勇者
この時代、二刀流の剣士は稀である。
少なくともグリステルの知る王国の騎士団には──予備の小剣や短剣を帯びる者こそいるが──二剣を同時に持って戦う剣士はいない。王国の騎士団の訓練の中にも二剣の術理の錬成はないし、二剣使いを相手に戦う訓練もない。
だが彼女は、影の民の一部にそういう武器の用い方をする者がいることは知っていたし、育った教会にあった本で東洋には二剣の遣い手で非常に強い剣士がいたということも読んだことがあった。
実際にヴァハの二剣術は巧みで強力だった。グリステルは自分が二人の敵を相手にしているような感覚に陥った。それは蛮族の剣のような力押しの単調な手ではなく、どこでどう修行したものか複雑な軌跡や真に迫るフェイントを織り交ぜた、術理の裏付けのある技術と賢明の筋の通った手だった。馬上では手綱を操るためにヴァハが二剣を振るえなかったことが、初戦での自分の有利に繋がっていたのだということをグリステルは理解した。そして一撃一撃の鋭さと重さ。筋力もさることながら、そこにはグリステルを圧倒し、その意図する所を挫き、押し潰して殺す、という確かな意思──迷いのない強い殺気が確かに篭っていて彼女は仄かに哀しくなった。
しかしそれ以上ではなかった。
ヴァハと激しい戦いを演じながら、グリステルはこの戦いに対し、ヴァハに対し、自分に対し、どこか冷めてゆく感覚を意識した。
身体はヴァハと一誤必死のギリギリの戦いを演じ、目も耳も研ぎ澄まされてその戦いの為に注がれ集中の極みにあるが、その集中している自分を他人のように冷たく突き放して見ている自分がいるような感覚だ。
「違う。目は全てのものを見るのだ」
騎士団の教官であったクニップローデ卿にかつて「戦いの中、目は何を見るか」と問われたグリステルは「戦う敵を見ています」と答えた。
「違う。目は全てのものを見るのだ」
クニップローデ卿はそう言った。グリステルはその意味を初めて本当に理解した。
鴉頭の将軍、それと戦う自分。
グリステルの感覚はその二人を中心とする玉のように閉じてゆく。剣と剣とが交差し輝く火花を生じるその一点を中心に。
そしてその玉は、今度は逆にそこから周囲に向けて裏返るように急速に広がってゆく。
ヴァハと戦う自分の背中を守って戦うザジ。クロビスに付いて周囲に敵を寄せ付けないデックとニコラス。ティタ、オベル、メロビクスの三人は血と断末魔を伴う風となって牛頭の間を駆け抜けている。
戦場。平原。隊列を組んで前進する影の民。砦を背後に応戦する騎士たち。舞う砂埃。飛び交う無数の矢。高い空を飛ぶトビ。吹き行く風に揺れるイーベリスの花。
今、周囲一帯が全てグリステルの感覚の玉の中にあった。なぜそんな状態になったのか彼女自身も分からない。しかしその切っ掛けには心当たりがあった。
ザジだ。
彼がそばにいて、共に戦ってくれている。
その事実が、彼女の限界を取り払い、疲れと不安を拭い去り、一点に集中しながら周囲全体も把握しているという今の状態を導いていることは疑いなかった。
その状態が続く内に、グリステルには次第に敵であるヴァハの内面、心が分かるようになって来た。その剣筋、それを選ぶ理由、その先にあるヴァハの、神と自分の正義への狂信、そしてその先は──。
空っぽだった。真っ暗な虚空だ。神の恵みと図書の教会のシスター・ドリスが言ったようにグリステルが愛した神父は、バルサミ・クレェァ神父はそこにいなかった。ひとかけらさえも。匂いや気配さえも。
ああ──神父様はもうこの世にはいないのだ。
バルサミ・クレェァという名の優しく賢い神父様はもう、死んだのだ。
その事実がグリステルの感覚が形成する世界の球体を満たし、彼女は一筋の涙を流した。
次の瞬間、彼女の剣はヴァハの下段からの突き上げに寄り添って巻き込むように動いて、その首筋に吸い込まれていった。
さよなら
鴉の覆面が宙に舞う。
音と色を失う世界の中で、ヴァハの首から上がる血潮だけが鮮やかに陽の光を跳ね返していた。
ヴァハは驚いたように目を見開き、何かを言おうと口を動かしたが何も言わず、どう、と大地を打って倒れた。
神父さま
***
「……何故だ」
倒れたヴァハは切れ切れ問い掛けた。
「神の正義を行使する私が……何故……」
『もしもだぜ。グリステルのそばにいた俺がよ』
黙って立ち尽くすグリステルの代わりに答えたのはザジだった。
周囲では粗方戦いは収まりつつあった。牛頭の戦士たちは敗北しつつあったのだ。
『お前の側近の狼頭の中身と入れ替わったら、こいつはすぐに気付いただろうぜ』
「……」
ヴァハは最早言葉を紡ぐ余力もないようだったが、どういう意味だ、と問うような視線をザジに向けた。
