廃屋

 気を失ったアンメアリを担ぐようにして歩き出したクロビスは、川に沿うように並行する細い道を見つけ、河下に向かって歩き出した。


 月明かりを頼りに少し行くと水車小屋のシルエットが見えて来た。クロビスは自分はともかくアンメアリだけでも安全な場所で休ませたいと思い、小屋に向かって歩いたが、近づくとそれは朽ちた廃屋で水車も傾いて回ってはいなかった。


「誰かある! 河に落ちて友人が溺れた! 休ませたいから場所を借りられぬか!」


 クロビスはそう言って煤けた木の扉をバンバンと叩いてみたが答える者はなく、木の扉はガタンと蝶番から外れて部屋の中へ倒れ込んだ。


 ばたん、と倒れた扉が起こした風で埃が舞い上がりカビ臭い匂いがクロビスの鼻を突いて彼は袖口を口元に寄せて顔を歪めた。中は穴の開いた屋根から落ちた雨でびしゃびしゃで、床はそこかしこが腐ってぼろぼろになっており、日陰を好みそうな不気味な植物までもが生えている有様で、クロビスはここに彼の大事な友人を寝かせることを断念した。


 他に場所はないかと見回すと、水車小屋に隣接して馬屋か納屋のような小屋があり、そちらは水車小屋に比べて状態が良いように見えた。

 引戸を開けて中を見ればそのがらんとした空間は屋根の下を隙間だらけの板で囲っただけの馬屋兼物置のような場所で、風通しが良かったためか朽ちた水車小屋よりは過ごしやすそうだった。

 クロビスは剥き出しの地面の上の一角を寝所に定め、石や木の破片を足で払うとそこにアンメアリを寝かせた。

 枕になるものは、と小屋の中を探し、麻袋に砂が詰まった土嚢を見つけたクロビスはアンメアリの頭の直ぐ上にそれを置いて形を整え、彼の友を引きずり上げるようにしてそれに寝かせた。


「う……」

「気がついたか。アンメアリ」

「ここは……?」

「河沿いの空き家の馬屋だ。大丈夫。安全だ」

「グリステル。君が運んでくれたのか。ありがとう」

「礼など……むしろ礼を言うべきなのは私の方だ。君の機転と行動力のお陰でこうして逃げ延びた。君は私の命の恩人だ。ありがとうアンメアリ・クレェァ」

「……お互い様だ」

「アンメアリ」

「なんだ」

「訊いていいか?」

「質問による」

「……君は何者だ?」

「…………」

「武芸に秀で、危機に際して豪胆で、判断が早く賢い。人に当たっては礼節をわきまえ、理性的で、だがユーモアもある。そして……荒事に慣れているな? 今回のようなことも、初めてではないだろう」

「正確な洞察だ」

「茶化すな」

「……船長さ。交易船の」

「船長? 船の水夫たちを仕切る、あの船長か?」

「他にどの船長があるんだ」

「キャプテン……キャプテン・アンメアリか」


 クロビスの脳裏に、白波を蹴立てて青い海原を疾る大きな船が浮かんだ。

 帆はぱんぱんに膨らんで風を受け、その艦橋には望遠鏡を片手に荒くれの水夫たちに指示を出すアンメアリがいる。

 成る程、その有様は堂に入っていてこれまでのアンメアリの言動を納得させるのに充分なイメージだった。


「交易船で……海を往く、船長」

「小さな船だがな、まあ細々とやっているよ」

「羨ましいな……広い海と吹き抜ける風。自由な冒険。そして見たこともないよその国々」

「そんなに良いものじゃない。航路は決まっているし、新人の面倒を見たり船の中の揉め事を解決したり。不本意だが戦いになることもあるし」

「でも、君は勝つのだろう?」

 アンメアリは左の袖を捲って、左腕全体に巻き付くような火傷の跡を見せた。

「いつもじゃないさ。それに勝っても、犠牲が伴うこともある。一番最近だと先月だ。同じ日に二人亡くした。モトークとキャナマール。いい奴らだった。私の責任だ」

「…………」

「私は……これまでにはっきりしているだけで、部下を二十六人死なせている。モトーク。キャナマール。ティケッツネー。エーモカ。マセマー。フワカツェ。ジュウナイ。コーエン。ダムゴダ……みんな……みんないい奴らだった。こんな私に、良く付いて来てくれた」


 アンメアリは悲しそうだった。クロビスは思わず彼の友人を抱きしめてやりたくなったが、ギリギリでそれを我慢した。


「私は今、部下たちの……仲間の死を踏み台にしてここにいる。その何十倍の数の敵の死もまた靴底に踏みつけてな。いずれ、報いを受けるだろう」

「そんなことはないっ!!!」

「……グリステル?」

「君は……アンメアリ、君は間違ってはいない! 共に過ごしたのは、ほんの短い間だが私には分かる! 君は、君こそは本物の男だ! 君は身勝手な理由で戦うことはない。君の判断が、大きく間違っているようなこともない。君と一緒に居て命を落とした者たちも、納得した上で君と行動したのだ! 君と共にいることで、誇り高い気持ちでいられたのだ! 絶対に幸せだった! なぜなら……!」

「……なぜなら?」

「なぜなら……私がそうだからだ。君と一緒なら、正しいことを正しいと背筋を伸ばして言える。君と一緒なら、どんな危険にも飛び込んで行ける。君と一緒なら、背中を預けて戦うこともできるし、その中で命を落としても後悔はない!」

