが、ユーリクが恐ろしい予告をしたせいで、かえって不安を掻き立てる。

「うろたえるな! 何が起こっても各自、為すべきことを為せばいいだけだ」

 ビトーは臆病風に吹かれた兵士どもに叱咤をくれると、

「老人、いささか怖がらせ過ぎではないか?」

 と、苦笑した。だが俺は知っている。この意地悪なジジイはこういうとき、嘘を言わない。危険察知に関しては、一度も外したことがないのだ。

 俺は瞬き一つせず、不気味なほど静まり返った海面を眺めていた。

「ありゃなんだ?」

 俺は奇怪なものが生えているのを見つけた。

「タケノコ?」

 海からタケノコが生えるというのもおかしな話だが、その数十センチほどの円錐はタケノコのように成長し、どんどん空を目指して伸びていくのだ。

 ―2メートル、3メートル……、

 伸びていくに従い、幹も太くなっていく。

 ―10メートル、15メートル……、

 その成長はまだ止まらない。兵士たちは騒ぎ始めた。

「全軍、戦闘態勢をとれ」

 苦笑を浮かべていたビトーも、口元を引き締め緊張の面持ちだ。多分だ。多分だが、俺はこいつの名を知っている。俺のファンタジー世界における知識が正しければの話だが。

 25メートル、27メートル……、

 ヌラついた野太い幹に無数の吸盤が見える。今やそれは誰にでも巨大な軟体生物の触手であることがはっきりと分かった。

 その高さはついに、30メートルの高さがあるラクーン号のメインマストを越えていく。

「いくらなんでも、バカでかすぎやしないか? は、ははは」

 ストランディルはすっかり酔いがさめたようで、乾いた笑いを発っしたが、

そこは帝国軍最新鋭艦ラクーン号の艦長だ。次の瞬間、豹変した。

「右舷、左舷、全砲門を開けっ! 機関士には釜を地獄の炎より熱くしろと言っておけっ!」

 大声で指示を下すと、船員たちは、「おうっ」と応え、それぞれの仕事にとりかかった。

 35メートル、40メートル……、

 触手はついに目測で50メートルを超えた。その先の長さを推し量るのは、もう難しい。それなのに甲板上の誰もが、ただただ見上げるという行為しか出来ないのだ。

「そ、そんな……!」

 あのドラゴンが可愛く見える凄まじい大きさだ。不思議と恐怖を感じないのは、目の前の光景が信じられず、受け入れられないからなのか。

 ユーリクは俺の傍らに立ち、静かに言った。 

「海の上では、忌避すべき名前じゃが、敢えて言わねばならん」

「ク、クラーケンだろ?」

「なんと知っておったのか。あれと遭遇した人間などそうはおらんというのに。さすがは外の世界から来た勇者殿じゃのう」

 こんなときまで皮肉を言えるジジイの神経の太さは、あの触手に匹敵するのではないか。

 その触手が思いもしない速さで、旋回を始めた。鏡のように平らだった海面は白く泡立ち、しだいに巨大な渦が巻き起こり、ラクーン号が木の葉のように揺れた。

「みんな、どこでもいい、しがみつけ―っ!」

 そう言うビトーも振り落とされないように、ヘリを必死につかんで、腰を屈めている。大きな波がひっきりなしに甲板を洗い、船が傾くたびに、甲板の上のものが、右に左に滑っていく。

「うわあああっ!」

 大木のような触手が、ぐーんと伸び、ラクーン号の頭上を通過する。見上げる人々には、悪夢だろう。なす術が全くないのである。触手はそのまま甲板を真横から薙ぎ払った。


 バキバキバキッ!


 恐ろしい力である。たった一振りで、三本のマストが全て根元から砕けた。

「に、逃げろっ! 倒れるぞーっ!」

 兵士たちは甲板をちりぢりになって逃げ惑う。行き場を失ったものは、そのまま渦巻く海へ飛び込んだ。この荒れ方では助かる可能性はまず低いだろう。

 踏みとどまったクアリスが、術理公式を展開しようとしている。倒れるマストを支えて、人々を救うつもりだ。

「ばかっ! 無理だっ!」

 俺はダリアをおぶったまま、強引にクアリスの手を引いて、走り出した。直後、さっきまでクアリスがいた辺りにマストが降ってきた。


 ズズズズズーンッ!


