決意
ザジの暮らす物見台を備えた辺境の小さな見張り小屋は丘陵に立っていた。
手枷を外されはしなかったが、グリステルは牢から出されて、初めて自分が捕らえられていた建物の外観を知った。
見渡す限りの草原。
なだらかに膨らんだ丘の上にぽつんと立つ、小さな塔を持つ小屋。
吹く風に緑の草は柔らかく波打って、まるで緑色の海辺に立っているかのように感じられる。
綺麗だ、とグリステルは思った。
磨かれた宝石の美しさとも違う。血統の良い貴公子の美しさとも違う。研鑽と才能によって編まれた絵画やステンドグラスの美しさとも違う。だが、確かに美しい。
彼女は本当の美とは何か、その深淵に触れたような気持ちになった。
麻縄の取手の桶を持って、小屋の裏の小道を辿り川まで降りる。
成る程、川は山からの雪解け水を湛えて悠々と流れており、新しい季節の生命の息吹を象徴するようだった。
対岸に、小さな人影が見えた。
それは二人組みで手を繋いでいた。
夕暮れで太陽は殆ど山の稜線に隠れ、もはやその威光を空の色に映すのみだったが、その小さな人影はフードを目深に被っていて、自分の方を伺っているようだった。
子供、か……。
ザジの一族、影の民は皮膚が弱く、日に当たると火傷を起こす。ならば子供の頃からあのような出で立ちなのも自明の理だ。
グリステルは、その小さな人影たちに手を振って見たが、彼らは背の高い草の中に引っ込んでそのまま再び姿を見せることはなかった。
***
「味は……どうだ?」
黙々と夕餉を貪るザジが余りにも何も言わないので、グリステルは恐る恐る自分からそう訊いてみた。
「美味い」
「そうか」
干し肉と芋、僅かな香草と固パン、塩。
材料は限られていたが、干し肉を蒸して香草で香りをつけたもの、同じく干し肉から出汁を取って芋を煮込み、塩で味を整えたもの、それに焼き目を付けたパンを添えると、それなりにご馳走らしい体裁は整った。
自分の料理がザジの口に合ったことに安心して、グリステルは本音を漏らした。
「逃がしてくれるつもりなら、最初から閉じ込めなければ良かったではないか」
「あんな大怪我したままその辺をウロウロして、無事に生きて帰れると思うのか?」
「言葉が話せるなら、説明してくれても良かっただろう」
「どうだかね。あんた自分が最初どんなだったか忘れたのかい? 俺が牢に入っただけで舌を噛んで死ぬって叫んだんだぜ? そんな相手になんて言葉を掛けりゃいいんだ」
「少なくとも……服を脱がす前には、了承を得て欲しかったな」
「ついでに言うとあんたが寝てる内に包帯も替えたんだ。汚ねえ服、汚ねえ包帯のままじゃ火傷が腐るからよ。洗うから全部脱げって俺が言ったら、あんたあの時脱いだかい?」
「…………」
グリステルはここに来たばかりの頃の自分を思い出していた。ザジの言う通りだった。今思えば、あの頃の自分が全く他人のように思える。ザジを、オークを敵として憎んでいたのが、遥か昔のことに思える。
グリステルはなんだか可笑しくなって笑った。それを見たザジも、つられるようにして笑った。笑ってる自分が可笑しくて、更に笑いが込み上げてくる。彼女は涙を流して笑った。こんなに心から笑ったのは、考えてみれば生まれて初めてだった。
「この戦争を止めなければ」
一頻り笑ったあと、グリステルは決意を込めて言った。
「間違った戦争で人が死に続けている。この過ちは、正さねばならない」
ザジは黙った。
「私が命を拾い、ここに来たのはそのためだと思う。王都に帰れたならば、どこまでできるか分からないが……戦争を止められるよう、やれるだけのことをやろうと思う」
「……やめときな。折角助かった命だぜ」
「私も馬鹿じゃない。いきなり王を糾弾したりはせんさ。まずは仲間を集め、少しずつ真実を広める。誰だって、戦争がしたい訳じゃないはずだ」
「危険なだけで、何も変わらないかもしれないぜ。いや、何も変わらないまま、あんたは死ぬかも」
「覚悟の上だ」
ザジは溜息を吐いた。
「……俺が手間暇掛けて助けた命だ。簡単に死んだら、許さねえからな」
「承知しているつもりだ」
そうだ。それが自分のこれからの戦いだ。それが自分の命の正しい使い道だ。グリステルはその自分の判断を誇らしく思った。
「水を汲みに川に降りた時、対岸に影の民の子供たちを見た。手を繋いで。手を振ったが逃げられてしまったよ。願わくば、あの子たちが大人になる頃には無益な戦いが終わって──」
ばんっ、とザジが立ち上がった。
「影の民の子供だって⁉︎」
「あ、ああ。フードを目深に被って……」
「いつだ?」
「日暮れだ。山の稜線に日が落ちてすぐくらい。どうしたと言うんだ?」
「……食事は終わりだ。春光の騎士。支度しろ。出発は、今からに繰り上げる」
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