ひんがしひがひがし
伏潮朱遺
第1話 非我ワレニアラズ
1
とにかく油のにおいが立ち込める。ちらつく蛍光灯。内臓の飛び出した椅子。そもそも何色だったかわからなくなったテーブルの隅に限りなく濃縮された調味料。醤油と記載されているにもかかわらず中身はソース。
すでに酢とラー油を混ぜてあったところにこれはひどい。仕方なく作り直す。タレとして使用する前に気づいてよかった。万一憶えていたら帰り際に教えよう。ちらりと中央席を見る。
炒飯はほとんど消えていた。どこにいったのかはわざわざ考えなくていいと思う。蓮華を握る手は忙しなく動いて、山を破壊しトンネルを掘り続けている。店内は会社員らしき集団で賑わっているが、彼らも含めて店員全三名の視線をすべからく集めていることについてまったく無関心。一心不乱に食べ続けている。
食器が接触する定期的な音のみが聴覚刺激。何かを炒めたり茹でたりする音が聞こえてもよさそうなものだが、肝心の厨房が無人なのだから。この店の歴史ともいわんばかりの数々の染みが文様となった白いエプロンを身に付けた店主がちらちらと手元を見ている。時間を気にするまでもない。皿の上には空気しか。
「終わったよ」
店主は言葉に詰まっている。むしろ唖然。
「もしもーし?」
「あ、ああ。終わっちまったな」
それ以上何も言えないだろう。店主は斜め後ろに控えていた男に目配せする。彼はすぐに店の奥へ。手に何かを持って戻ってくる。拍手とともに店内がわっと湧く。
「おめでとうさん」
「ありがとう。ところで何分経ったかな」
「二十分、ですね」
「ううん、やっぱね。調子出ないと思ったんだ」
店主は返す言葉を失って立ち尽くしている。店主だけではない。いま店の中にいるすべての人間が同じことを思ったであろう。それこそ呪いのようにまったく同一の文句を。あり得ない。
「じゃあこれはありがたく。また来ますね」
「あ、ああ」
来るなと思っているなら正直にそう言ったほうがいいと思う。彼女はレジの横をスルーしていった。
↓
再び賑やかになった店内を後にする。
「遅いよ、もう」
待ち合わせていた憶えはないが。暖簾の脇に人が立っていた。何となく見憶えがあるようなないような。
「あ、さっきの」
「そう。見てたんでしょ? 知ってるよ。君は壁際の席で餃子を食べてた。どう? ここの美味しい?」
「≪醤油≫がソースだったんだよ。ひどい店だった」
「へえ、じゃあ≪ソース≫の中に醤油ってこと?」
「いんや、≪ソース≫はソースだった。もう散々」
彼女は栗色の長い髪を払う。どこぞの制服を着ているが学校名がわからなかった。中学か高校かすら。
「どうやって食べたの?」
「隣のテーブルから拝借した。でもそれも」
「ソースだったんだ。うわあ、ついてない」
「あの、ところで何か」
「君さ、家出少年だね」
思わず睨み返してしまう。
「大丈夫。ここに家出少年がいまーす、なんて歩く広告塔みたいなことしないから。駅の近くに交番があったけど生憎そこに行くつもりもない。何でだと思う?」
「えっと、俺急いでるんで」
「正解したらこれあげる」
彼女は上着のポケットから二つ折りにした封筒を取り出す。三十分以内に十人分の炒飯を完食した代わりにもらえる賞金。丁寧に店の名前が記されて。
「からかって」
「ない。私は真剣。パートナが見つかるかもしれないからね」
「パートナ?」
「だって私も家出少年だもん」
「は?」
「は、じゃない。ホント。だからこうやってお金稼いでるの。お腹もいっぱいになって一石二鳥だもんね」彼女は得意そうにピースする。
どう見ても家出少年には思えない。学校帰りにそのまま常習的に店を潰し歩いているようにしか。
「信じてないね?」
「帰ったほうがいいんじゃない?」
「そっくりそのまま返すよ。帰ったほうがいいんじゃない?」
イライラしてきた。完全に向こうのペースな上に向こうのほうが背が高い。
「君いくつ?」
「答える必要ある?」
「ううん、予想。十五」
「だったら何?」
「家出少年はたいてい十五歳なんだよ。ちなみに私も十五歳」
