名前

 クロビスの頭と心を混乱が満たし、今日、今までにアンメアリと過ごした場面場面が怒涛のように押し寄せた。


「それは女の名前だろう」

「怖いか? 私と一緒でも」

「君こそは真の男だ!」

「君のような人物が私は好きだ」

「さあ……行こう」

「私の親も変わり者だったんだ」

「それは女の名前……」

「女の名前……」


 のわっ! と小さく悲鳴を上げてクロビスは飛び上がりばね仕掛けで弾かれたように後ずさった。


 アンメアリは……アンメアリは女⁉︎

 だって……だってこれは男の格好じゃないか⁉︎

 私はそうと知らず彼女と手を繋ぎ、抱えて抱き上げ、上に跨って、シャツのボタンを……ボタンを……!


「……まずい」


 そう。彼女のシャツのボタンは三つ目までが開いて、もしさらしが無ければその豊かな胸がこぼれて見えているところだ。


 もし今、いや、明日の朝アンメアリが目を覚まし、シャツがはだけているのに気付いたら……!


 彼女はクロビスを獣欲によだれを垂らす下品な不貞の輩と思い、怒り、侮蔑し、絶縁を決意するだろう。それは避けねばならなかった。今この時、アンメアリから軽蔑され嫌われることは、クロビスにとって最も堪え難い最も忌避すべきことに感じられて、彼はそう誤解されることを避けるためならばどんなことでもするべきだと思った。


 手段は一つしかない。

 もう一度彼女に触れ、シャツのボタンを掛けるのだ。しかもそれは速やかに、彼女を起こさないようにやり遂げられなければならない。ボタンを掛けている途中に彼女が目を覚ますことを想像しただけで、クロビスは彼女の剣を借りて自らの喉を突き破りたくなったが、汗を拭って深呼吸をし、愛する友の言葉を思い出して自分を鼓舞した。


(まだ我々は死んではいない。死んでいないなら諦めるのは早い)

(諦めるのはやれることを全てやってからだ。負けるな、クロビス!)


 そう。アンメアリは確かそんな感じのことを言っていた。


(きみはこうと決めたら大胆に行動できる男だ。私はそんなきみが好きだ。頑張れ、クロビス!)


 というような感じのことも言っていた気がする。


 任せておけアンメアリ。私は君の言う通りやる時はやる男。一息の内にそのシャツのボタンを留めて、君の私に対する友情を守って見せる!


 クロビスは音を立てないよう注意深くアンメアリに近づいた。シャツを確認すると、やはり三つ目のボタンまで開いている。ここまでは予定通りだ。アンメアリの様子は……。


 クロビスは改めてアンメアリの顔を見た。


「あぁ……」


 そして嘆息の声を漏らした。

 

(美しい……)

 

 逃走の間は良く見えなかったが、激流に帽子を失い月明かりに照らされるアンメアリの寝顔を改めて見ると、クロビスはそう思わざるを得なかった。

 社交界に花と咲く着飾った貴婦人たちも美しいのだろうが、クロビスは彼女たちの美にはどこか作り物のような虚ろさを感じて心が動くことはなかった。

 だが、彼女は、アンメアリはどうだ。

 濁流から上がったばかりで、束ねられただけの髪は泥水に晒されて乾いてすらいない。頬は煤け、化粧などしていないだろう。服は質素で飾り気のない朴訥ぼくとつそのものの佇まいだ。それでも彼女自身が持つ美は、その魅力は、微塵も損なわれることはない。それは内面から滲み出る人間の魅力だからだ。逆に結って盛り上げた髪や厚く塗りたくった化粧や贅を尽くした装飾品は、彼女のありのままの美を損ないすらするだろう。


 クロビスは、アンメアリの唇をじっと見た。柔らかそうで、艶があり、少しだけ開かれた小さな唇。


 んっ、とアンメアリが咳払いのような吐息を漏らした。


 その小さな声が耳に入った瞬間、クロビスの体温は急に上がり、世界の音は高鳴る鼓動だけになり、頭はぼうっとして、視界の中でアンメアリの唇がどんどん大きくなった。


 アンメアリの顔が何かの影に覆われて、クロビスはハッとした。

 

 クロビスの頭の影だ。彼の顔は彼の統制を離れて、眠るアンメアリの顔へ、その唇へ、勝手に近づいていた。


 いかんいかんいかんいかんッ!


