別離
「ザジッッッ!!!」
グリステルは叫んだ。
直前までの様々な感情はどこかにすっ飛んで、彼女は倒れたザジに駆け寄ろうとした。
だがそれを、大きな黒い翼が遮った。
「いけないグリステル。彼は、もう……」
行く手を阻むかつての恩師をグリステルが、きっ、と睨む。彼女が何かを言おうとした瞬間、戦場に高らかな
「ギネラレ・ヴァハ」
「分かっている」
狼男の呼び掛けに答えたクレェァは、もう一度グリステルに言った。
「時間がない。私と共に来なさい小さなグリシー。あの頃のように、また一緒に暮らそう。本を読み、食事をし、私の腕の中で眠るんだ。何も心配はいらない。君の行く道は、私が……」
クレェァはそこで黙らざるを得なかった。そして身を躱さざるを得なかった。彼と彼に従う戦士長の背後から、力強いハルバードの一撃が振り降ろされたからだ。
二人は咄嗟に左右に分かれて跳んで、その攻撃を避けた。
その少しだけ開いた空間から、豚顔の巨漢が飛び出し、グリステルの前に背を向けて立った。
「ザジッ! 無事だったか!」
返事は苦しそうな咳だった。
『グリステル。良く聴け。俺がさっき馬を捨てた辺り。ディバーラの坊やが泥に浸かって倒れてる。合図したら、坊やを助けて逃げるんだ』
「待て。きみはどうする⁉︎」
『時間を稼ぐ。なぁにすぐ後から……』
「嘘だ! そう言って後から来た奴はいない!」
『今まで秘密にしてたがよ。おめえはな、グリステル。俺の死んだ女房に似てるんだ』
「なっ……!」
『俺の前で死なねえでくれ。若い奴を助けてやってくれ。俺たちには、春光の兵団には、お前が必要だ』
「ザジ……!」
その時、グリステルたちがいる辺りにも王国軍が放った弓矢の雨が降って来た。三人はそれを躱そうと動いたが、ザジだけは違った。彼はドンッとグリステルを後ろへ突き飛ばし
『行け! お前のやるべきことをやれッ‼︎』
そう叫んで、二人の敵に向かって駆け出した。
彼の名を呼び、追いかけそうになったグリステルだったが、全身全霊の力で無理矢理後ろを向いて彼女は駆け出した。
背後では撃剣の音が聞こえ遠ざかって行くが、彼女はその意味を胸の底へ強く押し込んで無視した。
(ザジ……! ザジ……! ザジ……!)
得体の知れない強力な感情がグリステルの中で暴れ回り彼女を翻弄しようとするが、彼女はそれを両の足に込めて、ただただザジが捨てた馬がもがく泥の堀を目指した。
そこにはザジの言った通り、傷付いたディバーラが半分泥に浸かるようにして倒れていた。
「ディバーラ! ニコラス! しっかりしろ!」
「う……スコホテントト……様……」
「撤退だ! 逃げるぞ! 起きられるか⁉︎」
頭を打ったのか、ディバーラは朦朧とした様子で、一人で立って走るのは難しそうだった。
幸か不幸か戦局は混迷を極め、王国軍と魔物とは乱戦に陥っていて、戦場の一番外側で泥を泳ぐ二人に構う者は今はいない。だが、もたもたしていればどうなるものか分かったものではなかった。
「掴まれ。ここから離れる!」
グリステルはディバーラの返事を待たず、彼を助け起こし、肩を入れて支えた。
「グリステル様ーっっっ!!!」
名を呼ばれて顔を上げれば、白馬に跨ったエルフの隠密戦士、メロビクスがいて、泥の堀の向こう岸からロープを投げて寄越した。
「有り難い!」
「馬で引きます! 伏せてください!」
グリステルは泥の中に伏せ、ロープを腕に巻き付けて、ディバーラをしっかりと抱き抱える。
「二人は無理です! 腕が抜けますよ!」
「駄目だ! 絶対に助ける!」
「追っ手がそこまで来てるんです! しばらくはそのまま引きます! グリステル様まで助からなくなる!」
「なら尚更だ! 早くやれ! 命綱もディバーラも、私は絶対に離さない‼︎」
メロビクスの言葉を裏付けるように、左手から複数の騎馬と土煙が近づいてくる。
「……備えてください!」
メロビクスは鐙を入れて馬を走らせる。ロープが張ってグリステルの腕に、ぐん、と負荷が掛かった。
「ぐう……っ!」
その想像以上の牽引力にグリステルの腕は軋みを上げその痛みに彼女は呻きながら歯を食いしばった。
ロープに引かれたグリステルとディバーラの身体は加速して泥の堀の表面を滑るようにしてそれを越え、遠心力に振られながら硬い地面に乗り上げる。
ごけんっ
ロープを持つグリステルの肩が外れた。
「……!!!」
グリステルは声にならない悲鳴を上げたが、ロープを離すことはしなかった。噛み締めた奥歯が、ギリッと音を立てた。
「離して……ください……僕を……」
左腕で抱えるディバーラが弱々しくそういった。グリステルは歯をくいしばったまま、首を激しく振ることでそれに答えた。
もうこれ以上、一人でも仲間を失うことは御免だった。
「坂を上がります! 岩に注意して! 森に入ったら馬を止めますから!」
巧みに馬を操りながら、メロビクスが叫ぶ。
見上げるようにして前方を見れば、森までは百メルテほど。だが、身体が千切れるような負荷と外れた肩の激痛に耐えるグリステルにはその距離は千メルテよりも長く感じられた。
地面の凹凸で身体が跳ね、その度に腕は軋み肩は気が遠くなるほどに痛んだ。
駆ける馬に引かれて坂を上がりながら、グリステルは最後にザジがいた場所を、彼が戦っているであろう場所を目に焼き付けようと身体を捻ってその方向を見た。ついさっきまで自分がいた場所だ。
その瞬間。
その場所にパッと赤い輝きが光った。
どーん、と爆発の音が轟いた。
ザジと二人の敵はその炎と、ぶわっと広がった噴煙の中に見えなくなった。
ザジが、炸裂弾を使ったのだ。
「……ザ……ジ……」
グリステルの中にザジと過ごした様々な場面の記憶が怒涛のように押し寄せた。
出会い。戦い。戯けた掛け合い。小さな諍いとお互いに不器用な労わり。声。横顔。肩を竦める仕種。ハルバード。焚き火。大きな手。
記憶の氾濫は彼女の統制を受け付けず、心を掻き乱す奔流となって彼女の中を乱暴に駆け巡り、一点に凝縮し、光と炎になって弾けた。
「ザジーーーーーッッッ!!!!」
絶叫に、跳ねて跳んだ涙の雫が震えた。
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