第2話 彼我カレトワレト

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 全教科でパーフェクトスコアを取る方法。

 僕には造作もないごく普通のありきたりな日常だけど、世の中ではそうではない。つまりは異常事態だということのほうが圧倒的に多い。

 だから僕は妬まれる。狂ってる、頭がおかしいと思われるのは大歓迎。銘々好きに僕に対する感情を抱けばいい。直接でも間接でも、なにがなんでも僕の耳に入れたければ努力してくれて構わない。ただし僕からのコメントや感想は期待しないで欲しい。僕はまったくもって何も感じないのだから。

 というわけで、僕は生まれてこの方テストというテストでパーフェクトスコアを取って学年どころか日本全国における首位一位の座に君臨しているわけだけど、そんな僕の天才っぷりを間近でじろじろじろじろ見続けている人間が存在する。丘槻オカヅキ

 彼は、僕の幼等部時代からずっと同じクラスで、現在中学一年の成績別トップのこのクラスにおいても僕と一緒。丘槻は学年二位。確かこの間の模試では全国二位だったといっていた。つまるところ、僕の後ろにばっちりつけている。いわゆる、頭がいいと呼ばれる人種だ。単なる努力家だってことは僕が一番よく知ってる。僕が天才なら彼は秀才。

 彼は僕が大嫌いだ。僕のおかげで万年二位の順位に留まらざるを得ないのだから。ことあるごとに僕に嫌味皮肉を直接ぶつけてくる数少ない人間のひとり。口癖は、死ねば。

 もう最高。だから僕は彼が好き。大好きとまではいかないけれど、全人類の中で5本の指には入る。僕が個体だと認識している人間の数がそもそも5人くらいしかいないのだけど。

 そんな数少ない個体のうちの一人。僕の担任で数学教師。際居キワイ

 彼は丘槻よりも著しく頭が悪い。粗悪な脳味噌の持ち主だけど、性格が最悪ですこぶる好ましい。僕がしばしば持論として唱えていた、サディスト的教師の典型見本。

 もしサディスト的教師だけを選りすぐった博物館を創るとしたら、彼は文句なし目玉展示。別にわざわざ目玉を抉り出して展示するわけじゃない。それはそれで面白いけど。基本的に博物館は死んだものしか展示されていない。動物園なんかお断り。そこは厭だ。生きたものしかいないから。

 とにかく際居は面白い。いちいち僕の予想通りの反応しか返してくれないのが玉に瑕だけど、そこがまた愛らしい。際居が高校時代に気が狂うほど、だからいま現在大いに気が狂ってるんだと思うけど、好きだった塾講師が、僕にそっくりらしい。僕の母親だと思い込んでいる。

 注釈しておくと、僕の母親は僕を産んですぐ父さんと離婚した。最初から結婚なんかしてなかったのかもしれない。なんとなくやっちゃって、なんとなくできちゃった僕が要らなくなって父さんに押し付けた、わけではなさそう。直接訊いたわけじゃないけど、僕にはわかる。

 際居はその塾講師が好きで好きで好きすぎて、ストーカした挙句ついには強姦した。そこでできた子どもが僕だったら大笑いだ。でもその塾講師の年齢と僕の年齢を照らし合わせると、それもあり得ない話じゃないらしい。ぜんぶ際居の妄想だけど。

 そもそも際居が数学教師なんかになろうと思ったのは、その塾講師が数学を教えていたから。純粋すぎて脳髄が融けそうだ。彼女は数学の魔女と呼ばれていたらしい。魔女。あんまりな名だ。鉄壁で冷徹で、それでいて透明な。際居の濁った色眼鏡によるとそう見えたらしい。もちろん際居がそのことを言語化するはずない。なぜなら際居は僕のことが大嫌いだから。反吐が出て虫唾が走るってさ。ぞくぞくする。

 僕は伊達メガネを掛けている。掛けたって掛けなくたってどうだっていいんだけど、僕はそれを強制されている。僕の弟、天才博士 後磑ユリウスようじによって。

 ようじさん(僕はそう呼ぶようにプログラムされた)は、僕より先に生まれている。だけど彼が僕の弟だと言い張るのだから、それが真実になってしまった。都合よく、僕より背が小さいし僕より幼く見える。本当は二十歳なのに。