 クロビスは頭をブンブンと振って、彼の中から不埒な彼を追い出した。

 彼女は、アンメアリ・クレェァは一角ひとかどの人物で、私に一目置いて認めてくれているのだ。だから、隙だらけとも言える今の姿を晒してくれている。それは彼女の、友としての私に対する信頼のゆえだ。クロビス・バジナ・テューリンゲン! お前は一時の劣情に負けて、その尊い信頼を裏切るのか? 男として、友として、一国の王子として、それでいいのか?


「良くないっ!」


 クロビスはついそう口に出して言ってしまい、慌てて口を押さえてアンメアリの様子を伺った。

 彼女は疲れ切っているのか、溺れたダメージが抜け切っていないのか、結構大き目に出てしまったクロビスの独り言にも全く反応せず、変わらず、すうすうと可愛い寝息を立てていた。


 クロビスは控え目に咳払いをして、改めて眠るアンメアリに向き直った。


 そう。ボタンだ。ボタンに集中しろ。彼女の唇に触れろとか、逆にボタンを開けろとか、抱きしめてしまえとか言う淫魔たちよ、クロビス・バジナ・テューリンゲンの名の元に王家の血をもって命ずる! この私の身体から今すぐ出てゆくがいい!


 退魔の儀式を終えたクロビスは、胸元の三つ目のボタンを掛け始めた。


 人の服のボタンを掛けるという作業は思ったより難しかった。彼はアンメアリの身体には一切触れないという縛りをその作業に対して設けたために悪戦苦闘と評して良いほどに手こずりながら、一つボタンを掛け終え、一旦彼女から離れて、何度も大きく深呼吸をした。


 三つとも元どおり掛ける必要はない。一番上のボタンがいつの間にか外れているなど良くあることだ。今夜は濁流に揉みくちゃにされたし、走り回った時に無意識に外したとも取れる。だが、二つ目のボタンは駄目だ。そこまでは留まっていないと、不自然さは否めない。


 ああ神よ。今一度、私に彼女のボタンを掛けさせ給え!

 この願い聞き届けて頂けるならば、私は私の即位の折、私自身の名に賭けて新しい教会を建立し、徳の高い司祭にあなたを祀らせて、その威光をより一層昂めると約束しよう!


 祈りを終えたクロビスは、再びアンメアリに近づいて、ボタンに手を掛けた。また邪な想像や行動の推奨が彼の心に繰り返し波のように押し寄せ、ボタンを掛ける手は震えたが、神の加護を得たクロビスはそれらの強烈な誘惑を鋼鉄の意志で跳ね返し、遂にそのボタン掛けを完全にやり遂げた。


 やった! やったぞアンメアリ!

 私は……外した君のシャツのボタンを、掛け直した……掛け直したんだ!


 完全犯罪の余韻に思わず声を出し掛けたクロビスだったが、最後に彼女を起こしてしまっては台無しだと思い、快哉を我慢して静かに彼女から距離を置こうとした。


 そおっ、と後ずさるさなか、またアンメアリが「ううん」と、うなされるような声を出して寝返りを打ち、クロビスの方を向いた。


 クロビスは息を殺して動きを止めた。


 アンメアリの様子を注視をしていると彼女は夢でも見ているのか、少し早く息をしながら


「グリステル……」


 と呟いた。

 クロビスが名乗った偽名だ。

 クロビスは「はぁ……ん」と切ない溜息を吐いた。


 何故、私は偽名など名乗ったのだ。

 クロビスだけで王子だなどと見抜かれる由もあるまい。

 もし最初に名乗ったのが正しい私の名前であったなら、そうだったなら、今、彼女の口から吐息と共に漏れていたのは「クロビス……」という私の名前だったのに……。


 アンメアリはすやすやとまた深い眠りに入ったようだ。


 クロビスは彼女が彼をグリステルと呼ぶことに後悔しているだけでなく、傷付いてすらいることを意識して、彼女の声が自分の名前を発音したらどんなだろうと想像した。


 そして同時に、さっき彼女から「少し繊細なところがある」と言われたのを思い出した。

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