抱擁

「ああッッッ!!!」


 グリステルは叫んで飛び起きた。

 彼女は泣いていた。


「豪快なお目覚めね。小さなグリシー。いえ、今はもう大きなグリシーかしら」


 状況が飲み込めず、はあはあと荒く息をしながら辺りを見回すグリステルの傍らに、読書用の小さな眼鏡を掛けた老いたシスターが革表紙の本を手に腰掛けていた。


「お帰りなさい、グリステル」


 シスターが閉じた革表紙の本が、ぽん、と音を立てた。

 グリステルはその音を知っていた。


「シスター……ドリス」

「ええそうよ、グリステル。あなたが知ってる私に比べたら大分お婆ちゃんになってしまったけれど」


 眠りながら既に泣いていたグリステルだったが、シスターを認識した彼女は唇を震わせて、更にその両眼に大粒の涙を溜めた。


「シズダァ……ドリ……ずぅぅ……うぇええ……あぇええええ……っっ」


 そこから先は言葉にならず、涙と嗚咽と堪えていた様々な感情の迸りだった。


 使命と責任、不安と恐れ、そして大きな喪失。

 個人が背負うにはあまりにも大きな、あまりにも雑多で複雑な、積み重なる様々なこと。

 自らを律し、説き伏せ、言い聞かせてここまで来た彼女だったが、何かが切れてしまったのだ。

 気が付くと彼女は夢遊病のように馬の手綱を取り、自分が育った辺境の教会を目指していた。降りしきる雨の中を。


 両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくるグリステルをふわりと包んで抱きしめる腕があった。

 シスタードリスだ。

 その陽に干した布団のような香りに包まれたグリステルは心底安心している自分を意識した。そのことが、更に彼女の心を裸にさせて、漏れ出す感情の脈動を完全に決壊させた。


 グリステルが泣き止むまで、彼女が次に自分から言葉を発するまでのかなり長い時間、シスタードリスは何も言わずに彼女を抱きしめ続けていた。


***


「あれから……色々なことがあったの」


 泣きすぎて乱れた呼吸を整えようと努力しながら、グリステルはようやくそう言葉をひねり出した。


「私、騎士になって。王都に行って。訓練を受けて……それから、それから……」


 シスターは身体を離すと、仕草でグリステルに一度待つように伝えて立ち上がった。


「何か温かい飲み物を入れてくるわ。安心して。すぐに戻るから。こんな天気ですもの、神の恵みと図書の教会は今日はお休み。時間はたっぷりあるのだから、あなたは順番に、ゆっくり話していいのよ」

 シスターはそう言って立ち上がり、部屋を出て行った。


 一人部屋に残されたグリステルは窓を叩く雨とごうごうと唸る風の音に改めて気付いた。見れば服はゆったりした夜着に着替えさせられていて、髪も乾いている。


 今は……昼過ぎくらいだろうか。

 私は、どれくらい眠っていたのだろう。


「……ザジ」


 グリステルは亡くした相棒の名前を呟くと、また一人涙を流した。



***



「……そう。辛かったわね」


 グリステルの長い長い独白が一区切りしたのを受けて、シスターは短く感想を述べた。

 そして冷めかけたミルクを一口飲む。

 ベッドで身を起こし、話し続けていたグリステルも釣られるように手にしたカップから生温くなったミルクを飲んだ。


「私……分からなくなってしまったの。神父様に会うまでは、ザジを失うまでは、私の選んだ道は、戦争を終わらせることは……神の御心に叶う輝く正義だと信じていたのに……その光が、今は……見えなくなってしまった……」

「そう……」


「シスター、私……私どうしたら……!」

「雨が上がったわね」


 シスターはつい、と視線を窓に向けた。グリステルも釣られて窓を見た。シスターの言う通りいつの間にか雨は止み、切れた雲の間からうっすらと日の光が漏れ始めている。


「あなたがどうするべきなのか。私は答えを持たないわ、グリステル。多くの人は誤解しているけれど、神様ですら、誰かがその人の一生をどう生きるべきかの答えは持たない」

「………」

「ただご覧になって、受け止めてくださるだけよ」


 そう言ってシスターは微笑んだ。

 厳しい人だ、とグリステルは思った。だが、その厳しさをありがたいと感じる自分がいた。


「少し顔色が良くなったようね。何か食べる?」


 グリステルは首を振る。


「そう。どう? あなたのお墓を見て行かない? 立派なお墓に誰のものか分からない腕が葬ってあるの。自分のお墓参りなんて、中々できるものじゃないし」


 シスターは立ち上がり、部屋の衣装入れから洗って畳んである僧衣を出してグリステルに差し出した。


「墓地にはこの戦争の戦没者の慰霊塔もある。ザジさんと、あなたの大切な仲間たちと。お花を備えて、一緒に彼らの魂の平安をお祈りしましょう」

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