 ちなみに僕は中一。誕生日は十二月だから、まだ十二歳。ああ早く年取りたい。そして、死んでしまいたい。

 ようじさんは、ぶかぶかの白衣を着て、なんだかよくわからない研究に勤しんでる。専門は心理学。僕の父さんも同じ。一応父さんの弟子ってことになってるけど、ようじさんのほうが頭がいい。ただの天才の僕なんか霞んでしまうくらい致命的な天才。

 僕は、彼が好きじゃない。

 才能に嫉妬しているわけじゃない。そもそも比べられない領域にいる。ようじさんはすでに人類から脱している。進化したその先の新しい種族の長。ようじさんにはようじさんの世界がある。学会とは名ばかりのシンパ集団。出身大学も付属病院も、天才博士の実験場。支配されることで悦楽を感じる。ほんとキモチワルイ。

 放課後、テストスコアが記された紙を際居から手渡される。僕だけ教室で渡さない。数学研究室に忘れたとか適当な理由をつけて個別で。皆のいる前だと際居は猫被ってるから嫌味が云えない。女子生徒に多大な人気がある。顔とスタイルだけは抜きん出てる。

「やっぱお前診てもらったほうがいいぜ。父親がそーゆー研究してんだろ。ちょうどいいじゃねえか。実験材料にしてもらえよ」

 際居はようじさんのことを知らない。ごく普通に日常生活を送っている人間の耳には入らない。写真も嫌いだし雑誌も門前払い。皆目信者だから、広報とかまあ気にしないんだけど。

「何度言ってもわからない際居のために訂正しといてあげるよ。僕の父さんの専門は心理学。確かに精神医学は得意分野だけど、心理学者は診察も診断もできない。法律違反」

「だ、か、ら、そーゆーとこがおかしいっつってんだ」

 この学校は教員もランクづけされる。自分たちだけランクづけされるのが不公平だ、と生徒側がデモだの運動だの署名だのを行なったわけではない。教員側の質の向上。競争させて切磋琢磨させる。それが成功しているかどうかは、この学校の卒業生の合格した大学で一目瞭然。プライドと意地なら誰にも負けない際居は、数学教員内でなんとか最高位を保っている。

 その恩恵の一つ、自分だけの部屋。僕と際居はいまそこで。

「そんなことよりさっさと渡して欲しい。僕だって暇じゃ」

「俺だって暇じゃねえよ。ほら、くれてやっからとっとと」

 手を伸ばす。のをやめる。際居の無駄に長い腕が、僕の手に渡るはずの紙を遠ざける。

「こないだ懲りたんじゃなかったっけ」

「懲りた? バカ言え。調べはついてんだよ。やっぱお前、先生の子だわ」

「その自信満々を裏打ちしてる根拠を聞くよ」

「てめえの父親の名前、いってみろ」

「わざわざ言わなくても知ってるんじゃない? 入学するときに書かされた、家族構成がどうとかいう書類にも」

「いちいちうっせーな。てんぎだろ、てんぎ」

「それが?」

 際居が顔を近づけてくる。僕は視線恐怖じゃないから際居の濁った眼をじっと見てやった。

 メガネのフレームを指先でなぞられる。

「外せよ」

「愛しの先生はしてたって聞いてるけど」

「先生はフレームねえんだよ。だからこっち」

 ご苦労な話。際居はわざわざ先生のしてたらしきメガネを探してきたらしい。いや、作らせたのかもしれない。そちらのほうが確かだし、一軒一軒店を回る手間を考えたら面倒でなくていい。

 僕は可能な限り勿体つけて黒縁メガネを外し、際居の怨念のこもった縁なしメガネをかける。

 視界が歪む。度入り。

「アタマ痛い」

「外すなよ。すぐ気にならなくなっから」

「どうやると先生の視力とレンズの度数がわかるんだろう」

「先生はな、どっかの頭狂った誰かさんと違って素直で綺麗だから、質問すればなんでも教えてくれんだよ。嘘も吐かねえし」

「僕の父さんがてんぎなことと、どう結びつくのか聞いてないけど」

「先生の兄貴がてんぎなんだよ」

「ふうん。それは偶然」

「偶然じゃねえ。本人なんだよ。先生は兄貴が」

 そこまで言って、際居は罰の悪い顔になった。自分のトラウマを自分で抉ったことに気づいたらしい。不自然な間を誤魔化すために窓なんか開けて。

 運動部系部活の掛け声が聞こえる。新入部員扱きの時期。

「へえ、愛する先生は近親姦で」

「ちげーよ。てめえは」

「際居の子じゃないよ。だって遺伝子的に似てない。それに僕の父さんの顔見たことある? そっくりすぎてやんなっちゃうよ。今度会いに来るといい。家庭訪問とか、そろそろじゃない? でも多忙な父さんが捉まれば、の話」

