午睡

 グリステル・スコホテントトは夢を見ていた。


 いや。正確には彼女を押し包んでいたのは夢と呼ぶには抽象的なイメージの断片、感情のうねり、そして世界を焼き尽くすような何かの熱だ。


 いつもなら理不尽な状況に抗い、戦い、知恵と勇気でそれを乗り越えようとする彼女だったが、今回ばかりは椅子に縛り付けられて無理やりに見せられる舞台劇のように、ただただ押し寄せる記憶の断片に翻弄されるしかなかった。


 始めは暖かな日差しと大量の文字だった。

 文字列の意味までは分からないが、しかしそれは賢く、優しく、おおらかで、文字列が彼女の身体を洗うようにその周りを渦巻いて彼女は彼女自身に成ったと感じた。


 悲鳴が上がった。

 それはどろっとした重みのある闇を連れて来た。

 不安。息苦しさ。恐怖。彼女の小さな手を引く、大きな手。

 だが、ちょっと注意を逸らした瞬間にその手は虚空に搔き消えて、彼女はそれをしっかりと握っていなかったことを後悔し、自分を責めた。


 鉄と血。硬い石畳。号令。蹄の音。そしてまた鉄と血。

 このイメージは、ぼやけたりはっきりしたりしながらかなり長く続いた。

 だがその筋書きのないループに、炎と爆風とが終止符を打った。


 巨大な豚の顔。自分が戻した吐瀉物の匂い。ぐるりと世界がひっくり返り、混乱して天と地とを見失う彼女の手を、豚が掴み、冷たい水底から抱え上げる。彼女は咳き込む自分を意識した。


 暗い穴。どこまでも続く。背中に羽根の生えた小さなフェアリーが、龍の眠る地の底へと導いて、彼女は龍の首を草刈り鎌で斬り落とし、草刈りを監督しているシスターに「切れたよ!」と報告する。シスターはにっこりと微笑んで彼女を褒め、温泉に入れて、掌から溢れるほどの金貨を持たせる。


 金貨は馬に変わって、彼女を乗せて走りだす。

 手には剣。胸には鎧。敵を斬り、射倒し、走る。

「手首は柔らかくだ! 何度言わせる!」

 誰かが彼女を叱責する。

 いや、叱責されているのは羽根帽子の若い男だ。

 敵を斬り、射倒し、走る。鎧を着て、棍棒や錆だらけの剣で武装した土の塊たち。敵を斬り。射倒し、走る。

 いつの間にか、隣には同じように馬に乗る豚男がいる。

 敵を斬り、射倒し、走る。

 いつの間に、後ろには数十の武装した騎士たちがいる。

 敵を斬り、射倒し、走る。

 羽根帽子。大剣。エルフとドワーフ。そして絹のローブの商人。

 敵を斬り、射倒し、走る。

 土塊など我らの敵ではない。

 この道の、この世界の、その先へ。

 彼女は隣を走る豚男を見る。豚男は頷く。

 それだけのやりとりで彼女の勇気は何倍にもなり、体は軽く、心は強く勇敢になるのだった。

 敵を斬り、射倒し、走る。


 そこにさっ、と何かが横切る。

 黒い大きな鳥だ。

 いや、大きな手だっただろうか。


 次の瞬間、全てが消える。

 仲間も。馬も。手にしていた剣も。胸にあった鎧も。

 彼女は豚男の名を呼ぼうとしたが、どうしてもそれが思い出せない。

 気付けば足元の泥が胸まで彼女を飲み込んでいて、圧迫されるその圧力で息が苦しい。

 彼女の体が泥に沈む速度は速くはなかったが確実に一定の割合で彼女を吸い込んでゆく。


 目の前に豚男が現れる。


 ●●ッ!


 彼女は助けて貰おうと豚男の名を呼んだ。ようやく思い出したのだ。だが、呼んだ端からもうその名前が分からなくなって、彼女は死の恐怖に抗いながら不可解な自分の記憶の揺らめきに混乱した。


 豚男の顔が近づく。

 彼女は安堵して、助けてくれ、と言おうとするが、その目が驚きに見開かれる。


 それは豚男じゃない。

 がらんどうの眼窩から血を流すそれは、空っぽさに皺を寄せた、豚男の豚顔のべろんべろんの皮だけだった。


 彼女は悲鳴を上げた。


 次の瞬間、天と地と彼女自身とに亀裂が入り、ガラスのような音を立てて、粉々に割れた。

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