「グリステル……」

「君の仲間たちも同じ気持ちのはずだ」


 アンメアリの長い睫毛が揺れて、瞼の端からすうっと煌めく雫が尾を曳いた。


「なあ、アンメアリ」

「うん?」

「私も、乗せてくれないか? 君の船に」

「…………」

「なんでもするさ。甲板掃除でも。皿洗いでも。マストの天辺の見張りでも」

「……グリステル」

「一緒に海を征こう。私はこう見えて結構勉強してるし、剣も槍も使えるんだ。馬も操れるし四ヶ国語に堪能だ。役に立つ。連れて行ってくれ」

「ああ、そうなったら……いいだろうな」

「よし、決まりだ。船はどの港だ? リンドックス? ポートカルナバル? 船は初めてではないが、船医はいるのか? 万一だ。万一船酔いした時に薬を……」

「しかしきみは、そうならないことを知っているはずだグリステル。いや、名も知らぬ馬屋の貴公子よ」

「…………」

「私の見立てでは、きみはどこかの有力貴族の子息だろう。社交界や、教育にうるさい家が嫌になって家出して来た。グリステルも偽名だ。酒場の歌から名前を借りた。違うか?」


 そうだった。アンメアリはこういう男だった。自分がアンメアリを見透かす何倍も、アンメアリは自分のことを見透かしている。安い嘘の上塗りは、最早もはや恥の上塗りにしかならないだろう。


「……その通りだ。アンメアリ。偽りを言ってすまない」

「いいさ。私がきみの立場でもそうしただろう。それにそこはさして重要じゃない」


 アンメアリは目を閉じた。


「私もきみと過ごした時間は短いが、きみの誠実な人となりは伝わったよ。きみは真面目に良く勉強しているし、善悪に対して真っ直ぐで、危険を犯しても正義を行う勇気を持っている。少し繊細なところや経験不足なところはあるが、こうと決めたら大胆に行動できるし、友と見込んだ者のために命を賭けることもできる。それに正直だ。名前について以外はな」


 クロビスは苦笑した。


「私はそんな清廉で気高いきみに、この国の中心に居て欲しいのだ」


 クロビスは冷や水を浴びせられたような心地で息を呑んだ。


「私も何人か貴族を知っているが、きみのような……気持ちの良い男に会ったことはなかった。特に最近の若い貴族は人を値踏みし、損得勘定ばかりに聡く、自分と身内の保身に躍起で大局を見ない小物ばかりだ」


 アンメアリの言わんとすることは、クロビスにも分かる気がした。


「王家と貴族は国の屋台骨だ。家における父と母だと言い換えてもいい。どちらが堕落してもその家は潰れ、子たる民たちは路頭に迷う。これからの時代のために、きみのような仁と義とを解する傑物がこの国の中枢に必要だ。薄々かも知れないが分かっているはずだ。誰に言われなくてもそのことを。誰でもない、きみ自身が」

「…………」

「きみは、きみの海原を征け。辛い思いをする弱い者を助けたいという心と、荒れ狂う激流に飛び込む勇気を胸に」

「アンメアリ……」


 アンメアリはふっと笑った。


「それにしてもグリステルとはな。他に名乗る名前もあったろうに」

「グリステル・スコホテントトは……私の憧れの英雄だ。彼女のように強く、正しく、そして優しくいられたら、とずっと思っている」

「……そうか」

「吟遊詩人たちの歌うサーガでは生きて、エルフやドワーフ、魔物たちと戦場を駆けているが……本当はやはり死んだのだろうな。どこかの教会に墓碑があると聞いた」

「そうだな」

「残念だよ。もし彼女が生きて、まだ騎士団にいたなら、いずれ私も彼女と馬を並べて戦うこともできたろうに」

「もう戦っているさ」

「……なに?」

「きみの中には、正義の騎士グリステルがいる。きみがきみの思う正義を投げ捨てるような真似をしなければ、きみは常に……春光の騎士の仲間の一人だ」

「私も……春光の騎士」

「少し休むよ……きみも眠れ。色々なことがあって、気が張って感じないかも知れないが身体は疲れているぞ」


 アンメアリはそう言うが早いか、すうすうと寝息を立て始めた。


 確かに色々なことがあった。クロビスの人生の中でこの数時間は何年分にも相当する出来事の濃さだった。それを思うと気持ちは昂ぶったが、寝息を立て始めたアンメアリを見ていると興奮や緊張は安らかな安心へとほどけて、クロビスは改めて自分の疲労と眠気とを意識した。アンメアリの隣に麻の土嚢をもう一つ轢いて、横になろうとしたクロビスはふとアンメアリの顔に掛かる髪の毛が気になってそっとそれを撫でるようにして後方に避けた。また濡れて彼の身体に張り付いたシャツが窮屈で息苦しそうに見えてそれも気になり、クロビスは眠るアンメアリのベストのボタンを外し、シャツのボタンも上から順に外して行った。


 ボタンを三つ外したところで、彼の手が止まった。


 どうも様子がおかしい。

 胸には包帯……いや、木綿のさらしのようなものが巻かれていた。怪我をしているわけではなさそうだが、ボタンを外す動作の時に触れたその感触が妙に柔らかい。クロビスは自分の胸に触れて確かめてみたが、やはり明らかに感触が違う。


 その時、遮っていた雲が過ぎたのか馬屋の窓から月明かりが差してアンメアリの顔を照らした。

 長い睫毛。濡れた唇。後ろで纏めた長い髪と、すこしだけ煤けた白い頬。穏やかな寝息に合わせて上下する柔らかな胸。


 クロビスは息を止めて固まった。

 手は彼の──

 

 ──いや、違う。

 の胸元でボタンを外すためにシャツの縁を持ったままで。

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