 だけどね、を言ってる最中にネクタイを摑まれた。きゅうと絞まる。心地よい息苦しさ。酸素なんか、ちょっと足りないくらいがちょうどいい。際居の推論には莫迦莫迦しくてやってられないくらいの落ち度があるけど、仮説としては面白い。

 僕が兄妹間に生まれた世間的にタブーな子だとしたら、父さんが母親の話をしないのもわかる気がする。公式には存在しないことになってる母親。父さんの力なら公文書くらいすぐに隠蔽できる。だけどそれはあくまで仮説でしかない。立証されない。棄却。だって父さんは一人っ子だから。

「んなのウソついてんだよ。いい加減認めろ」

「認めるも何も、僕の戸籍はそうなってないわけだから。信じられないよ」

 メガネを外そうとしたら腕を摑まれた。度入りは本当に厭だ。頭の脈がずきずき。吐き気もしてきた。

「アレ、やれよ」

「なんだっけ」

「とぼけてんじゃねえ。こないだの」

「憶えてないな」

 際居がカーテンを閉める。窓は開きっぱなし。涼しい風が通過。夕刻。今日も、帰宅が遅くなりそうだ。唯一の出入り口の鍵も閉まってる。際居は用心深いから、戸に触れてないときは掛かってる。不道徳な物体でも隠し持ってるのかもしれない。

 ようやく解放されて二十時過ぎ。紙切れ一枚受け取るの何時間浪費したのだろう。数えるのがあまりに下らないのでしない。

 駅のホームで声を掛けられた。丘槻。

「あれ? いま帰り?」

「まあ」

「へえ、そっか。お疲れさま」

 丘槻は学校から眼と鼻の先の区立図書館で、閉館時間ぎりぎりまで勉強していくのが習慣。塾には通っていない。通いたくないらしい。

 たぶん、独力で僕を打ち負かしたいのだ。独力じゃ無理だって気づいているはずなのに。独力でなくても無理だって気づいているから、無駄な出費を抑えているのかもしれない。なかなか親孝行な思考だ。僕には真似できない。するつもりもない。

「なにしてたわけ?」

「下らなすぎて忘れたよ。それより君、こっち方面なんだ」

 定期を見せて欲しかったけど、丘槻は不満そうに僕の後方を見つめる。僕の後方に不満を催している物質があるのかもしれない。視線の先は、電光掲示板。どこぞで人身事故があったらしい。

 ああツいてない。いまのところ復旧する見込みはない、とアナウンスが入る。道理で反対側のホームの電車がいつまでたっても発車しないわけだ。

「どうしよう。バスなんかわからないし」

「タクシー乗れば?」

「厭だよ。あれ、すごく陰険な乗り物なんだよ。知らないの?」

「酔うとか」

「車輪のついてるものと相性がよくないんだ。電車だって本当は厭なんだけど」

「瞬間移動すれば?」

「それはいいね。そのうち身に付けるよ」

 丘槻のこうゆうジョークが好きだ。本人がジョークとして言ってるかは別として。

 ベンチに腰掛ける。人身事故がどうのこうので電車が止まっています、とアナウンスがけたたましくて片頭痛が誘引される。ずきずきずきずき。ただでさえ、サディスト的度入りメガネなんか掛けさせられて充分にアタマが痛いというのに。

