箱罠

 グリステルは眼下の平原を見渡した。


 カッシアの平原。時間は夕方に差し掛かろうかというところ。

 左手に影の民の陣。右手に王国軍の陣。

 戦線は膠着していて、今は睨み合いのような状態になっている。

 ダークネスが嘶く。

 彼女は鬣を撫でて、跨る愛馬を落ち着かせる。


『グリシー』


 大柄の豚男が馬を寄せて来た。


枸橘からたちの隊からも穴熊の隊からも狼煙が上がった。いつでも行けるぜ』

「うん。皆の様子は?」

『落ち着いてる。新人の坊やもだ。何だかんだ言って、俺たちの隊が一番場数を踏んでいるしな』

「そうか」

『なあ、グリシー』

「なんだ。ザジ」

『もうお前が戦場に立つ必要はねえんじゃねえか? 春光の兵団は、全体でもう百五十騎だ。隊長たちも優秀で、兵たちの士気も高い。定番の戦法は兵どもの身に付いてるし、大将が先陣を切らなくても……』

「兵たちに命を賭けさせ、自分は安全な場所にいろと言うのか?」

『大砲を使おうぜ』

「それはしないと言ったはずだ。どうしたザジ。最近のきみは、私が戦うことすら嫌がっている。きみとの約束のための戦いだぞ?」

『それはそうだがよ。俺にゃお前が……』

「私が。なんだ?」

『……なんでもねえ。戦いが終わったら話そうぜ』

「うん。また殿を頼む」

『もう俺たちの隊にひよっ子はいないぜ』

「慣れたと思った頃が一番危険なんだ。後ろから全体を見て、崩れそうな所を補強してくれ」

『死ぬなよ。グリシー』

「きみもな。ザジ。行こう」

『ああ』


 二騎は馬主を返すと、号令を待つ春光の隊の元へ向かった。


(俺にゃお前が……どうも死に急いでるように見えるんだ)


 ザジは不吉を嫌って飲み込んだ言葉を反芻した。



***



「放て!!!」


 グリステルの合図で点火された雷轟弾が煙の尾を引いて宙に舞う。


「突撃!!!」

 鬨の声が上がり、五十騎が一体の怒涛となって戦場に押し寄せる。


 敵の頭上で、その足元で、次々と雷轟弾が炸裂する。仲間たちの雄叫び。火薬の匂い。馬の呼吸の湿った息とその駆ける振動。

 いつもどおりの戦いの始まり。


 しかし先頭を行くグリステルは、駆け降りる先の戦場に微かな違和感を覚えた。


 いつもと様子が違う。


 なんだ?


 雷轟弾が炸裂したのに、隊列が乱れていない。それどころか、馬は微動だにしていない。敵兵たちは動かない馬から降り、こちらの突撃に対して当たり前のように陣形を整えつつある。


 あれは……木馬……?

 全て偽物の馬だ!


 罠か!!!!


「止まれ! 全隊停止!! 停止だ!!!!」


 グリステルは声を張り上げたが、五十騎の上げる突撃の怒号と蹄の音に掻き消され、その指令が実行されることはなかった。


 彼女自身も手綱を引き上げて、愛馬ダークネスに急制動を掛けた時、その足元に異変が起きた。


 ダークネスの足が、その身体全体が、がくっと地面に飲み込まれた。


「落とし穴……いや! 泥の沼か⁉︎」


 ダークネスが悲鳴を上げる。もがけばもがくほどその身体は泥に沈んで、脱出は更に困難になってゆく。見回せば仲間の騎馬たちも次々と泥の堀に落ち込んで、身動きが取れなくなっている。


「撤退! 撤退だ! 動けるものは馬首を返せ! 我々に構うな! 馬が持つ限り走り続けろ!!!」


 グリステルはそう号令し、愛馬の背中に立ち上がって、そこから泥沼の縁と思われる場所を目掛けて跳躍した。


「済まない! ダークネス!」


 そこに長槍を構えた敵兵たちが殺到した。

 泥沼で身動きが取れなくなっていたものは、次々と突き殺されてゆく。


「馬を捨てて泥から出るんだ! 泥の堀の幅は広くはない!」


 自分に迫る長槍の犬頭の兵隊の懐に入り込み、その喉を突いて倒しながら、グリステルは声を限りに命令する。


 止まり切れず、泥沼に落ちたものは三十騎余り。馬を捨て沼から出られたものはその半分ほど。彼らは数人ずつ固まってお互いを援護しあい、長槍を相手にしても引かずに戦おうとしていた。


「ぐあーっ!」

「ああっっ!」


「シュカンナン! メッツレス!」


 グリステルは群がる敵を倒しながら仲間たちに合流しようとしたが、その仲間の戦士たちから次々と悲鳴が上がった。血飛沫が上がり、肉が裂かれる音が上がり、また悲鳴が上がる。

「ぎゃっ!」

「げおっ!」


「ハッチポット! ナンナバーン!」


 グリステルは仲間の名前を呼んだが、悲鳴の主が彼女の呼びかけに応えることはなかった。

 倒れた彼らの向こう側から、真っ暗な影がせり上がった。


 それは真っ黒な鳥の頭に真っ黒な羽だらけのマントを纏った異形の剣士だった。


 鴉頭の剣士は両手にそれぞれ剣を持っており、その双剣から血を滴らせながら


「ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」


 とふざけたように笑った。


「おのれぇぇっ!!!」


 怒りに燃えたグリステルは短く叫ぶと血の滾りに任せて駆け出した。長槍が彼女の脇腹を浅く斬りつけたかその持ち主の首を飛ばして報復し、彼女は殺意の風となって黒衣の剣士に急迫する。


 ガ、キンッ


 グリステルの放った霊剣シャベーリーンの必殺の一撃を、鴉頭の剣士は上下から差し出した二本の剣で易々と受け止めた。


「貴様の仕掛けた罠か! 名を! 名を名乗れ!!!」


 二剣は押しの強さでは一剣に及ばない。グリステルは体重を掛けて味方の血に塗れた敵の剣を押し込みながら、これから斬る仇の名を質した。


「名乗らなければ分からないか? 小さなグリシー」


 鴉の嘴から、思いのほか低く美しい声が聞こえて、グリステルは動揺し、飛び退いた。


 この声……どこかで聞いたことが……?


「私だよ。小さなグリシー。忘れてしまったのかい?」


 小さなグリシー? その呼び方は……しかし、そんなはずが……。そんなはずが……!



 黒の剣士は右手の剣を捨てると鴉の面を脱いだ。


 グリステルは固まった。息すらも出来ず、心臓の鼓動すら凍て付いたと感じた。

 そして乾いて張り付くような舌を震わせながら、その人物の呼び名を捻り出した。


「神父……さま……」

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