温泉
「まさか、魔窟と呼ばれる洞窟で温泉に入れるとはな……」
一糸纏わぬ姿で湯に浸かりながら、グリステルがそう率直な感想を漏らす。
『言ったろ。ここは元々ドワーフの作業場で、同時に住まいでもあるんだ。風呂くらいあるさ。もっとも、俺もこんな状態のいい温泉が使える状態で残ったままなんて驚いたがね』
浴室の区画の外で見張りをしているザジがグリステルに応える。浴室は、ドワーフたちが大人数の共同で使っていたようで小さな集落に立つ教会の講堂ほどもある。浴槽はその半分を占めていて、グリステルとティタの二人はその広々とした石造りの浴槽に手足を伸ばしてゆるゆると浸かっていた。
「少し熱いが、湯温も丁度いい。私たちが上がったらザジも入ったらどうだ?」
『遠慮するぜ。よくこんなバケモンの巣で鎧を脱げるな。何かあったら裸で走り回る羽目になるんだぜ』
「そうならないよう、きちんと見張ってくれ」
『へいへい』
松明立ての灯りに照らされるグリステルの肢体は女のティタから見ても均整が取れていて美しかった。だがその左半身には痛々しい火傷の跡が爛れとして広い範囲に広がっていて彼女が虫も殺さね深窓の令嬢とは違う世界で生きてきたことを物語っていた。
「火傷の跡が珍しいか?」
「あ、いえ……失礼を」
ティタの視線に気付いたグリステルの言葉に、ティタは謝罪した。
ドワーフの浴室はエルフの集落のそれとは違い大きな浴槽に湯を貯めて身体ごと浸かる形のもので、壁の湯穴からは渾々と湯が浴槽に注がれ続けている。ティタは慌ててグリステルから視線を逸らしながら、気まずさから口元まで湯に沈み込んだ。
「ここは確かに独特の匂いがある。玉子の腐ったような。どうやらティタは我々より感覚が鋭いようだな」
「そうですか?」
「さっきの鹿の死骸も、ザジが松明で照らす前に君はそれにはそれが見えていて、先に驚いていたようだった。匂いだけでなく暗がりを見通す能力も我々より優れているようだ」
「そんな……私は私が、特に優れているとは思いません」
「なら、ティタたちエルフの一族の才能なのだろうな」
羨ましいことだ、とグリステルは独り言のように呟いた。
「温泉……この洞窟が暖かいのも、こんな温泉が要所要所にあってその熱がこもるからなのかも知れませんね」
沈黙が何か気詰まりで、ティタはそう思い付きを口にした。
「道理だな。ドワーフはきっと温泉の熱を利用して地下の集落を暖める技を持っていたのだ。通風を工夫して夏場は涼しくなる機構もあったのだろう。蛇が多いのも、冬でも暖かいこの洞窟の仕組みのせいに違いあるまい。ティタの集落の伝承にある竜とやらも、案外この洞窟に増えた毒蛇のことが人口を経る内に大袈裟になったものではないか?」
「……そうかも、知れません」
「あの鹿の死骸を見た後ではなんとも言えないか。ま、我々の目的は魔物退治ではない。蛇とも得体の知れない怪物とも出会わずにこの魔窟を出られれればそれに越したことはないし、出会ったとしても逃げてしまえばいい」
「はあ」
「あの格子の向こうは何だろうな。通路を塞いでいるようだが、存外出口への近道だったりしないだろうか」
「あれは……『瘴気落とし』だと思います」
「ショウキオトシ?」
「洞窟に溜まる毒気の瘴気を、より低い穴に流して捨てるのです。瘴気は、毒の分だけ清浄な空気より重たいとか」
「成る程な。と、いう事はあの先は瘴気溜まりの奈落の底か」
ティタはグリステルのその言葉に通路を遮る古びた格子の先に文字通りの死の国を想像して、ごくり、と喉を鳴らした。
「生き返るようだ。しっかり身体を洗えるのは久しぶりだから」
ティタの怯えた様子を気遣ってかグリステルは明るい調子でそう言った。
「上がった後、新しい着替えがないのが残念ですね」
グリステルの気遣いが分かってティタも努めて明るくそう返した。グリステルはティタの返事に少し驚いたような表情を作って彼女を見たが、すぐ
「まったくだ」
と、同意を示して笑った。ティタも釣られて笑った。
二人の様子を壁越しに聴きながら、ザジは一人溜息を吐いて肩をすくめた。
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