「アタマ痛いわけ?」

「うん」

「薬は」

「もってないよ」

 丘槻が自販機で水を買ってきてくれた。錠剤を手渡される。

「ありがとう。君って頭痛持ちだっけ」

「早く飲めば?」

 薬なんか飲みたくなかったけど、せっかく普段不親切な丘槻が気を回してくれたんだから已む無く。

 ちょっとどころかだいぶうれしかった。具合が悪い人間には優しいのかもしれない。もしそうなら、いつも具合悪くなればいいのに。

「夜までには帰れるかな」

「もう夜だし」

「君の定義だともう夜? 僕は十時以降だよ」

 先ほどまでホームにいた人たちも耐えかねていなくなった。気の長い人種だってそろそろ限界。

 眠くなってきた。薬のせいかもしれない。だから薬は好きじゃない。僕の意に反して余計な副作用があるから。

「眠いなら寝れば? 動いたとか言ったら起こすし」

「ホント? ごめん」

 今日の丘槻は別人みたいだ。いつもならもっと。もっと、なんだろう。

 わからなくなってきた。ぼんやりする。

 ふわふわする。きもちい。

 身体が揺れる。夢の導入口で呼び戻される。丘槻の声。運転再開したのかな。うとうとしているうちに丘槻の肩に寄りかかってしまっていた。

 謝ったら、別にいいし、と返される。

「まだ動いてないけど」

「そうなんだ。なんで起こしたの?」

「起こしてないし」

「嘘だぁ。呼んだでしょ、僕のこと」

「寝ぼけてんじゃないの? それか幻聴。夢」

「かもね」

 眼を瞑ったら丘槻に呼ばれた。北廉(ホスガ)、て。

「呼んでないんじゃなかったの?」

 返答は無言。眼を開けてないから丘槻の表情がわからない。アナウンスは相変わらず同じ内容を繰り返して繰り返して。

「頭痛は」

「だいぶ楽だよ。ありがとう。この薬効くね」

「ねえ」

「なあに?」

「際居のとこいた?」

「どうゆう意味だろう」

 丘槻が何か言うまで待ってたけど何も言わない。しばらく経った。けたたましいアナウンスを十セットくらい聞いてしまった。

「際居のとこにいたら何かいけないかな」

「なにしてたわけ?」

 息だけの声。肩に寄りかかってなければ聞こえなかった。僕が眼を開けてたら息すらなかったかもしれない。口の動きで伝達。

 丘槻は、僕が際居のところで実際何をしていたのか聞きたいわけじゃない。質問は文字通り受け取ってはいけない。丘槻の発語はほぼ疑問だから。

 この場合はおそらく、抑止。

「君は、僕に行って欲しくないんだね。際居のところに」

「なんで」

 の次に続く言葉を、丘槻はわざと省略した。僕になら伝わる。そう思ったわけじゃなくて、言おうと思ったけど、寸前で言いたくなくなったのだ。僕にわかる。

 靴音。階段を上がったり下りたり。エスカレータの稼動音。

 もしかして、やっと。

「北廉」

「なに?」

 たったいま運転を再開致しました。

「俺は」

 お客様には大変ご迷惑を。なお、現在○○分の遅れが。

「誰でもいいなら」

「誰でもいいわけじゃないよ」

「じゃあ」

 眼を開ける。度のないただのプラスティック。それを通さずに、隙間から直接丘槻の顔が見えた。

 人が増えてきた。ゆっくり離れる。肩から。身体から。髪を整えてベンチから腰を浮かす。

 丘槻は立ち上がらない。僕と眼が合う。

「本当は方向逆じゃないの?」

「間違えた」

「早く行きなよ。向こうのほうが先に出るみたいだ」

 丘槻は微かに頷いて階段を下りる。ぐわんぐわん動くエスカレータを無視して。一度くらい振り向いて手を振ってくれたって良かったのに。

 僕は、彼の後頭部が完全に階段に沈むまで見つめていた。あのペースじゃ間に合わない。ほら、発車。

 家に着いたら夜だった。父さんは今日も帰ってこない。あの人は、僕なんか気に留めない。どうだっていいのだ。生きていようが死んでいようが。試しにマンションの屋上から飛び降りてみようか。絶対に効果なし。墓に入ったって会いに来てくれるかどうか。

 父さんは超有名私立大学の教授。研究室のある建物のフロアを丸々改造させてそこで寝起きしている。そのくらい権力があるのだ。加えてもうひとつ。僕に対する興味より、研究に対する興味のほうが圧倒的に勝っているということ。

 知ってる。僕なんかつまらない。テストスコアをパーフェクトにする方法。僕が知っているのはそれだけ。

 次の日際居が放課後会議だったので大学に行ってみた。父さんに会えればいいけど、望み薄。うろうろしたって意味ない。父さんがいるのは研究室。この建物の最上階。そこから出るときは、たいていようじさんと一緒。

 ようじさん。

 思い出してしまった。思い出してはいけない。思い出したらあの人の思う壺で、絶対、僕の後方に。

「えとり君」

 振り返りたくない。下を向いてたら、ようじさんが僕の顔を覗き込んだ。背が小さいとこういうときに便利。

「うっれしいな。俺に会いに来てくれたの?」

「違います」

「まーいいや。ちょうど呼び出そうと思ってたんだよ。ついてきて」

「なんでですか」

「いいじゃん。ビックリするよ」

 ダメだ。ようじさんには逆らえない。僕の脳はそういう風に作り変えられている。

 大学の敷地を抜けて、ようじさんの住居兼研究所。もともとは父さんのものだったらしいけど、ようじさんがねだって譲ってもらったみたい。

 三階建て。セキュリティが厳しいからようじさんが一緒じゃないと入れない。父さんは別かも。

 病院みたいなにおいがした。初めて入る。ひんやりした空間。少し寒い。エレベータに乗って地下へ。地下?

