死神

 冷静に考えれば、ウルリチは馬車の下か客室か、処刑人が射殺された時点でどこかに隠れてしまうべきだった。

 新たな敵の出現に魔物たちはウルリチどころではなくなっていたし、その新たな敵はウルリチにとっても結局新たな敵で、見つかれば即座に命を絶たれたかも知れないのだから。


 結果から言えば、彼はそうはしなかった。


 血と、泥と、自分の吐瀉物の混合液の中に跪いたまま微動だにせず、目を見開いて迫り来る黒い騎馬を見ていた。

 何故、と問う者があったとしたら彼は暫く逡巡した上で、目が離せなかったから、と答えただろう。


 か、かん!

 犬人間たちは騎馬に対して矢を射かけた。

 五、六本は飛んだであろうその軌跡は粗野な振る舞いの射手の様子とは裏腹に意外な精密さでもって走る黒馬の騎手に吸い込まれて行った。だが騎手は全く速度を緩めることなく左手に装備した円形の盾でそれらを埃でも払うように跳ね除けた。射手たちは二射目の準備に入ろうとしたが、隊長だろう犬人間がそれを制し、接近戦に移行する指示を出したようだった。

 黒馬の速度が余りに速く、二射目が間に合わないからだ。

 犬人間たちは二十人余りが十人程ずつに分かれ、方形の盾で馬を止める係と、槍でそれを攻撃する係との二列横隊を組み、確実に騎馬の乗り手を仕留める陣形を取った。ウルリチから見てもそれは一騎の騎馬を倒すには充分な、合理的な采配に思えた。こうなってしまうと騎馬の選択肢は一つ。手綱を引いて馬を止め、引き返すことである。当然犬人間たちも、黒い騎馬の乗り手がそう動くだろうと思っていたはずだ。

 だが、彼はそうはしなかった。

 夕焼けの赤い背景に黒いシミのように見えていた乗り手とその騎馬は、馬が鎧を付けている様子や乗り手がフードの付いた黒いマントを纏っていることなど細部まで見て取れるようになっていた。そしてその右手には長い槍が握られている様子も。

 彼は槍を正確に水平に構えると、盾を捨て馬に拍車を掛けて更に加速した。身を低くして脇を締め、身体全体を引き絞るようにして、まるで馬の一部のようになった。地響きを伴う馬蹄の響きと大気を揺するような荒々しい馬の呼吸の音は、それが幻でないことをウルリチに知らしめた。


『アーチボド!』


 犬人間の隊長が何かを指令し、盾係たちが身を寄せ合って足を踏ん張った。


 かーーーんっ


 拍子抜けするような軽い音に


 どどどどど……


 地の底から腹に響く振動が続いた。


 ウルリチは見た。

 黒騎士の長槍は盾係の一人をその盾ごと貫き、それでも飽きたらずに背後にいた槍遣いをも連なって貫いた。開いた囲いの穴に高速を保ったまま鎧の騎馬が突っ込んでそのままの速度で通過し、その突撃だけで五人が巻き込まれて跳ね飛ばされ、或いは蹄を打ち付けられて戦闘能力を失った。

 それは風だった。

 漆黒の死神を乗せた一陣の風だった。

 犬人間たちは混乱し、陣形は完全に崩れていた。だが隊長は中々にしたたかで、通過して行った黒騎士に向けてもう一度陣形を立て直し、再び矢を射かけよと部下たちを叱咤しているようだった。

 黒騎士は哀れな犠牲者に刺さったままの槍を捨て、少し行った先で馬から降りて、犬人間たちが陣形を立て直すのを見ていた。


(何をしているのだ。再度突撃するかそのまま逃げるか、どちらにせよ絶好の機会に棒立ちなどして)


 ウルリチがそう疑問を抱いた正にその時、黒騎士が聞きなれない言葉を発した。


「マエグ・グワエウ!」


 少し高い、だが良く通る声。


(若い……?)


 ウルリチの感想も半ば、ざあっ、と傍の茂みが鳴った。ひゅおう、と風の音がした。すると犬人間の弓遣いたちは糸の切れた人形のようにバタバタと倒れて行った。黒騎士は二十メルテも離れており、こちらに何かを飛ばしたようにも見えず、勿論倒れた犬人間たちに矢が刺さっているような様子もない。しかし倒れた魔物たちは皆死んでいるようだった。


(魔法……いや! そんな馬鹿な!)