身長が十センチ以上違うのに。なんだか物凄く悔しくなった。
「泊まるとこあるの?」
「俺の勝手だし」
「ないんだ。私ならただで泊まれる。どうする?」
「どうもしないけど」
「ついておいでよ」彼女はくるりと向きを変えて歩き出す。
通学路なせいか人の往来が激しい。ほとんどが中高生。彼女の姿は似たような制服に紛れて間もなく見えなくなった。
ついていく。ついていかない。
その二択なら後者を選ぶ。彼女とは逆方向へ。
知らない街は妙な人間が出没する。気をつけよう。
どこにでもありそうな代替可能な駅。制服はそこに吸い込まれていく。家路を辿るために。
ちょうど発車したところ。ほぼ満員。そんな電車には乗りたくない。
「ついてこいって云ったのに」
真後ろから声がした。
振り返りたくないのでそのまま。
「ついていく必要」
「今日はやめたほうがいいよ。仏滅だから」
「明日ならいいのか」
「うん。とにかく今日は駄目。おいでよ」
手をつかまれそうになったので振り払う。彼女は不思議そうに首を傾げる。
「ただなのに」
「どうせお前の家だろ」
「私の家はこっち」
駅とは反対側を指した。沈みゆく紅いもの。
「どういうつもりだ」
「他意はないよ。興味持っただけ」
「家出ってのは」
「家出するよ。だからこっち」
「意味わかんねえ。家から離れるのが家出だろ。なんで戻るんだよ」
「家の方向だけど家じゃないよ。違う部屋」
返答が面倒になってきた。欠伸をしてみる。
「友だちの家」
「家出するんなら他にすれば」
「誰もいないから」
「友だちは」
「いる。でも他はゼロ」
「そこに俺が行かなきゃいけないのか」
「変な子なんだ。見たほうがいいよ」
「あのなあ、俺は」
「明日のほうがいい」
溜息をついてみる。
「これから行くとこあるから」
「●●?」
寒気がした。彼女は笑う。
「今日は駄目。仏滅だから」
↓↓
案内されたのは●階建てのアパートだった。建物自体は決して古めかしくないのだが、周囲を高層マンションに挟まれているせいでまったく日が当たらない。
●階は●つ部屋が並んでいる。●●●と書かれたドア。影だらけでよく見えないがひとつも表札が出ていない。誰も住んでいないのかもしれない。
彼女はチャイムすら押さずに鍵を開けた。
「お、おい」
「寝てるんだ。こんな音じゃ起きないよ」
真っ直ぐに延びた廊下の突き当たりにドア。その脇にもうひとつあったがトイレか浴室。ふたつのドアに挟まれる形で小さめの冷蔵庫があり、その上に電子レンジ。廊下の途中に簡易キッチンも。
簡素な部屋だった。真っ白の壁にフローリング。天井からボールのようなオレンジ色の照明がぶら下がっている。奥に大きな窓があり外に出られる。他に目立つ家具は大きな液晶テレビのみ。床に置いてある。
「いねえじゃねえか」
「こっち」
振り返ると梯子があった。ロフトはいまさっき通過した廊下の真上に当たる。
彼女はひょいひょい上っていく。真下で見上げると不都合な格好をしているのでそっぽうを向いた。
「やっぱ寝てる」
「誰なんだよ」
「友だち。ずっと寝てるんだ」
「ふうん」
「なんでとか訊かないの?」
「眠いんだろ。寝りゃいいじゃねえか」
彼女はひょいひょい梯子を下りてくる。
「見る?」
「だから誰なんだよ」
「知らない」
「は? 友だちだろ?」
「友だちだよ。名前はわかんない」
「お前の名前は」
「●●●」
「は?」
「君は●●●君だね。●●●●●●●」
思わず一歩後ずさる。
「なんで」
「私が●●●だから」
「●●●は」
「君の知り合いの●●●はもういない。だから君の知り合いの●●●の代わりに私が●●●になった。そういうこと」
「たまたま同じ名前ってことか」
「ううん。私が●●●。君の知り合いの●●●は私」
意味不明。足が竦む。
「上見ておいでよ」
「誰がいるんだ」
「君の知り合いかもね」
ゆっくりと梯子に手を掛ける。汗で滑る。本当は行くべきでないのかもしれない。だって誰がいるかなんて。想像するまでもなくて。
「●年前から寝てるんだよ。彼が決めたんだって」
ぎし。
「起きたくないんだろ」
ぎし。