「地下があるんですか」

「そうだよ。俺もあんま行かないけどね」

 到着音。コンクリートの床、壁、天井。直方体か立方体か。誰かが寝ている。僕と同じくらいかちょっと下の。

 誰かに似てる。誰だろう。

 ようじさんは、彼を自分の息子だといった。嘘だ、とは思ったけど、ようじさんが言うんだから真実だ。僕はそう思うしか選択肢がない。脳だってそう結論付けてる。

 彼は、あづま君といった。名字は。


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 それから毎日彼に会いに行くようになった。土日も祝日も。天才博士のようじさんの息子の割には常識が欠如してるけど、どこかで隔離して育てられてたのならまああり得る。ようじさんは学校が嫌いだから、案の定あづま君を通わせてなかった。勉強なんか、ようじさんに教えてもらったら真っ先に嫌いになる。現にあづま君は、勉強が大嫌いだった。手遅れ。

 やっぱりようじさんには似てない。ようじさんに似てたら、兄の僕にも自動的に似ることになるんだけど、それもないし。どっちかというと。ううん。誰だろう。会ったことある人だと思うんだけど、ここまで出かかってるんだけど。

 際居のところに滞在する時間が短くなっていく。学校にいる時間も。丘槻とは話す。丘槻のあの素晴らしいジョークセンスに一日三回以上触れないと電池切れを起こしそうで。

 頭痛の一件以来、顔を合わせるたび丘槻は頭痛薬をくれる。一回分ずつちまちまと。それがまた最高にクールで堪らない。そういうところが好きだって言ったら、死ねば、だって。

 本当に最高。

「最近楽しそうなんだけど」

「そう? いつも通り、死にたくて死にたくて、とにもかくにも死にそうだよ」

「じゃあ死ねば?」

「そうする」

 図書館ならここで曲らないといけないはずなんだけど、ここで曲がらないととんでもない遠回りになるんだけど。

 丘槻は僕についてくる。とうとう駅まで。

「僕と一緒に帰りたかったの?」

「そっち」

 丘槻が指した方向に書店があった。参考書でも買うのかもしれない。

「そっか。じゃあね」

「北廉」

「ん?」

「あした」

 毎週土曜の確認テスト。

「ガンバって」

「死ねば」

 僕を追い抜く可能性があるのは丘槻だけ。だから是が非でも奮闘して欲しい。僕は近々学校をやめる。中退して大学に行く。父さんの助手と名乗る女性が僕にスキップをもちかけに来た。らんららんら。父さんの代理。

 父さんは忙しい。その過労が祟っていま入院している。大学の付属病院。学校をサボって見舞いに行った帰りに、その助手と出会った。僕には見張りがいる。生命活動込みの監視カメラ。しかし行動制限はされない。彼らの役割は僕を観ること。観たいなら観ればいい。僕は特に気にならない。

 その助手は割と好きかも。僕が車酔いすることを気遣ってくれて、次回は酔わないような乗り物を用意してくれると言った。すごく楽しみ。いったいどんな乗り物で迎えに来てくれるのだろう。それを考えただけでうきうきわくわくしてくる。

 僕は明日のテストを受けない。なぜなら父さんが退院するから。公欠というやつ。使ったのなんか生まれて初めて。テストは追試を受けられることになった。明後日、日曜に。僕だけのために担任の際居が休日出勤。可哀相だけど、まあ教員なんか生徒のために粉骨砕身しても別に罰は当たらないと思うし。例え、自己愛尺度最高値のサディスト的教師の生き見本だとしても。

 あづま君のところを訪ねる。また居眠りしてた。昨日来たときより学習ドリルの量が増えてる。ようじさんの怒りを買ったんだろう。ぱらぱら捲ったけどほとんど真っ白。アルファベットが特に壊滅的。

