一瞬

「久しぶりだね。小さなグリシー。いや……もう大きなグリシーかな?」


 優しく語り掛けるその声は、グリステルの育ての親であり、教師であり、兄であった、彼女の育った教会のバルサミ・クレェァ神父そのままで、彼女は理解が追い付かないまま全身に鳥肌が立つのを感じた。


「神父さま……神父さま……」


「そうとも。私だ」


 クレェァ神父は柔らかく微笑んだ。

 その顔は、十三年前。神の恵みと図書の教会防衛戦で別れた時と何ら変わりなく、ただ髪の毛の色だけが真っ白に変わっていた。


「神父さま……神父さま……」


 そう呼ぶ以外に言葉が出ない。

 グリステルの全身は震え、力を失い、剣は勝手にだらりと下がった。


「十一年……いや。十二年ぶりか。立派になったね。グリステル」


 神父の声が耳から入る度、彼女の背筋には甘い痺れのようなものが走って、手先は足先は力が入らなくなって行った。


「神父さま……あたし……あたしは……」

「なぜ、王国の味方をしている?」


 神父の問い掛けに、グリステルはびくり、と身を縮ませた。


「仲間に影の民がいるな? なら悲劇の真相を知っているはずだ。王国の、卑劣な陰謀を知っているはずだ。それなのに何故、王国の味方をして戦う。影の民や、古の民を巻き込んで。妖精と呼ばれる諸民族もまた、ヒュームの王国が薄暗い森に追い立てたまつろわぬ民の末裔だ。彼らを煽動し、仲間同士で血を流させて、心は痛まないのか?」


 グリステルの全身から汗が噴き出した。何かを言おうと小さく口を開いたが、喉には酸っぱいものが詰まったようになって、発音の一文字も、息の一つすら吐き出すことができない。


「いや、いいんだ」


 一度は厳しい表情を見せたクレェァ神父は、再び柔らかな表情に戻った。


「これは私のせいでもある。君を教え導く立場だった私が急に目の前から消えたのだから、君が道に迷うのも無理はない。私は神にその罪の赦しを乞い、そして同時に君の罪を赦そう」


 クレェァ神父にそう言われて、グリステルは心から安堵している自分を意識した。


「神父さま……神父さま……」

「私と来なさい。グリステル」


 クレェァ神父ははっきりとそう言った。

 グリステルは水を浴びせられたような心地で混乱した。


「過ちを正そう。私と来て、共に戦うのだ。私のそばにいれば、君がもう迷うことも、道を間違うことも……」


 風を裂いて矢が飛来した。

 クレェァはそれを上体を反らすことで難なく躱した。


『そいつから離れろッ! グリシー‼︎』

「……ザジ」


 クレェァは小さく舌打ちをする。

 ザジは泥の堀の向こう側から勢いを付けて馬を跳躍させ、その背中から更に跳躍してクレェァにハルバードを振り下ろした。


 ぎぃんっ!

 だが、それを二叉槍バイデントで受け止めたのはクレェァではなかった。


「ディスパテル・ラサ・セタスクリマ」

(裏切り者の豚頭が)


 狼の顔の戦士長、オゥロボである。


狼頭族ブズレイン! どけ! 邪魔をするな!』


「ランゲダレソー・ノンマルトス……エト・ノンゲン・パラ・ダ・フィーヨリルシタ!」

(言葉までヒュームのそれか……その醜態、俺が終わらせてやる!)


『うおおおッッッ!!!』


 激しい戦いが始まった。

 お互い長い武器を身体の一部のように扱い、実力は伯仲していた。

 一撃の威力ではザジのハルバードが、攻撃のスピードではオゥロボのバイデントが僅かに優っていた。

 だが二人はお互いにそのことを解っていて、自分の不利が決定的にならないよう技で劣勢をカバーしていた。

 バイデントが唸りを上げて連撃を放てば、ハルバードはそれを巧みにさばいた上で重たい一撃を返す。引きの速さでそれを躱した狼が鋭い突きで急迫すれば、豚は回転の遠心力を乗せた強力な弾き返しでそれを防ぐ。力と技、速さと柔らかさ、大胆さと慎重さ。目まぐるしく繰り出される二人の槍撃の応酬は、繰り返し練習して磨き上げられた一対の演舞のようだった。


「ザジ……!」

「さあ! 決めるんだグリステル! このまま邪悪な王国の手先として悲劇の上塗りを続けるのか。それとも私と来て、その過ちを正すのか!」

「神父さま……!」

『ダメだ! グリステル! そいつの言葉を聞くなッ‼︎』


 ザジは叫んだ。彼の注意がグリステルに向いたのは瞬きの一瞬だった。だが、オゥロボにはその一瞬で充分だった。


 ドッ


 狼の戦士長の二又の槍が、ザジの胴体を捉えた。

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