馬車
そこにガタガタと揺れながら二台の馬車が来た。
一台はグリステルにも見覚えがあった。
春光の兵団の金庫番、ウルリチ・モイテングの馬車だ。
もう一台の馬車は、ウルリチの馬車より大きく、銀細工の優美な装飾がふんだんに施された豪奢なものだった。
「グリステル様」
「ウルリチ。すまなかったな、約束を反故にするような真似をして」
「事情は大体把握しております。グリステル様を迎えに来たザジ殿たちを助けに差し向けたのは私ですので」
「流石だな。間一髪だったが、お陰でこの通り助かったよ。ありがとう。ウルリチ・モイテング」
「それは全く構わないのですが……一つ困ったことが起きまして」
「困ったこと?」
二台目の、富豪の宮殿のような馬車の扉が開き、頭にターバンを巻き金糸に彩られたシルクのクルタを纏った浅黒い肌の気難しそうな老人が降りて来た。
「……海運ギルドの代表、ヴィッラーニ師です」
「……成る程」
グリステルは微笑を浮かべながら堂々とヴィッラーニに近づき、膝を曲げて挨拶をした。
「お初にお目に掛かる。マスター・ヴィッラーニ。私はアンメアリ・クレェァ。アンメアリ交易の社主です」
ヴィッラーニは
「ヴィッラーニじゃ。昨晩は、色々と大変じゃったようじゃの」
「待ち合わせの場に行かなかったことは心から謝りたいマスター・ヴィッラーニ。私の不徳の致す所です。田舎者の不作法と、どうかお笑いください。申し訳ありませんでした」
そう言うとグリステルは片膝を地に突き、頭を垂れた。
「ち、違う! その人のせいじゃないんだ!」
少し離れた場所で様子を見ていた粗末な身なりの若者がそう叫んで、二人の元に駆け寄った。
「アンメアリ殿。こちらの方は?」
「彼は私の友。クロビスです。ちょっとした縁で昨晩知り合いました」
クロビスもまたグリステルの隣で膝を折り、頭を垂れた。
「この方を責めないで頂きたい。この方が昨晩貴公との約束の場所に行けなかったのは、ひとえに私の責任なのだ。私が乱暴されている女を助け、人買いギルドと揉め事になった。ならず者に殺される所を彼女が助けてくれ、そのまま追われて逃げる羽目になった。彼女は被害者なのだ。私の愚行のな。責めと咎は私が負う。どうか彼女を許してやってはくれまいか?」
「事のあらましは知っておる」
「ヴィッラーニ様はゆうべ、人脈を辿り人買いギルドの動きを探って、我々があなた方を見つけ出すのを手伝ってくださったのです」
ヴィッラーニの答えの内容を、ウルリチがそう捕捉した。
「奴隷の女を助ける酔狂に、その酔狂を助ける酔狂か」
そう独りごちたヴィッラーニは天を仰ぐとその枯れ木のような身体に似合わぬ豪放な有様で笑い出した。
「愉快愉快。二人とも顔を上げよ。弱きを助け人買いギルドを向こうに回して大立ち回り、一晩中街を逃げ回り、増水した河に飛び込んで、最後は人狩りの人鬼たちを返り討ちにして生き延びるとは! この老骨の血も久々に騒いだわ。モイテング殿は良い主人を持たれた。この方が社主ならば、退屈することはあるまい」
「ええ……全く」
「ご理解頂けて幸いです」
グリステルは悪びれた様子もなくにっこりと笑って立ち上がった。
「どうしたクロビス。俯いて。ヴィッラーニ師は深い懐で許してくださった。顔を上げて立て」
「ああ……うん」
生返事をしたクロビスは人知れず彼だけの事情で追い詰められていた。
待てよ……ヴィッラーニ? 海運ギルドのヴィッラーニだって⁉︎
城が催す晩餐会には必ず呼ばれる常連じゃないか!
今顔を上げたら、絶対に私だと気付かれる!