「ああ、来てたのか」

「ごめん。起こした?」

「うんまあ」あづま君は大きな欠伸をして頭を掻く。

 この動作。どこかで見覚えがあるんだけど。デジャヴュかな。

「寝る?」

「なあ」あづま君に手招きされる。指の先。監視カメラ。

 あづま君も見張られている。僕と同じ。観ているのはようじさんだ。音もどこかで拾っている。会話も聞かれている。

「気になるの?」

「そうじゃない。なんつーか」

「なに?」

 手と手。指と指。

 あづま君の手は温かい。僕は死人の手。冷たい。

「明日も来るか」

「ごめん。明日はちょっと」

「わかった」

「訊かないの?」

「用事があるんだろ。それでいいよ」

 本当は行きたくない。出来るなら、明日もここに。

「んじゃ、あさって」

「うん」

 引き止めてくれれば行かないのに。父さんの退院付き添いなんかボイコットするのに。干渉は嫌いじゃない。もっとずかずか入り込んで欲しい。あづま君は優しい。

 次の日、いつもよりだいぶ早く起きた。よく眠れなくて夜中に何回も眼が醒めた。行きたくない。生きたくない。あの助手の人だったらもう少し気分がよかったのに。わけのわからない事務員みたいなのが迎えに来て、陰険な黒塗りの車に押し込められた。頭痛と吐き気が酷くなる。完全に車酔い。病院のにおい。死のにおい。退院はすごく事務的だったけど、わけのわからない事務員は、道中ずっと父さんとわけのわからない話をしてて。父さんだって病み上がりなのに。さらに気分が悪い。

 暗証番号。ロック解除。父さんは大学で降ろしてもらうべきなのに。なぜかマンション。帰ってくる意味も時間もない。まだ療養中なのだろうか。だとしたら、父さんはしばらく僕と一緒に暮らすのかも。どうしよう。どうしようもない。エレベータ。息が詰まる。最上階。こんなに遠かったっけ。

 父さんは何も言わない。何も言う必要がないから。僕も見てない。何も見てない。父さんが関心があることはたったひとつ。僕以外。

 水の音。浴室から。僕じゃないから父さん。そうじゃなければ幽霊。あづま君に会いたい。父さんが大学に戻ってくれれば。早く。耳障りな振動。父さんのケータイが鳴っている。

 着信だ。助手の人だったらいいな。

「はい」

椎多シイタです。ってあれ、えとり君? 先生は」

 やった。助手の人。

「いまシャワーを」

 僕の声と父さんの声を聞き分けられるなんて。さすが。

「そっか。参ったなあ。確認しときたいことがあったんだけど」

「急いでますか」

「うん、びみょーにね。だから電話したんだけど、無理かな」

「ちょっと待ってください」

 保留にして、バスルーム。シルエット。僕が大きくなったらこうゆう形になるんだと思う。そのくらい同じ。コピィ。クローン。

「あの、椎多さんって人から電話が」

 戸が三分の一くらい開いて、手が出る。僕はケータイを手渡す。話し声。父さんの声を久しぶりに聞く。やっぱり僕以外なら喋ってくれる。

 アタマが痛い。あたまがいたい。脚の力が抜けて座り込んでしまう。

 洗濯機。父さんの着てた服がぐるぐる回っている。父さんのにおいが洗剤に掻き消される。

 脚が見える。顔を上げたら父さんがいた。ケータイ。置いてこようと思ったら腕を摑まれた。痛くないけど、

 あたまが。いたい。

 気づいたらベッドにいた。父さんの部屋。普段は無人だけど、今日はそうじゃない。父さんが椅子に座ってる。デスク。背中を向けてるので何をしてるのかよくわからない。さっきの用件は済んだのだろうか。助手の人は急いでた。メールかな。自分の部屋に戻りたいけど、自分の部屋がどこだったか思い出せない。服が見当たらない。寒い。

 父さんが振り返る。わけないけど暗い部屋。そういえばメガネ。失くしたらようじさんに怒られる。どこだろう。ベッドの周りにはない。脱衣場に置きっ放しかも。取りに行きたいけど、やっぱり脱衣場がどこなのかちっともわからない。身体が重い。