「ぐわあああっ!」

「ぎゃあああっ」

 その下敷きになった兵士は少なくない。ボルゴダ軍最強の焔獅子騎士団がまるで無力だ。

(嘘だろ? たった一振りだぜ?) 

 ボルゴダ帝国が誇る最新鋭艦がそれだけで半壊してしまった。触手はブクブクと渦の中に姿を消していく。

 しかしこの攻撃で、ようやく呪縛から解かれたものもいる。彼らは各々の役目を果たそうと動き出した。

「動けるものは散らばれ! 固まっていると狙われるぞ!」

 ビトーが指示を下す。

「そんなことしたってどうにもならん! 兵士を船内に退避させろ!」

「そうは言うが、ストランディル。 船内にいても船ごと沈められたら、同じことだぞ」

「そういやそうだな、じゃあ好きにしろ!」 

 そういうとストランディルは船尾に向かって走り出した。何をすればいいのか、どこにいればいいのか分からない俺は、その後を追うことにした。この男と一緒に居れば、戦況がつかみやすいと思ったのだ。ダリアを負ぶった俺の後に、クアリスとユーリクとルヴィ様も続く。

「おお、勇者様じゃねーか。あいつ、なんとか出来ねーのか、こう、ちょいちょいっと」

「出来るわけないだろ」

「だろうな、海賊やってたときでさえ、あんなしろもん、お目にかかったことがねえ」

(やっぱりこいつ海賊あがりなんだ)

 しかし、なんでそんなのが、帝国海軍の最新鋭艦の艦長なんぞやってるんだ?

「海が荒れそうなんで、釜を炊きっぱなしにしていてよかったぜ!」

 ストランディルは操舵輪が据え付けられた台座に飛び乗ると、伝声管に向かって、

「最大戦速! この海域を離脱する!」

 と怒鳴った。

「マストなんざ、飾りだ! 見てろよ、世界で一番速い船の実力を見せてやる」

 舵をしっかり握って固定すると、「ヨーソロ」と声を上げた。


 ガクンッ。


 船が加速し始めた。煙突から大量の煙を吐き出しながら、ぐんぐんとスピードを上げていく。

「もっとだ! 釜が焼けても構わん! じゃんじゃん燃やせ!」

 更に加速するラクーン号。

「速いっ!」

「へっへっへ、どうだ、俺のラクーン号は?」

 得意になっているところ悪いが、俺はストランディルに言わねばならぬことがあった。

「あ、ああ、あれを見て」

 猛スピードで逃げてきたはずなのに、なんと前方に、先ほどと同じような触手が屹立しているのだ。

「ストランディル、このままじゃ突っ込んでしまうぞ」

「ちくしょうっ、ヤツはラクーン号より速いのか? 主舵いっぱいだっ」

 ストランディルは、ガラガラガラ、と思いっきり舵を右に切り、

「左舷全砲門、射撃用意! 目標、でっかいタコの足だ! 風穴をあけてやれ」 

 伝声管に向かって叫んだ。


ドオオオーン、ドオオオーン!


 船体がびりびりと震えるほどの轟音と共に、次々に大砲が撃たれた。触手の近くに幾つも水柱が上がる。そして、そのうちの何発かが、触手を捕らえた。

「やったか?」

 しかし水の煙が晴れてくると、まったく無傷の触手が不機嫌そうにその先を震わせているだけだった。

「あんなに砲撃を食らってるのに!」

 さすがのストランディルも顔色が白くなっている。

「どうやら最強の船と部隊をもってしても分が悪いようじゃのう」

 ユーリクが呟いた。

「あんな化け物、見たことも聞いたこともねえ! ケンカにならねえよ!」

 ストランディル吐き捨てた。

「あれは、北溟の恐怖、魔王グランザップに飼われる一の役畜じゃ。邪悪で強力じゃじゃぞ」

「どうすればいいんだ、ユーリク?」

 だが、ユーリクは頭をゆっくりと振った。

「ここに至っては、方策など何もない。知と勇の続く限り、戦い続けるのみじゃ。生き残るためにな」

「生き残るため……!」

「そうじゃ。お前さんはただ生き残ることだけ考えろ」

 もとより、この世界に来てから考えていたことはそれのみである。俺は深く頷いた。

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