輪唱
ウルリチのキャラバンが置き去りにした荷馬車の
ウルリチたちはもう騎士隊にも頼らず、馬を四頭用立て野営の道具を揃えて、ばたばたと急いで街を出た。暫く晴天が続いていたが、風向きが変わり空の雲は白から灰色に変わり始めていた。雨が降る前触れだ。雨が降れば轍の跡は容易に消え、或いは薄れて、ノヴォーコでも追跡は困難となる。そうなる前に、多少の危険を犯しても彼らは追える所まで追わなければらならなかった。
そう。ウルリチが、タリエ=シンが、求めてやまない春光の騎士。グリステル・スコホテントトの行方を。
***
ノヴォーコの先導で街道を外れ森に入った一行は、程なく急に立ち止まったノヴォーコにぶつかりそうになりながら立ち止まった。
「どうしましたノヴォーコ」
「…………」
ノヴォーコは黙って前方を指差した。
「馬車だ!」
アントンが叫び駆け出そうとしたが、ノヴォーコがそれを手で遮って押し留めた。
「罠かも知れません。慎重に行きましょう」
ノヴォーコはその場で屈み込み、下草や周りの木を調べ始めた。一行の進む速度は当然ぐっと遅くならざるを得なかった。
***
「僕らは偵察や追跡のことは分からないが」
アントンは控え目に、穏やかにを心がけながら発言した。
「なんと言うか、こう……もう少し早くは進めないかな。例えば、調べる場所を手分けするとかして」
辺りは夕暮れが迫り、暗くなりかけている。ぽつぽつとだが雨が降り始めているようだ。ウルリチも同じ気持ちだったが、彼はここはタリエとノヴォーコに任せた方が良さそうだと感じていた。
「気持ちは分かりますが、ヒューガー様」
タリエは外套のフードを被りながらアントンの申し出を否定した。
「お時間をください。狭い道、分かりやすい目標。罠を仕掛けるのに絶好の場所。一つの罠で、隊が全滅することもある。我々は、それを繰り返したくはないのです」
アントンは、はっとした。
そうだった。彼らは。彼らの隊長は。
彼は押し黙ると、もう寡黙な傭兵を急かすようなことはなかった。
ホオゥ、ホオゥ、とすぐ近くで獣か鳥かの鳴き声がした。雨は本降りになりそうだった。
***
結局、二台の馬車までは罠はなく、馬車は空っぽだった。その日はそこで夜になり、一行は空の馬車を寝床に定めて雨を凌いで一夜を明かした。
「モイテング様。起きてください」
タリエの声に起こされてウルリチは目を擦りながら起きたが、寝ぼけていて腫れた目を強く擦ってしまい、うっ、と小さく呻いた。
「どうかされましたか?」
「何でもない。出発かい?」
「その前に」
タリエが仕草で外に出るように促す。
「見てください」
朝のひんやりした空気。雨は上がっているが地面はしっかりぬかるんでいる。そこに足跡があった。裸足の、小さな足跡だった。
「……足跡?」
「人数は一人。裸足で、大きさから小柄な女か子供で、泥に対する沈みの浅さから見て、重たい荷物などは持ってないようです」
「人間か?」
「そこまでは。足の指の別れ方や歩く時の体重移動の方法は我々と変わらないようですが」
「昨夜のうちに?」
「と、言うよりついさっきですね。雨が止んでからです。我々の馬車の周りを一周して、幌屋根の中を覗き込んだ形跡があります。ほら、この足跡は爪先立ちになってる」
「こんな場所に……裸足の子供……」
「モイテング様の会った春光卿は、積荷の食料を森の妖精の供物にする、と言ったのですよね。もしもこの足跡がその森の妖精とするならば……」
「……足跡を追おう。ちょっと待っててくれ。アントンを起こす」
***
「タリエやノヴォーコは、妖精に会ったことは?」
獣道のような、森の木々の間の細い小径を、一列になって歩く。一歩ずれれば積もった落ち葉だが、人一人通れるほどの道が踏み固められていて、そこだけは歩きやすかった。小さな足跡は、迷わず一直線にその道を森の奥へ奥へと進んでいる。