 学校に遅刻する夢を見た。遅刻したって、どうってことない。テストも授業も友だちも僕には必要ない。僕が欲しいのは、欲しいのは。安らかなシ。

 黒板の前に座った際居が退屈そうに肩を回す。そうか、日曜になった。答案用紙の空欄が埋まってる。僕の字。きっと僕が書いたんだろう。早く終わればいいのに。あと何教科。

 これが終わったら。

「おら、そいつ置け。終わりだおわり」

「とっくに置いてるよ。面倒だからすぐ次やらない?」

「俺だってそうしたいさ。だがな、こうやってスケジュールっつうもんがあってな。崩せねえんだよ従順なキワイ先生は」際居が黒板を平手で叩く。

 確かにそんなこと書いてある。いま気づいた。時計と照らし合わせるとまだまだ。いまの時間は英語だったらしい。

「単にオリジナリティがないだけだよ。僕なら予定時間の半分で終わる。際居だっていいこと尽くめだ」

「やってもいいがな、したらお前、0点だぞ0点。ここまで続いた学年首席の記録が途絶えちまうんだぞ。いいのか? 父親哀しむんじゃねえの?」

 父さんは、哀しんでくれるだろうか。あり得ない。

「際居はうれしいんじゃない? 大嫌いな僕の記録がストップして」

「まあな。でもそう簡単にもいかねえんだ残念だがな。俺の立場はいまんとこてめえらお坊ちゃんお嬢ちゃんのお守りだ。そうしねえとな」

「へえ、クビになるくらいなら僕の学年首席を死守してくれるってこと?」

 際居が卑下た笑いをする。

「いいこと教えてやるよ。俺はてめえが学年首席、兼全国トップに君臨し続ける限り金一封に困んねえっつう便利な仕組みだ。つーわけで、カンニングでもなんでもして満点取れ。見逃してやっからよ」

 そんな。際居はそんなにつまらない人間だっただろうか。カネに執着するなんて。際居が執着しているのは、高校のときに好きだった塾講師じゃ。ふっ切れた? 筈がないから、きっとまた記憶の奥底に。僕がアレをやらなくなったから、忘れてる。トラウマの蓋が閉じてる。もう一度抉じ開けてやりたいけど僕はもうそんなことに時間を取られてる場合じゃない。

 僕にはもっと、面白いことができたんだから。

 テストが終了するなり走った。際居に呼び止められた気がしたけど気のせい。

 もう厭だ。厭だ厭だ。何が厭なのかわからないくらい厭だ。せめて同じ部屋に丘槻がいてくれれば。一緒にテストを受ければまだましだった。

 父さんが入院なんかしなければ。マンション。帰りたくない。父さんは本当に療養中で、一週間ほど大学に足を運べない。ドクタストップ。

 今日だけでいいから。

 あの何もないコンクリートの部屋に泊めて。

「俺は別にいいけど、あれ」あづま君はちょっと困った顔を浮かべて、天井を指さす。カメラ。

 僕は首を振る。ようじさんに観られるのも厭だけど、隣にあづま君がいるなら。

「なんもねえぞ。布団もゲームも」

「いい。要らない」

「背中痛いって言っても知らないからな」

「平気」

 ようじさんが僕を連れ出すことくらいわかってる。追い出されたって戻ってきてやる。僕は家に帰りたくないんだから。

「腹減らねえか?」

「ううん」

「そうか? いつもならそろそろ」あづま君がドアのあるほうを睨む。ようじさんが食事を運んできてくれる時間なんだろう。

 ようじさんが来る。そう思って身構えてたけど、全然そんな気配もない。あづま君はどうでもよさそうな感じで再び床に寝そべる。計算ドリルを枕にして。

「ところでさ、なんでようじさんは君をこんなところに容れてるの?」

「悪い子は閉じ込めるんだと」

「悪い子なの?」

「そんなつもりないんだけど」

「厭じゃない? こんなとこにいて」

「楽しくはない。つまんなくもないけど」

「スゴイね。僕だったら耐えられない」

 ここにいると時間間隔が麻痺する。永遠の一瞬。

 あづま君がうとうとしてるので、僕も眼を瞑る。あづま君の寝息が聞こえる。本当に寝てしまったらしい。小声で呼んだけど返答なし。せっかく一緒にいるのに。もっと話がしたいのに。

 手に触ってみる。僕よりちょっとだけ小さい。足のサイズも僕のほうが勝ってる。

 心臓の音を聴いてみる。とくとく。生きてるんだ。あづま君は生きてる。僕の心臓は一応動いてるみたいだけど、脳のほうがストライキ気味。狂ってる。全教科パーフェクトスコアなんて気が変じゃなければ取れない。知ってる。僕は天才じゃない。天才ってゆうのは、ようじさんみたいな。