 そう、そんなものがあるはずはなかった。

 魔法遣いや精霊なんてものは、昔は居たのかも知れないが現代ではお伽話の中だけの存在で、今の世に実際に魔物を倒すような力ある魔法が存在しているとはウルリチには信じられなかった。

 それは犬人間たちも同じようだった。

 彼らは仲間の不可解な死の理由が飲み込めず、混乱して黒騎士から逃げようと動いた。それを隊長がまた叱咤して、逆に下馬した黒騎士に向かって突撃を命じているようだった。相手は一人。犬人間たちはまだ十人余りが健在だ。突撃して押し包めば勝てる、という隊長の判断は冷静だと思えたが、黒騎士がまたさっきの呪文を唱えれば理不尽な死が誰に訪れるか判らず、部下たちの躊躇もまた臆病が過ぎるとも言い難かった。

 結果、犬人間たちは戦いの真っ只中で団子になってモタモタするという失態を演じるに至った。


「ザジ!」


 黒騎士がまた不思議な言葉を発した。

 それが合図だったかのように今度は犬人間たちを挟んで黒騎士とは反対側の道端の木の陰から鎧を着た大柄の豚顔の魔物が現れた。


『ウオオオオオッッッ!!!!』


 豚人間は地平の果てまで響くような雄叫びを上げた。その声の大きさにウルリチも震えて縮み上がったが、元々混乱していた犬人間たちは完全に恐慌状態に陥って全く統制を失った。そして犬人間たちを挟む形に位置していた黒騎士と豚人間は、悲鳴を上げておたおたするばかりの魔物の群れに向かって同時に突進した。


 黒騎士は抜剣した。

 夕陽を跳ね返してその刃が残酷な輝きを放つ。犬人間たちもなんとか抜剣したり槍を構えたりして抵抗らしいことをしようとしたが、最早彼らが黒騎士たちの敵でないことは戦いの素人であるウルリチにも解った。切り結びもそこそこに魔物たちは次々と血飛沫を吹き上げて物言わぬ骸と成り果てた。

 ウルリチは御前試合の騎士の剣術を見たことがあったが、黒騎士の剣技はそれとは全く違っていた。身を擦り合わせるように肉薄し、首を、脇の下を、下腹を、的確に鎧の隙間に刃を滑り込ませて体重を乗せて割く。一人、また一人。流れるような一連のそれは、研鑽を積んだ舞踏のような技術の理論に裏打ちされた説得力を伴っていた。

 追い詰められた犬人間の隊長がウルリチを見つけ、彼の喉に刃を当てて引き起こしながら黒騎士に何かを叫んだ。ウルリチは人質に取られたのだが、彼はそんなことより黒騎士の戦いを見ていたいと感じ、黒騎士だけに集中していてその他のことはどうでも良くなっていた。隊長がまた何かを叫ぶが、黒騎士は全く耳を貸さず、その刃の運びも一分いちぶたりとも鈍ることなく、死を撒き散す疾風となって魔物たちを冥府の底へ誘って行った。そしてその風が、速度を増しながらウルリチの側に向かって来た。隊長はウルリチが盾にならないと知って彼を突き飛ばし、がむしゃらに剣を突き出して黒騎士の顔面を刺そうと試みた。黒騎士はその切っ先を巻き取るように紙一重で躱したが魔物の剣はそのフードを捉えていた。引き裂かれるようにフードが暴かれ、黒騎士の素顔が露わになった。ウルリチの視界に長い髪が広がった。犬人間の頭が胴体に別れを告げて宙に舞う。返り血の飛沫が彼の、いや、の白い頬に無数の紅い点を打った。

 大きな瞳。強い意志を体現する眉。一文字に結ばれた桜色の唇。後ろで束ねられた長い髪。透けるような白い肌とそれを穢す魔物の血。


「美しい……」


 ウルリチは身の危険も、その立場も、置かれた状況も全てを忘れ、恍惚の表情でそう呟いた。


 その短い言葉が、今の彼を満たす感情の全てだった。

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