「起きると死にたくなるからね。もう眠るしか道はない」
ぎし。
「死なないためにか」
ぎし。
「まだ死ねないんだって。逢いたい人がいるからね」
ぎし。ぎし。
白い布団の中に黒い髪。
頭がこっち側。足は向こう側。
枕に頬をつけて。
「知ってる?」
「●●●」
蒼白い顔。眠っているというよりは。
「死んでんじゃ」
「生きてるよ」
僅かに胸が上下している。
鼻と口に手を当てたら息がかかった。顔の横にあった手首に触れる。
「眼醒めさせないと●●に行っても意味がないよ」
「どうやったら醒める」
「今更無理だよ。●年も経ったから」
「遅いのか」
「うん。ちょっと遅かった。●●だったらよかったのにね」
掛け布団を取り払う。ワイシャツの首元から白い首筋がのぞく。人間とは思えない色。単にオレンジ色の照明のせいではないと思う。
電磁波。テレビの電源が入っている。
砂嵐。彼女はそれを熱心に観ている。
「それでも●●に行く?」
「父さんか」
「●●●はいない。彼の父親を●しに行ってる」
「●●●の親父か」
「●●●先生は死にたかったんだ。だから●●●が殺してあげたのに。どうして生きてるんだろうね」
「お前の力か」
「私は●●●だから。誰の味方でもないよ」
「俺は何をすればいい」
「今日は駄目だよ。仏滅だから」
「明日ならいいんだな」
「いいよ。血はあったかいから」
梯子を下りてキッチンへ向かう。シンクの下の戸棚から包丁を出す。
「君は死なないでね」
「誰なら死んでいいんだ」
「死にたい人なら死んでいい」
包丁を持って梯子を上がる。
ぎし。
ぎし。
身体を起こそうとするから。
「起きなくていい」
「僕を●すの?」
「死にたいか」
「君が●してくれるなら」
包丁を振り下ろす。布が裂ける音。羽毛が飛び出す。液体が染み込む。赤とは程遠い。どちらかというと黒。
流れ出る。
じわじわじわ。
ああまただ。またこの夢。
夢だってわかってるのにまったく同じ内容を。くりかえし、くりかえす。面白くもない物語。つまらない。下らない。感想すら出ない。
決まって汗だくで眼が醒める。じっとりと気持ちの悪い液体。けがれた粘液。自分が製造したことが許せない。
リアルとヴァーチャルの差を答えなければ、この夢から逃れられない。
いつも間違える。いつも不正解。もしかしたら答えなんか最初から存在しないのかもしれない。そう思って設問に反論したこともある。なんら意味なし。現状維持。ところにより悪化。
着替えて廊下に。頭の上半分がなくなってるような妙な感じ。汗でぐしゃぐしゃに湿ったTシャツやらを洗濯機に放り込む。
洗剤を探していたら先生が呼びに来た。朝ごはんだと。
「手のかからない奴で助かるよ」先生はガキみたいに笑って洗剤のボトルを手渡す。
俺は探しものが下手だから、それについて思い出し笑いでもしたんだろう。
「言っとくけど、先生の思ってることと違うから」
「何のことだ?」先生は眉をひそめたけどすぐにぷっと息を。「気にしなくていいぞ。俺だって」
「ち、ちが」
「恥ずかしがることでもねえな。いいって。んじゃあ早く来いよ」勘違いと訂正する前に先生は行ってしまう。
すっぱり諦めるのがいちばん。先生は早合点なところがあって常日頃からあんな感じだからもう慣れた。
先生は俺の父さんじゃない。本当の父さんはここにはいない。ここから車で二時間くらいのところにある研究所でなんだかよくわからないことをしてる。別に知りたくない。どうせ大したことじゃない。先生だってそう言う。
洗濯機がぐわんぐわん揺れる。まさか壊れた。いや、ボタンを間違えただけ。脱水をしてしまった。頭が半分になったら手元も狂う。
先生は待ってくれていた。俺が席に着いたところで一緒にいただきますと言って食べ始める。シャケの塩焼き。廊下に出たときいいにおいがしたのはこれ。
「今日はどうする?」先生が言う。
「どうもしないけど」
「欲しいゲームがあるとか言ってなかったか?」
「うんまあ」
確かに欲しいとは言ったけど、こないだ買ってもらったのをクリアしてないし。
「明日って父さんが来るんじゃないの?」