「う」

 あづま君が寝返りを打った。シャツの襟元が乱れて首が見える。触りたい。触っても。ようじさんに怒られるだろうか。怒られると思う。彼はようじさんの大事な息子だから。僕みたいな気が狂った人間が穢しちゃいけない。

 でもようじさんは止めに来ない。絶対観てるはずなのに。泳がしてるのだろうか。僕をいじめるために。

「えとり?」

「起きちゃった?」

 あづま君なら、わかってくれる。僕が何をしたいのか。何をして欲しいのか。ぜんぶ。服を脱ぐ。寒いけど。

 ケータイが鳴った。僕はケータイなんか持ってない。あづま君がようじさんに渡されてる機器。用があったらそれで呼べ、てことになってる。ぷるぷる。

「出ないの?」

「どうせ嫌がらせだろ」

「嫌がらせ? 怒られても知らないよ」

 早朝にこっそり戻ったら玄関先に父さんが待ち構えていた。ようじさんが告げ口したに決まってる。学校を休めと言われた。それは別に構わないけど丘槻に会えない。やっぱりようじさんは天才だ。ようじさんに強制送還されるより、一日丘槻に会えないことのほうがつらい。いや、一日じゃない。今日で丸三日会ってない。電池なんかとっくに沈黙。取り替えるか充電しないと、僕は死にたくなる。

 そういえば、父さんが口を利いてくれた。ちょっとうれしい。心配してくれたのかな。連絡しなかったし。

「えとり」

 僕は吃驚して息が出来なくなった。うそ。父さんが僕の名前を呼んだ。うれしいけど気味が悪い。きっとようじさんの入れ知恵だ。父さんはようじさんの言うことならなんでも従う。思った通り。僕をいじめている。あづま君に触ったから。そのお仕置きで。

「あの、僕、やっぱり学校に」

「行かなくていいと言ったろう。二度と行かなくていい。すまなかった。あのような下らない制度に押し込んで。すでに手続きは済んでいる。椎多君から聞いてるね」

「え、でも」

 僕はまだ返事をしていない。考えておきます、と言ってそのまま。大学に行く方向に傾いていたのは確かだけど。父さんは封筒を僕に渡す。中身は、学生証。大学の。父さんの勤めている大学の。ようじさんの出身校の。

「いつからですか」

「行きたいと思うタイミングでいい。なにかやり残したことがあるのなら」

「遠くないですか。ここからじゃ」

「近くに部屋を用意した。いまからでも移り住める」

 父さんがここ最近助手の人とこそこそやってたのはこれだったんだ。ぜんぶ決定事項。行きたくなくはないけど、父さんに直接言われると。なんだか。

「あづま君と会うのはやめなさい」

 厭だ。

「なんでですか」

「わかるはずだ」

 ようじさんに言われたから。

「ユリウスがそれを望んでいない」

 ほら。何もかもようじさんようじさん。父さんの基準はすべて。

「僕があづま君に会うことが、どのように悪いことなのか説明してください」

「何度も言わせないでくれ。会うな、とユリウスが」

「だからどうして会っちゃいけないのかそれが知りたいんです」

「えとり」

「厭です。会うなって言われたって僕は」

 せっかく仲良くなれたのに。せっかく親しくなれたのに。

「取り消してくれないと僕は大学には行きません」

「いいのか」

「別に厭じゃありません。中学も、楽しくなくないし」

「そうか。お前がそれでいいなら私はこれ以上何も言えない」

 そしてまた、父さんは僕に関心を向けてくれなくなる。なんてことない。前の状態に戻っただけ。会話もない意志もない。

 なんだろう。すごく哀しい。謝ったほうがいいのだろうか。でも僕は悪いことなんかしてない。それに、謝ったら大学に行きたいっていう返事になってしまう。あづま君にも会えない、

 あづま君。居間のソファでぼんやりしてたら電話が鳴った。父さんが出るはずないので僕が出る。

「もしもし」

「あ、俺」

 あづま君。なんで。

 ああそうか。僕がこっそり自宅の電話番号を登録しておいたのだ。絶対気づいてくれると思ってた。

「遅くなった。悪い」

 君は悪くなんてないよ。すっごく、うれしい。

 だけど、父さんに逆らったのがバレて、ようじさんに最悪の罰を与えられる。次の日あづま君に会えなかった。

 最悪の四年間が始まる。

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