応報
イエグハは一人逃げるために走っていた。
二年前のシュールグラヌ。
いつもの「狩り」を行なっていたイエグハたちを恐ろしい不幸が襲った。
エルフ、ドワーフ、魔物の混成部隊に襲われ、イエグハを残して全滅したのだ。
指揮を執っていたのは騎士の出で立ちの若い女で「グリステル・スコホテントト」と名乗って一騎打ちを挑んで来た。
イエグハは幼い少女を盾に取り、背中を切り裂いて突き飛ばし、グリステルを名乗った女騎士がその子供を助けている間に逃げたのだ。
河沿いの道を河下へひた走る。
アーガスバーグへは戻れない。
二ケルメルテも行けばオラドルの船着場があって、そこからは川下りの船が出ている。船の終着はポートカルナバル。毎日数千の人々が出入りして行き交う港町ポートカルナバルに潜り込んでしまえば、もう探し出されるような心配はない。頃合いを見て、またアーガスバーグに戻れば良い。
戦いの喧騒ももう聞こえない。
生き残るコツは、乱戦の内に逃げることだ。
戦場全体の趨勢が劣勢と決してから逃げては目立つし、手下たちが付いて来てしまう。
少しでもヤバイと感じたら即座に全力で逃げる。それが長年無法の世界を生き延びてきた彼の法だった。
「随分と急いでどこへ行く? 夜魔の王よ」
目の前の大きな木がそう喋って、驚いたイエグハは飛び上がるように立ち止まって剣を抜いた。
「手下たちが苦戦しているぞ。見捨てて自分だけ逃げるのか?」
喋ったのは大木ではなく、その影で待ち伏せていた人物だった。彼女はイエグハの行く手を遮るように、道の真ん中に立った。
「グリステル・スコホテントト……‼︎」
「成る程な。オラドルの材木船で河を下って逃げようというわけか。どこまでだ? オスモー? トリテルヌイ? 海まで行ってポートカルナバル?」
グリステルは腕を組んで、親が子を叱るように尋問した。
「ゆ、許してくれ春光の騎士よ!」
抜いた剣を背中に回して隠しながら、イエグハは勝機を見た。
「残念だな。春光の騎士は死んだ」
「ち、違うんだ。俺も……好きでこんな仕事をしてるんじゃない!」
この女は俺を舐めている。あれだけ強い仲間を連れながらたった一人で俺を追って来た。
「ほう」
「脅されてるんだ! 俺にも家族がある! 人買いギルドに逆らったら……な? 分かるだろ?」
こいつは俺が格下だと油断して、剣すら抜いていない。その油断が、お前の命取りだ。
「家族がな」
「そうだ。だから仕方なく……後悔してる! もうこんな仕事はしねえよ! 見逃してくれ! ここには俺たちしかいねえ! 仲間には俺を始末したことにすりゃいいだろう?」
「…………」
正義の味方気取りの女騎士は顎と腰に手を当てて考えるそぶりをした。もう一息だ。
「ギルドから前金を貰ってる」
「……前金?」
食いついた。
所詮人間なんて皆こんなもんだ。
名誉、人情話、そして、金。
「ああそうとも! なあ、見逃してくれよ! 俺一人殺したところで、俺くらいの悪党は世の中に五万と居る! 世界が変わるわけじゃねえだろ? 前金だけじゃねえ! 見逃してくれるなら、今まで蓄えた分も全部あんたにやるよ!」
「……そうだな」
女は背中を向けた。剣は抜いていないままだ。馬鹿が。後悔はあの世でしろ。
「私は許そう──」
「あっ、ありがてえ! 恩に着るぜスコホテントト卿。礼を言うよ!」
お前のその……隙だらけの背中にな!
ザンッ!
鮮血が迸った。
振り下ろした曲刀の先から女は消えていた。
「え……?」
イエグハの服の腹の部分が切れている。
そして腹には、一直線に赤い線が引かれていた。
「──だがシュールグラヌの村人たちが許すかな?」
声は背後から聞こえた。
振り向くと、剣を振り抜いた女騎士が、ビッ、と剣の血を払ったところだった。
腹を見ると、赤い線はぷつぷつと血の玉を生み出し、それはみるみる血の奔流に変わった。
「あっ、あっ、あっ、あっ、ああああ……!」
「背中を見ると斬らずにいられない病気みたいだなイエグハ。で、金がなんだって?」
腹の傷は完全に裂け、イエグハが息をする度に中の臓物がはみ出し掛けて、イエグハは手で傷を抑えて悲鳴を上げて跪いた。
「ひっ……ひぃぃぃっっ……!」
「お前は負債だ。あの日、私はあの村も。お前に盾にされたあの少女も。救えなかった」
「たっ、助けて! 助けて!」
「
淡々とそう言いながら、グリステルはゆっくりと剣を構え直す。
「畜生っ! 畜生ぉっ! よくもっ! よくもこの俺にっ! こんなっ!! グリステル……スコホテントトォォォォォォッッッ!!!」
涙で目を赤くし、腹の傷から腸をぶら下げながら、捨て鉢になったイエグハはグリステルに斬りかかった。
「冥府であの子に伝えてくれ」
グリステルの瞳に一瞬、氷のように冷たい光が差した。
すれ違う二人の影に三条の軌跡が閃いた。
「借りていたものは、返したと」
イエグハの影は三つに別れて地面に散らばった。
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