『頭が良くて仕事はできる。だから将軍にまでなれたんだろうさ。けどお前は、神とその正義とやらにはえらくご執心みてえだが、周りの人間にはまるで興味がねえんだな』
ヴァハは目を閉じた。
そしてもう一度目を開けると、唇を結んでヴァハを見詰めるグリステルを見た。
再び閉じたヴァハの目が、開かれることは二度となかった。
グリステルは剣を胸の前に立て騎士の儀礼に則った礼をして、短い黙祷をした。
『終わったな。お前の勝ちだ』
「きみのお陰だ、ザジ。よく生きていてくれた」
『相棒が約束を見届けろってうるせえからな。おちおち死んでられなかっただけさ。で、どうするんだ。ちょっくら派手に騒ぎ過ぎたみたいだぜ? 砦に取り付いてる連中以外の敵がここを目指して集まって来てるみてえだが』
「…………」
『おいおいここまで来てお手上げかよ。何か策があるんだろ? めちゃくちゃでけえ落とし穴を掘ってあるとかよ』
「ヴァハは倒した。現王を守ることができなかったのは残念だが、幸い血筋の従兄弟が跡継ぎとなって王家は存続する。この様子なら砦は落ちないだろう。戦争をこの戦いで終わらせることは出来なかったが、王国の大敗は防ぐことが出来た」
『このままここで王様と心中かよ。鴉の頭と牛の頭かぶって逃げようぜ』
「白い鎧でか? 流石によし、通れ、とはならんだろう。だがきみはそのまま狼族として咎めも受けまい。逃げるなら逃げてもいいぞ」
『しばらく会わねえ内に意地が悪くなったな』
「どうかな。口の悪い相棒に似たのかもしれん」
『まあ……初めて出会ったあの見張り小屋で死んだと思えば。百年戦争きってのでけえ
「私も歌に歌われる魔界の将軍と最期を共にできて光栄だ」
『へっ』
「フッ」
「やれやれ、嫁もとらんままヒュームの戦争の只中で死ぬことになるとはの」
兜の面体を上げながら、ドワーフのデックがどこか他人事のように言った。
「私に後悔はありません。グリステル。あなたと共に戦えて、あなたの力になることが出来た。この御高配を光たる始祖エルフに感謝いたします」
息を整えながらティタがにっこり微笑んだ。オベルもその隣で頷いた。
「最後までお側におります。私の手に血が通ううちは、私の剣はあなたをお護りし続けるでしょう」
メロビクスはそう言ってグリステルの前に膝を折った。
「何を暗くなっておる。諦めるのはまだ早かろう!」
一人能天気にクロビスが明るい声を出した。
「ここには春光の将軍が、魔界の将軍が、エルフの戦士たちとドワーフの優れた鍛治師がいるのだ! 千の軍勢が来ようとも、二つに割って討ち破ることも無理ではないぞ!」
『いや無理だろ』
「優れた鍛治師を攻め手に数えるのか?」
「千の軍勢を割っても五百の軍の挟み撃ちに合うだけでは」
クロビスの前向きというには無思慮すぎる主張に影の民とドワーフとエルフが即座に反論した。
「あはははははっ」
グリステルは思わず笑ってしまった。
「何がおかしいアンメアリ!」
クロビスが抗議の声を上げる。
「すまない、クロビス。ふふっ、でも、ふっおかしくって……ザジやデック、ティタを許してやってくれ。影の民もドワーフもエルフも、人間の王を敬う風習がないからな」
「それは承知している。他国では他国の王の方が偉いのだ」
「その通り。だが私は違う。我が王国の神聖なる国王陛下が、千の軍を割り千切って捨てて見せよと仰るならば、無理を通すのが我が使命であり我が誓いだ。春光の将軍とその仲間たちは、一騎当千の鬼神となって全力を尽くそう」
『マジかよグリシー』
「鍛治師も鬼神にならんとだめか?」
「王を生かして逃す方向で検討しませんか?」
「それこそ無理であることは、ティタの方が分かっているだろう。下手な小細工が通じる戦局ではない。だが我々が一丸の火の玉となって敵にぶつかれば、存外勝つこともあるかもしれない」
『ねーよ』
「正気の沙汰ではないのう」
「でもほら、こういう感性もグリステルの彼女らしい所ですし」
『……最後まで付き合うか』
「生まれたからには一度は死ぬ。先に狼頭が言った通り、まあ今日は死ぬには良い日かも知れん」
「華々しく行きましょう。正直に言いますと私、色々気にせずに一度思いっきり戦って見たかったのです」
「と、いうわけだクロビス。我々は敵に突撃を掛ける。ニコラスと共に馬車を守ってくれ。従者の令嬢にも心配するなと伝えるんだ。ニコラス、クロビスを頼んだぞ」
「グリステル様……」
「そんな顔をするな。我々は死にに行くのではない。勝つ為に進むのだ。さあ行くぞ春光の兵団! 春光の兵団には勇者のみ!」
グリステルは長年連れ添った愛剣を高く掲げた。
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