刺客

 夜の闇を切り裂いて飛ぶ漆黒に濡れた短い矢は、そうだと知識で知っているグリステルにすら全く見ることはできなかった。


 ただ、何かが鋭く風を切って飛ぶ音だけが驚く彼女の頭の上を掠めて通り過ぎて行った。


 グリステルは手綱を強く引いた。馬は急制動を掛け、嘶いて前足を必要以上に大きくもたげ、彼女は跳ね上げられるように振り落とされた。咄嗟に受け身を取って怪我こそしなかったものの、地面を叩くために素早く動かした肩が引き攣るように痛んで、グリステルは顔を歪めた。


 起き上がろうとしたグリステルは自分の顔に尖った何かが振り下ろされようとしているのを知った。だがそれを避ける全ての試みが間に合わないこともまた同時に理解して、彼女は身を固くしてその切っ先を凝視した。


 ガキッ


 目の前に別のギラつきが差し込まれ凶刃と交差して火花が舞った。


「グリステル様から離れろ」


 メロビクスだった。

 倒れたままのグリステルの頭の先から、もう一人の誰かが飛びのく気配がした。


 忠良なるエルフの少年はグリステルに矢を放ったのではなかった。その矢は樹上にあった彼女を狙う刺客を射るためのものだった。


「ご無礼を」


 メロビクスは短く断るとグリステルを飛び越えて刺客に追いすがる。


「メロビクス!」


 グリステルは身を起こして彼を見た。

 月明かりにぼんやりと照らされた夜の林道で、メロビクスは正体不明の刺客と激しい戦闘に突入していた。


 どうやら敵はフードを目深に被った暗殺者で、左手に金具で補強された手甲を、右手には手首から直接刃が伸びるような見慣れない武器を装備しているようだ。

 対するメロビクスはいつもの短剣二刀だった。


 それは剣戟の嵐だった。

 二つの殺意の竜巻の、縺れ合う鋼と火花の饗宴だった。

 得体の知れぬフードの殺し屋も、脈々と受け継がれて来たエルフの隠密術の体現者も良く訓練され研鑽を積んでいると見えた。


 時に無慈悲な死の機械の歯車のように、時に息の合った美しい群舞のように。騎士の剣技と違い、身体全体を一つの武器のように扱って回転し、地に転がり、宙に跳ねる二人の戦闘術は鏡に映したように近似しており、またその実力も伯仲していた。

 グリステルは殺人という恐ろしく罪深い行いであっても、その技術が突き詰められ至高の域でぶつかる様子は、巨匠の描く宗教画や歌姫の奏でる賛美歌のような美を帯び光を放つのだと知った。


 道に半ば伏したまま二人の戦いに見入ってしまっていた自分に、はっ、と気付いたグリステルは起き上がって腰の剣に手をやり抜こうとしたが、その姿勢のまま動きを止めた。

 メロビクスは──恐らく相手の刺客もだが──高度な戦技の応酬の中で呼吸一つ、瞬き一つの誤りも許されない集中の極みにあり、自分の加勢が彼の助けになるどころか、そのリズムや集中を乱し、足を引っ張ることになりはしないかと感じたのである。

 万一そうなれば、今のこの状況下で羽根一枚でもメロビクスに負担が増えれば、それだけで瞬く間に均衡は崩れ、メロビクスの敗北に繋がるだろうことは明らかだった。

 結果、グリステルは二人の織り成す残酷な死の舞踏を凝視しながら凍り付いたように動きを止めざるを得なかった。


 永遠に続くかと思われた刺客とエルフの殺人技の見本市に、ついに終焉の時が訪れた。


 メロビクスが左右から挟み込むように放った攻撃を刺客は右手の剣と左手の手甲とで完全に防いだ。しかもその手甲はメロビクスの右手の短剣を弾き飛ばし、メロビクスの右手は徒手となった。


 勝った、と刺客は思っただろう。刺客の集中の糸が切れたのがグリステルにも分かった。彼女は愛すべき彼女の護衛の名を叫ぼうとしたがその時、その刺客の集中の途切れこそがメロビクスの狙いだったのだと知った。


 メロビクスの左手から短剣がひらりと落ちた。

 右手がそれを掬うように受け取った時、空いた左手は既に刺客の手首を握り込んでいる。

 あっ、と声を上げる暇もない。

 次の瞬間、刺客の腹から胸をなぞるように銀の光が走り、身体が一回転して地面に叩きつけられ、上に覆い被さったエルフの青年がその喉元を短剣の刃で押さえ付けていた。


「待てメロビクス! 殺すな!」

「仰せのままに」


 グリステルに言われるまでもなく、メロビクスは尋問するつもりだった様子で、油断なく刺客を制圧したままグリステルが近づいて来るのを待った。

 二人のそばに来たグリステルは、メロビクスが肩で息をしており、身体から蒸気のように汗を立ち上らせているのに気が付いて、今の戦いが彼に取っても限界に近いものだったことを実感した。


「……殺せ」


 苦々しげに二人にそう言い放つ刺客の声に、グリステルは覚えがあった。

 その顔を隠すフードを彼女は無遠慮に暴いた。

 そしてそれが誰であるかを知った。


「お前は……!」

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