喧嘩

「ここよ」


 教会は小さかったが、裏の墓地は広大だった。


 眼下になだらかに下る丘陵地。見渡す限り一面に規則正しい間隔で数百の墓標が並んでいる。その真ん中。磨かれた黒大理石の低い塀に囲まれて、白く光る白大理石の塔があり、その頂上には水晶の女神像が天に両手を差し伸べている。


「これが……グリステル様の」

「そう。彼女は高貴な方々に人気があったみたいで。一時期はここに何人も慰霊に来られたけれど、今ではさっぱり。どうぞ祈って上げて。少なくともあの腕の主は喜ぶかも。私は教会に戻るけど、どうかゆっくりして行って。帰りは好きに帰ってよくてよ。挨拶も断りもいらないわ」


 そう言うとドリスはウルリチたち四人をグリステルの墓に残してさっさと教会に戻ってしまった。


 グリステル・スコホテントト

 安らかな眠りを

 光と安らぎが満ちる天の花園で


 簡単な墓碑銘。生没年はない。


 ウルリチは暮石に触れてみた。

 硬く、冷たい感触。それは死を体現するに相応しい感触と思えた。

 風が吹き抜ける。

 昼下がりの丘陵地の下草が、墓標の間で波のように風に撫でられて揺れてゆく。


 彼女は死んだのだろうか。

 今思えば、そう考えた方が辻褄が合う気すらする。

 森の妖精の言葉、地の妖精の金貨、使役する魔物と黒焦げの愛馬……。


 全ては、亡霊が見せた幻影だったのだろうか?

 彼女は、関係者の誰もが口を揃えて言うように、この世のものではないのか?


 彼女を最後に見てから日数も経ち、ウルリチは少し自信が無くなって来た。

 目を閉じて、瞼の裏に彼女の戦う様子を思い出そうとしても、それは夢のように不確かになっていて鮮明な像を結ばない。

 目を開ければ、はっきりとした輪郭と質量を持つ彼女の墓。


 ウルリチは溜息を吐いて振り向いた。

 そして自分の顔のすぐ鼻先に、細身の剣の切っ先を突き付けられているのを知った。


「動かないで」


 タリエ=シンだ。

 彼の笑ったような顔の作りは、さっき教会でお茶を飲んでいた時と勿論変わらない。だが眼だけは、凄みのある真剣さを帯びてウルリチを射抜くような鋭いそれに変わっていた。

 アントンは、と思って視線で探せば、彼は巨漢の傭兵に後ろ手を取られ、口を押さえられて声も出せずにいた。


「ここからは気を付けてお喋りなさい、ウルリチ・モイテング 。質問するのは私。お解りだと思うけど、私たちはあなたのお友達を一息にここの死者たちの仲間にすることもできるし、あなたのその大事なことが見えてない両の目を、文字通り節穴にすることもできる」

「タリエ=シン……君は……一体……?」


 ぴう、と顔の前で音がした。ウルリチの左の眉がぴっ、と小さく裂けて、滲んだ血が玉を作り、瞼を転がったそれが彼の目に入って彼は思わず左目を閉じた。


「質問するのは私。それはこちらの台詞だよ商家の幽霊男。何故グリステル・スコホテントトを追う? 何が目的だ? 誰の差し金だ?」

「……助けて貰ったお礼をするためだ。誰の差し金でも……」


 ふわ、とタリエが影のようにウルリチに寄り添って来て、左手でウルリチの顔を殴った。ウルリチは鼻血を出しながら蹌踉めき崩折れて、尻餅を突いた。アントンがうーっ、と呻き声を上げた。


「嘘だ」


 涙目で膝立ちになったウルリチの鼻先に再び剣を突き付けながら、タリエが言った。整った、どちらかというと美青年と言っていい彼の顔は今、威嚇するイヌ科の獣のような風情で、敵と認めたものの喉笛を食い破るのを躊躇ちゅうちょすることはなさそうだ。こっちが彼の、タリエ=シンの本性かも知れなかった。


「礼を言うため? 手間暇を掛け過ぎだ。死んだと聞いて墓まで来る馬鹿がどこにいる? 私たちに払う金、ここまでの旅費。費用を幾ら掛けた? 利にさとい商人が、そんな非経済をわざわざするわけがない。……何か特別な事情がない限りはな」


 なるほど、とウルリチは思った。この男は何か誤解しているのだ。グリステル・スコホテントトに対しウルリチとアントンが何か害意を持っている、と当たりを付けたのだろう。ということは、この男はグリステルの……味方? だとすると今この場で、自分もアントンも助かるためには……。


「君の想像の通りだよ、タリエ=シン」


 ウルリチは鼻血を拭いながら立ち上がった。ウルリチの鼻先の移動に従って、突き付けられた切っ先も正確に付いて来た。


「やはり春光卿を狙う刺客か。黒幕は誰だ? 王党派か? 枢機卿か?」

「違う。想像の通り、と言ったのは、の部分さ」

「……どういうことだ?」

「前に君が言った通りだ。あの日、キャラバンが襲われて全滅した時。僕はグリステル・スコホテントトに会った。キャラバンを襲ったコボルトを全滅させたのは彼女だ。そして僕と彼女はお互いに惹かれ合い、あの夜……男と女になった」

