玉杯

 策を一段躱されて一度は感情的になったヴァハだったが、冷静になるのも、状況を立て直す判断を下すのも早かった。まだ終わったわけではない。要は王が殺せれば、我々の勝ちなのだ。

 戦況はまだ、我々に有利だ。


 五つに増えた王の馬車は、五つの方向に分かれて逃走していた。

 その全てが偽物で、既に王を降ろして逃したか、あの小屋があった場所の近くに隠しているのでは?

 いや。その時間はなかったろうし、戦場のど真ん中に王を隠すのは危険過ぎる。

 私がグリステルなら、自分が直接護衛に付いて王の馬車を逃す。

 ではどの方向に?

 二台の馬車は砦の囲い壁と平行するように左右に別れて遠ざかる。

 一台の馬車は砦に飛び込み、そのまま城門まで通り過ぎて平原の戦場に飛び出して行った。もう二台は左右に回り込むように走りながら、もと来た道を戻るように動いている。

 ヴァハはマスクの内側で目を閉じた。


(玉杯は一つ。あとはもっともらしい空の杯。私があの女なら。私が、あの女なら──)


 ヴァハは目を開けた。


「二の部隊、三の部隊、砦に沿って左右に散った馬車を追え」

「ダル」「ダーダル」

「四の部隊、五の部隊は街道に戻って行った馬車だ。必ず仕留めろ」

「ダル」「ナギズ・クホブディ・ラン!」

「私は砦を抜け平原に逃げた馬車を追う。オゥロボ、一の部隊を連れて後に続け!」

『御意』


 敢えて戦場へ。

 私があの女ならば、王を連れて逃げる先は戦場だ。


***


 砦は混乱の中、王を迎え入れるために街道側の門を開け放っていて、王の馬車の内の一台が飛び込んで来たのでで、それを閉じようと動いていた。


 だが、そこに更に飛び込んで来た漆黒の一団があった。


 ヴァハたちの奇襲部隊である。

「敵襲! 敵襲! 敵襲!」


 平原から迫る敵の大軍団に対する防戦の準備に奔走していた兵たちは騒然となったが、直前に飛び込んで来た王の馬車が騎士団を出陣させるために開放されていた平原側の門から飛び出すのも、それを追ってやってきた魔物の騎馬隊が脇目も降らずに砦の内部を駆け抜けて同じように平原に飛び出してゆくのも止めるどころか攻撃の一矢さえ振るえずに、武器を抜いたり持ち直したりガチャガチャと鎧を鳴らして体勢を変えるくらいのことしか出来ず、呆気に取られながら見送ったのだった。


 グリステルは戦場に向けて駆け抜けた馬車の一団にいた。

 そして、ヴァハが彼女の護衛する真の王家の馬車を追い掛けて来るのを視界の端に捉えた。


(真珠の貝を見抜いたか……だが、望むところだ!)


 グリステルは嘯いた。

 ナターラスカヤ平原は北と東は森林に囲まれ西側を河で区切られている。

 グリステルはその河、ヴェーザル河に四隻の船を用意している。混乱の戦場を問答無用で駆け抜けて河まで辿り着き、船で脱出するというのが理想のプランだったが、自分がヴァハの策を見抜いたように、ヴァハもまた自分の策を見抜いたのだ。

 彼女はヴァハとの、バルサミ・クレェァ神父との絆のようなものを感じ、胸の奥に冷たい風が吹くような心地がして哀しくなったが、すぐに気を取り直して騎馬に拍車を掛けた。

 こちらは馬車以上に早くは走れない。

 狙いを定めて追われている以上追い付かれるのは時間の問題だった。


 平原では、既に王国の騎士団と影の民との戦いが始まっている。

 グリステルはタリエの手配で御者に成り代わったニコラス・ディバーラと、共に護衛の騎士として走る春光の兵団の仲間たちに声を掛けながら、そこかしこで繰り広げられている戦いの間を縫うように戦場を駆けた。


 その時、行く先を巨漢の豚男が遮った。

 グリステルはハッとしたが、すぐに彼ではないと分かった。武器は大きな槌で、身体はでっぷりと太っていたからだ。


 巨漢の豚男は同じ種族の豚頭を二人連れていた。馬車の一行の行手を塞ぎ、仲間が来るまで時間を稼ぐつもりのようだった。


「どけえっ!」


 グリステルは叫んだが、勿論それで道を開けてくれる相手ではない。騎馬だけなら跳ね飛ばして駆け抜けることもできるかもしれないが互いに繋がった馬車馬はそうは行かない。一頭でも縺れ、あるいは怪我でもさせられたならば、この戦場の真ん中では命取りである。


「くうっ!」


 だがこのままでは馬速を落とし、豚男たちと一戦交えざるを得ない。グリステルが歯噛みしたその時、


 ざんっ!


 一人の豚男を一刀のもとに斬り捨てた騎士がいた。

 勿論、春光の兵団の者ではない。

 正規軍のヘルムを被り、全身を板金鎧で覆った名も知らぬ王国の騎士だ。


「行け! 止まらずに!」


 騎士は叫んだ。

 身体の回転を剣の回転に変える巧みな斬撃で二人目の豚男を斬り捨てる。


「あなたのやるべき事のために! 春光の騎士よ!」


 小柄な騎士は巨漢の豚男の槌を剣で受け、そのまま全力を傾けて力任せに押し返し、馬車の進路から豚男を排除した。更に鋭い剣撃を重ねて叩きつけて豚男を防戦に追い込み、引きつけるつもりのようだ。


「神の御加護を!」

「ありがとう! 名も知らぬ勇者よ!」


 騎士の後ろを駆け抜けながらグリステルは短く感謝の言葉を投げ掛けた。


 そして神に、その救国の勇者の武運と無事とを祈った。

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