生還

 街にどうやって戻ったか、ウルリチはその詳細を憶えていない。


 彼は意識を失った状態で馬に倒れ込み、馬の歩くままに彷徨さまよっている所を城壁警備の兵卒に発見されてそのまま教会の救護所に運び込まれたからである。


 二日ばかりを昏睡して過ごし、三日目の朝に目覚めて、彼はそれまでとは全く変わってしまった自分を発見した。


 それは抜け殻のような自分だ。


 二人の兄がウルリチの労をねぎらい、とにかく生きて帰ったことを驚くほど褒め称えても。逃げた三人の護衛の騎士が謝罪に来て、跪きこうべを垂れて彼のサンダルにキスをしても。父母が忙しいだろう合間を縫って自分に面会に来て、泣きながら自分を抱きしめても。


 全ての出来事が心の上辺うわべを滑って行き、ウルリチ自身の胸には何の感情の波も立たなかった。

 救護所を出てモイテング邸の自分の部屋に移っても、彼は彼を訪ねて来る全ての人物に当たり障りのない曖昧な返事をして、溜息をついて、なんとなく食事をし、暗くなると眠って明るくなると起きて。とにかく流されるままに六日ほどを過ごした。


 ウルリチが生還して一週間目。

 

 彼の唯一と言っていい友人が面会に来た。

 同じ算術の老師に師事した同じく大きな商家の子息、アントン・ヒューガーである。

 ウルリチより一歳歳上の色男で、世慣れした──悪く言えば俗っぽく軽薄な性分の彼は、ウルリチに起こったことを全て知りながら道端でばったり出会ったかのように


「やあ! ウルリチ!」


 と明朗に挨拶した。続けて笑顔で手土産の果物を差し出しながら、


「思ったより元気そうだな。モイテングの幽霊男」


 とからかった。

 ウルリチは生来母似の白い肌で、読書好きなために日に当たるようなこともなく、そのはかなげで顔色の白い様子をアントンからはいつも「幽霊男」と揶揄やゆされていた。彼は軽口を続けた。


「運命の恋に敗れたよ、みたいなその顔つきを除いたら」


 途端にウルリチの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。


 恋に敗れた。


 その言葉が、あの日以来ばらばらに散らばって機能を失っていたウルリチの心を一つの明確な「理由」へと再び結び付けたのだ。

 一度意識した失くした恋は、生じた痛みと悲しみを燃料とし、得た動力でまた痛みと悲しみを再生産して、ウルリチの胸の中でぐんぐんと占める割合を増していく。


 恋に敗れた。


 そう。恋に敗れたのだ。僕は。


 誰への?

 決まってる。解ってる。あの春光の兵団の黒馬の女騎士への、だ。


 死神のように現れ、怪物のように戦い、天使のように微笑んで、幽霊のように夕闇に消えた。


 彼女は余りにも突然で、余りにも鮮烈で、余りにも劇的で、そして何より、ウルリチが知るこのよのどんな事象より余りにも美しく、余りにも愛らしかった。


 その彼女は、もう彼の側にはいない。

 恐らくこのまま、二度と再び逢うこともない。

 その事実が、息をするごとにウルリチを鞭打ち、その血を逆流させ、心臓の鼓動を凍てつかせるのだ。


 彼はうめいた。

 両の目から止めどなく滂沱の涙を流しながら、荒れ狂う感情の渦を順序立てて言葉に変える術を持たず、死ぬ間際の獣のようにうなりのような悲鳴のような、途切れ途切れのうめきを漏らし続けた。


 目の前でおいおいと声を上げて泣き続ける無二の親友の様子を心配そうに見守りながら、アーガスバーグ一とささかれるプレイボーイは溜息をいて言った。


「参ったな……本当に失恋だったのかい?」

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