「胸を張れ。若人よ」
俯いているとヴィッラーニの方が膝を折って顔をクロビスに近づけ、肩に手を置いて励まして来た。
「確かに、そなたの行いは昨夜たくさんの者を巻き込んで迷惑を掛けたかも知れん。だが、そなたの善を成そうという心は清く尊い。わしは気にしておらん。どうか顔を上げて立ってくれ。そのような気落ちした有様では、王太子と同じクロビスの名が泣く──ん?」
ヴィッラーニの刷毛のような眉毛が二つとも持ち上がった。彼が目を見開いたのだ。
クロビスは口元は笑いを作ってみたが、目は笑えなかった。
「ああっ! ああああああっ! おっ、おっ、おおおおお……ッッッ!?!?」
(しーっ! しっしっしぃっ! 騒ぐなヴィッラーニ)
「ん? どうかしたのか二人とも」
「い、いやなんでもないんだグリ……アンメアリ。なあ、ヴィッラーニ先生」
「あ、あ、ああ。そう。なんでもないんじゃ! なは、なはははははは……!」
二人は肩を組んで笑って見せた。
(こ、こんな所で何をなさってるんですクロビス殿下⁉︎ そんな下々の者の服なんぞ着て!)
(静かにしないかヴィッラーニ。私が王子だということがアンメアリにバレでもしてみろ。王家に対する反逆罪で海運ギルドを取り潰し、お前を終生牢に繋いでやるからな)
(そんなご無体な……父王様がこのことを知られたらどれだけお嘆きになられるか……)
(ちっ、父上は関係ない! いいか。このことは内密だ。私が即位した暁には、海運ギルドもお前も悪いようにはしないと約束するゆえ、今日ここで私と会ったことは……)
「さっきから何をゴチャゴチャやってる?」
「いや、なんでもない。なんでもないんだよアンメアリ」
「それはもう聞いた。どうも怪しいな」
彼女は顎に手を当て、目を少し細めて、じっ、と二人を見た。
「さては……」
「いや、そうじゃない! 確かに年恰好は似てるかも知れないが、私は……」
「二人とも知り合いか? クロビスは貴族だ。何かのパーティーで会ったとか?」
「え⁉︎ あ! そ、そうそう。その通りだ。なあ、ヴィッラーニ先生」
「あ? はい。その通りじゃ。あれは確か……王妃様のお誕生日を祝う晩餐会だったか……なあクロビス殿?」
「そうそう母上の誕生会で」
「母上?」
「母上……も王妃様と同じ誕生日でな。これはまるで盛大な母上の誕生日祝いのようですね、なんて言ってな」
「そうじゃったそうじゃった。わは。わは。わははははははは……」
「……? まあ、仲が良いのはよいことだ。ありがとうございます。ヴィッラーニ師。無礼を許して頂いたこと。また、昨夜、我々の捜索に御尽力くださったこと。このご恩はいずれ、目に見える形でお返しいたします」
「良い良い。お気に召さるなキャプテン・アンメアリ。
いや……歌に聞くもう一つのお名前でお呼びした方がよろしいかな?」
ヴィッラーニの纏う空気が変わった。ピリッと場に緊張が走り、アンメアリと呼ばれた女は表情を固くした。だがそれはほんの一瞬で、彼女は、ふわっ、と緊張を解いて微笑んだ。
「……それはお止しになった方が。私がアンメアリでないと知った上で助けたり取引きをしたと誰かに知れれば、御身にご迷惑が降り掛かるやも知れません」
クロビスは、ヴィッラーニがアンメアリの正体に気付いてなお、彼女を助けたのだと知った。いや、ヴィッラーニのことだ。アンメアリの正体に勘付いて、直接確かめるために今回の面会を段取ったのだろう。
「そろそろ日も高い。変わった風貌の船員さんたちは、海に帰った方がよろしくないかな?」
「御心遣い痛みいります。今ひとつ。人足の代金はウルリチに用立てさせますがゆえ、我々が斬った夜魔たちの埋葬の御手配をお願いできませんか?」
「……あなた方の命を取りに来た者たちですぞ?」