「いいえ」
ウルリチの問い掛けに、隊の最後尾を行くタリエが答える。
「魔物とは、それこそ戦場で何度も戦って参りましたが、妖精に会ったことはありません。伝説や、お伽話の中のものだと思っていました」
「吟遊詩人をしてたなら、そんな歌も沢山歌ったんじゃないのか?」
「モイテング様は、自分が見たことのあるものの歌しかお聴きにならないのですか?」
タリエのその返しに、ウルリチは苦笑した。
「少し休まないかみんな。僕はもう足がパンパンだよ」
色男のアントンの情けない声の提案を受け入れて、一行は休憩を取ることにした。
ホオゥッ、ホオゥッと何かが鳴いて、それに応えるようにケケケケッと笑い声のような音がした。
***
「まだ歩くのかい?」
都会育ちのアントンは限界が近づいているようだった。ウルリチも同じような育ちだが、アントンとは目的意識の強さが違う。この足跡の先に、彼女がいるのだ。
とは言え、確かに一行は既にかなりの距離、森の中を北進していた。帰ることを考えると一度方針を考え直した方がいいのかも知れない。辺りは再び日が暮れ掛けて暗くなりつつあった。手持ちの食料と水とて無限ではない。
ウルリチが今後のことを再度相談しようと後ろを歩くタリエに提案しようとした時、
「あっ」
先頭のノヴォーコが声を上げて立ち止まった。
「あっ」
彼はもう一度そう言うとその場に屈み込んだ。事態の異常を察したタリエが二人追い越してノヴォーコの隣へ行き、彼が示すものを確かめた。
「これは……」
「どうしたんだ、タリエ。説明してくれ」
ウルリチの問い掛けに、タリエは道を譲り、ウルリチ自身で確かめるように促した。ウルリチとアントンはお互いを押し退けるようにしながら屈んだノヴォーコの後ろから地面を見た。
「あ、足跡が……」
「ない! 消えてる!」
直前まで小径を駆ける様が目に浮かぶようにはっきりと続いていた足跡はノヴォーコの視線の先の左足のものを最後にぷっつりと途絶えて消えていた。
「どういうことだ……その足跡の主は、ここで煙みたいに消えてしまったということかい?」
気味悪そうにアントンが言う。
「いや、ロープか何かで木に上がったんじゃないか。だから足跡がない」
ウルリチはアントンより現実的な解釈をした。
「……いいえ。これは『辿り戻り』です」
タリエの答えは二人の想像とは違っていた。
「辿り戻り?」
「ええ。途中で立ち止まり、自分の足跡を辿るように暫く道を戻って、適当な所で脇の茂みなどに飛ぶのです」
「それは……」
「はい。一部の獣が、他の獣や狩人の追跡を躱すために行う知恵です」
「つまり……」
アントンは唾を飲み込みながら、辺りを見回した。冷たい汗が生え際から吹き出して来て、それ以上言葉が継げない。ウルリチがその先を代わって言った。
「こういうことか? 僕らは、得体の知れない何かに森の奥に誘い込まれた上、それを見失った」
「この場所……ここだけぽっかり広場のように森が抜けているその真ん中。我々は丸見えだが、我々からは茂みの囲いの先は見えない。時間帯は黄昏。すぐに真っ暗な夜が来る。どうやら追っていたのは我々ではなく」
森の闇がすう、と濃くなった。
ノヴォーコが立ち上がる。
タリエが
「彼らだったようです」
ホオゥッ。ケケケケ。
またあの鳴き声だ。
だが鳴き声はそれでは終わらなかった。
ホオゥッ、ホオゥッ、ホオゥッ、ホオゥッ、ケケケケ、ホオゥッ、ホホホオゥッ、ケケケケ、ホホオゥッ、ホオゥッ、ホホホホホホホホホホホホホホホ……!
数え切れないほどの幾つもの声が何重にも重なって黄昏の暗い森の真ん中に繰り返し繰り返し木霊した。
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