逃走

「なんだ⁉︎ ザジ! 何に出くわした⁉︎」

『分からねえ! なんだかデケえ真っ黒な塊だ! 俺を見て吠えやがった!』


 闇の中、三人はザジが遭遇した「何か」から逃げる為、洞窟の上り下りや地面の凹凸に足を取られながら全力疾走していた。

 ザジの言葉が真実であるのを裏付けるように、暗闇のすぐ向こう側から何かの獣の息遣いと、重く、その割に素早い足音が聞こえて来る。


「魔物か⁉︎ 伝説に聞く邪竜か⁉︎」

『だから分からねえって言ってるだろ! そいつを降ろせグリシー、追いつかれるぞ!』


 ティタは、はっとした。

 確かにオベルを、怪我人を背負ったグリステルは明らかに息切れしていて、その走るペースは目に見えて落ちていた。

 何かの気配は獰猛な息遣いとともにかなり近くに迫っていて、例えば降ろして自分が担ぎ直すような余裕はとてもなく、ティタが担いだとしても逃げ切れはしないだろう。


『追いつかれりゃそのエルフもお前も喰われる! お前だけでも身軽になれ!』

「断る!」

『グリシー!』

「黙って走れ! さっきの温泉だ!」

『温泉?』

「この男は助けると約束した!」

『姫さんは出口を知らなかったんだぜ⁉︎』

「助けられる命を助けないわけに行くか!」

『騎士は辞めたんだろ!』

「人としてだ!」


 息を弾ませて二人と一緒に走りながら、ティタは涙ぐんでいた。この魔窟でグリステルに出会ったことを、彼女は彼女たちの神たる始祖エルフに感謝した。


「松明を私に! 二人は支道へ! 奴は私が引きつける!」

『無茶だ! 犬死にだぞ!』

「そうなったらティタを頼む!」


「……戦士……様」


 その時、オベルが意識を取り戻した。


「私を、降ろして……あなたは、逃げて……」

「喋るな。まだ走る。舌を噛むぞ」

「降ろして、ください」

「今は駄目だ! 怪我人は大人しくしてろ!」


 グリステルは誘うように松明を正体不明の魔獣に振り立てながら来た道を駆け戻り、さっき出たばかりの浴室まで来た。途中狭い通路があったせいか魔獣の走るペースは落ち、ほんの少しの距離を稼ぐことが出来たようで、グリステルは素早く背負子を降ろした。

「浴槽の中へ。奴が来たら潜れ」

「あ、あなたは?」

「奴を片付けてからゆっくり浸かるさ」


 その会話が終わるか終わらないの内に、ふごーっ、ふごーっ、という巨大な獣の息遣いが暗い通路に反響して聞こえて来た。近い。


 グリステルはギリギリまで下がって相手の出方を待った。やや前傾姿勢になり、膝を少し屈めた。息を整え、暗闇に集中する。


 グリステルを追い詰めたと思った魔獣は低く唸り松明の炎に眼を光らせながらゆっくりと浴室に入って来た。


 ぐるるるるる……


 なるほど、何か黒い塊。大きさは干し草を山と積んだ荷車ほど。眼球がグリステルの手の松明の炎を写して爛々と輝く。


(こいつは……!)


 グリステルはその正体を知った。

 魔獣はゴアッと一言大きく吠えると再びグリステルに向かって駆け出した。巨体に似合わぬ矢のような速さだった。


「熊か!!!」

 

 グリステルは猛然と自分に迫る巨大な熊の顔目掛けて松明を投げつけると、その曲がった杭のような爪の束が彼女に届く寸前の所で素早く横飛びに身を躱した。


 炎は熊の顔面で火花を散らし、視界を失った野獣はグリステルの背後の朽ちた木の格子に突っ込んでそれを粉々にし、狼の遠吠えのような鳴き声を上げながらその先の深い穴へと落ちて行ったようだった。


 オベルはグリステルに言われた通り湯船に身を沈めながら一部始終を見ていた。


「う……」


 グリステルの呻きを聞いたオベルは折れた足を庇いながら湯船から這い出した。そのまま、浴室の壁を背に座り込むグリステルの隣に這いずるようにして辿り着く。


「戦士様! ご無事ですか!」

「ああ……」

「あの怪物は……?」

「見ての通り奈落の底さ」

「格子の先には何が?」

「瘴気落としだそうだ」

「瘴気落とし……毒気を穴に捨てるという」


『生きてるかー! 春光の亡霊!』


 ザジが新しい松明を掲げながらティタと共に浴室に入って来た。


「春光の亡霊か。今の私に言い得て妙な渾名あだなだが、亡霊に存命を問うとは酔狂な」

『おっと、お邪魔だったかな? お二人さん』


 二人の無事を見て取ったザジが軽口を投げてくる。


『あのバケモンは片付いたみてーだな。なら俺も、この風呂に入らせて貰うぜ』

糧秣りょうまつはまだあったかな」

『四人か。節約して二日分ってとこだ』

「今日はもうここで一泊しよう。彼の服も乾かさないといけないし、私は疲れた」

『風呂もあるし、化け物は死んだ。蛇を食うことを嫌がらなければ、もうここに住めるなぁ』


 そううそぶくザジを、他の全員が阿保を見る目で見た。

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