「死者には既に魂は無く、罪は魂とともにありますれば」
「…………」
ヴィッラーニは、ふむ、と鼻を鳴らした。
「なるほど。時にキャプテン。サーガに聞く聖女騎士グリステル・スコホテントトは、元は修道女だったそうですな」
「そう聞きます」
「今でもきっと死者の犯した生前の罪には寛容なのでしょうな」
「人の性根は、暮らしや仕事で変わる部分と変わらない部分とがあるものです。祈りの手に剣を持つようになっても、死者を悼む気持ちが……消えてなくなったりはしないでしょう。こんな時代ならば、特に」
「魔物の塚のことは心配召さるな。人足の費用も用立て無用です。にしても、英雄というのも歌に聞くより苦しく……哀しい生き方、ですな」
「そうでもないようです。彼女は、仲間に恵まれている」
彼女は作業していた仲間たちを振り返ると指示を出した。
「さあ船員たち! 船に帰るぞ! 魔物の塚はこの偉大なる海運王が御手配してくださる! みな夜通しで疲れただろう! ウルリチの馬車に乗れ! 将軍の馬は、私が預かる!」
メロビクスがその号令を聞いて、不自然な仕草で耳を隠しながら馬を引いて来た。
「私の馬車は四人乗りですよ」
「詰めるか、きみが御者の隣に乗れ」
どっちもごめんこうむりたいウルリチは大きな溜息をついた。
「マスター・ヴィッラーニ。我が友クロビスを街まで送って頂いてもよろしいですかな?」
「引き受けましょう。クロビス殿のお父上にはお世話になっておりますし」
「助かります。では、機会があればいずれまた。元気でな、クロビス」
グリステルは見事な身のこなしで馬の背に跨った。
「ま、待ってくれアンメアリ!」
「なんだ?」
「君は死ぬ気か? この戦いの先で……死ぬつもりだな?」
「……世間が分かって来たな」
「ダメだ! そんなことはダメだアンメアリ!」
「目的が正しくとも、手段の咎は負うんだ」
「私が半分受けもつ! その咎を! 呪いを! 分けてくれ! 君の苦しみを!」
彼女は驚いた顔でクロビスを見た。
そしてその髪が、河から吹く風に吹かれて揺れた。
「きみは本当にいい奴だクロビス。私はきみと同じ時代に生まれ、偶然に導かれて出会い、友と呼び合えたことを、心から神に感謝するよ。
そうだな……いつか私ときみが、また肩を並べて戦い、二人とも生き延びた時には、私の背負った真実を教えよう。その時に命を落とさぬよう、勉学と鍛錬にはげめ」
「私は戦った! さっきザジ将軍の背中を守って戦ったぞ! 準備はもうできている!」
「なら、ひとかけらだけ真実を告げよう」
彼女は少し俯いて睫毛を揺らした。
顔を上げ、笑顔を見せた彼女は言った。
「黒い森、かつて邪竜が巣食った深淵の魔窟にはな──」
打たれた鐙に、鹿毛の馬が高く
「──いい温泉があるんだ」
彼女は顔の横に手をやって鎧の面を上げるような動作をした。それは馬上で相手に敬意を表する騎士の儀礼だった。
アンメアリ──グリステルを乗せた馬は猛然と走り出し、ウルリチの馬車がそれを追った。
クロビスは彼女の名を叫ぼうとしたが、どちらの名を呼ぶべきか判断が付かず、その機会を失ってしまった。
「なぜ、身分をお隠しに?」
立ち尽くすクロビスの後ろから、ヴィッラーニが語りかける。
「王子を名乗って引き止めれば、英雄譚の女丈夫と言えども、お側にとどまったのでは?」
「慰めの気持ちは有り難いがな、ヴィッラーニ」
クロビスは一瞬でも長く彼女の姿を瞳に映しておこうと小さくなってゆく馬上の背中に目を凝らした。
「自分で信じていないようなことを、人に助言するものではないぞ」
クロビスはとめどなく流れる涙を袖で拭った。
何度も。
何度も。
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