「……なに?」

「意味が分からないか吟遊詩人。彼女は、僕の初めての相手だ。朝目覚めると彼女はいなかったが、僕は彼女が忘れられず……」

「嘘だ!!!」

「何故そう言い切れる⁉︎ 彼女の危機にも、助けが必要な時にも、そして今も彼女のそばにいないお前が! この二年、何をしていた? 酒場で歌っては金を貰い、気ままにふらふらしていただけではないのか? 僕を殺すのか? 僕は金持ちで、彼女をその資産で支えることができる。僕を殺すことが、本当に彼女のためになると思うのか⁉︎」


 剣の切っ先が下がった。タリエはわなわなと震えている。少し俯いたために、目の表情は帽子で見えないが、その唇は真一文字に固く結ばれていた。

 ウルリチの想像は図星を突いていたようだった。恐らくタリエ=シンとノヴォーコ・フォルドミートは、グリステル・スコホテントトの昔の仲間だ。彼らもまたグリステルが生きていると信じ、その手掛かりを追っていたのだ。


「何か言うことはあるか? 商家の幽霊男相手に、剣が無ければ喧嘩も出来ない羽帽子の旅芸人が」


 返事は獣のような雄叫びだった。ウルリチはやり過ぎたことを少し後悔したが、タリエが剣を捨てたのを見て、これでいい、と思った。タリエは羽根帽子がすっ飛ぶのも構わずにウルリチに飛び掛かり、馬乗りになってウルリチを殴り始めた。


「貴様にっ、貴様に何が解る! 隊長が目の前で爆発に巻き込まれるのを見た我々の気持ちが解るのか⁉︎ 二年だ! 吟遊詩人に! 傭兵に身をやつし、だが隊長は生きていると信じて彼女を探し続けた我らの気持ちが、貴様に分かるのか⁉︎」


 タリエ=シンは泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、子供のように泣きじゃくっていた。涙に気を取られたのか、ぼかぼかとウルリチを殴る拳が一瞬緩くなった。ウルリチはその一瞬を突いて、馬乗りになるタリエの左の膝を両手で掴み、力任せに横倒しにひっくり返した。


「ああ解らないね!」


 傷だらけの顔で、腫れ上がった目でそう叫んだウルリチは今度は逆にタリエに馬乗りになって、タリエの顔を殴った。


「じゃあお前には分かるのか⁉︎ 僕の本当の気持ちが! 確かに彼女を抱いたなんてのは嘘だ! 彼女は僕を助けて幻のように消えた! 僕の胸に、穴が開いたんだ! 穴だぞ! 胸に! 穴が!!!」


 ウルリチも泣いていた。自分でも何が悲しくて何に怒っているのか分からない。だが湧き上がる感情の奔流ほんりゅうは、彼の制御を超えて理不尽な暴力となって迸った。


「この穴を埋めるためだったら僕はなんでもする! 手間暇? 金? 自分はどうなんだ? 死んだかもしれない彼女の影を追いかけてこの二年、無限に手間暇と金を掛けて来たんじゃないのか? それはなんのためだ! 彼女の墓の前で恋敵を殴るためか⁉︎」


 ウルリチは肩で息をしながら、更に続けてタリエを殴ろうとしたが、人を殴るというのは思ったよりも疲れるもので、腕が上がらなくなり、それを諦めてタリエの隣に倒れこんだ。


「私は……」


 タリエは弱々しい声で呟いた。


「春光卿の、グリステル様の、お力になりたいのだ……今度こそ……今度こそ……」

「僕は……」


 声が上手く出ない。慣れない大声を出して、喉はがらがらだった。


「彼女が好きだ……この気持ちを伝えたい。例え、どんな結果に……なっても……」


 墓地に倒れ、泣きながら肩で息をするぼこぼこの二人の目に抜けるような青空が眩しい。白い鳥が二羽、連れ立って高い高い所を飛んでいた。


「……わだちだ」

わだち……?」


 どれくらいそうしていただろう。

 倒れたまま、少し息が整ったタリエがぽつり、と言った。


「新しい、重量のある大型馬車の轍。コボルトの襲撃現場で、私とノヴォーコはその轍の跡を見つけた。轍は途中から道をそれて、森の小径こみちに入っていた。彼女は、その先だ」

「……案内してくれ。契約はまだ、有効のはずだ」

 

 ウルリチの頼みに、タリエは力なく何度か頷いた。


 抵抗を諦め、後ろ手を取られ口を押さえられたままのアントンは、二人のそんな様子を見ながら自分はいつまでこの状態なのだろう、と視線だけで天を仰いだ。

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