「みたいだな。なんだ? 会いたくないか?」
「そうじゃないけど」
たぶんぜったい訊かれる。あの夢のこと。
父さんは月に一回ここを訪ねてくる。きっちり決まってるわけじゃなくて気紛れで日付が決まる。ああそうそう来週行くから、みたいな軽いノリで連絡してくる。だからその日はここに居なきゃならない。留守番というやつ。先生は父さんが来てる間だけどこかに出かける。入れ違いで父さんが来る。俺は一人で父さんに会わなきゃならない。
心細いわけじゃない。話しづらかったり居心地が悪かったりするわけじゃない。父さんには嘘がつけない。父さんは俺の心が読める。俺だけじゃない。先生の心もお見通し。千里眼で地獄耳。もちろん何度も見るあの夢のことは、父さんはとっくに知ってる。
でも父さんは決して無理強いしない。俺が話せるようになるまで、自分の言葉で説明できるようになるまで静かに待ってくれる。俺からするとそれがイヤなのだ。わかってるなら誘導尋問でもしてさっさと終わらせればいい。性格が悪い。
「あのさ、先生」
「なんだ?」
「先生ってなんで先生なの?」
「そいつはどう答えればいいんだろうな。ロミオって奴がどうしてロミオって名前なのか訊いてるような質問だったらちょっと答えづらいな」
意味は知っている。先生は医者だ。医者のことは先生と呼ぶらしい。それに先生は先生と呼べと俺に云った。だから先生は先生であって、先生は先生でしかなくて。
「あれ、よくわかんなくなってきた」
「あんま深く考えるなよ。頭オーバヒートするぞ」
ぴーぴーと音が聞こえる。
「洗濯終わったんじゃないか?」
「やんなくていいから」
「わかってるよ」
庭に物干し竿がある。俺のだけ干しとくと気まずいので、溜まってた洗濯物も一緒に回した。それが済んでから車に乗る。
先生の運転ははっきり言ってヒドい。スピードを出すことに全身全霊を傾けている。シートベルトをしても凄まじい力で後ろに引っ張られる。その昔父さんも体験したらしい。
でも父さんは先生の運転が気に入ってるから注意してくれない。むしろ助長する。俺が事故ってもいいのだろうか。先生の運転テクを信じているのだろうか。
テクもへったくれもない。滅茶苦茶だ。力押しでしかない。さっさと免許取りたい。先生の拷問ジェットコースタから解放されたい。
「なあ、学校行きたいか?」
「なんで?」
赤信号で停まる。先生は舌打ちした。さすがに信号無視はしないけど、黄色のときはここぞとばかりにアクセルを踏み込む。
「ちょっと訊いてみただけだ。いちお世間のことも知っとかないとな」
「面白いの?」
「どうかな。俺はあんまいい思い出はないな」
学校。なんだったか。聞いたことあるけど。
「どうゆうことすんの?」
「勉強だよ。同い年のガキが集まって切磋琢磨する」
父さんから聞いたのかもしれない。学校。よくわからない。
せっさたくま?
入力。難しい漢字が表示される。それだけでイヤになる。
「つまんなそう」
「だよな」
ゲームの続き。先生は運転に夢中。レースゲームもやったことあるけどRPGのほうが面白かった。アクションも好きだけどシミュレーションはぐちゃぐちゃしてて面倒だ。
生まれたときは父さんが一緒だった。憶えてないけど、父さんがそう言ってた。でも父さんは忙しいから先生に俺を預けた。俺はあの場所で先生に育てられた。だから俺は昔から先生と一緒。そういうのを育ての親というらしい。
でも先生は親じゃない。親だというと怒られる。怒るというより違う、と注意される。結構怖い顔するから小さい頃はそれがイヤだった。ベソかいたかもしれない。
店に着いた。ゲームを買うときはたいていここ。俺が選んだわけじゃない。先生が探してくれた。
「それか?」
「いいの?」
「遠慮してるのか? 柄にもねえな」
遠慮。そうじゃなくて。
「父さんが」
「怒られるってか? なんで?」
「わがままだとか」
先生は俺の手からソフトを奪ってレジに持っていく。袋に入れられ、先生はおカネを払う。レジの横にモニタがあって面白そうな映像が。て、だめだめ。
「いいよ。やっぱ」
「もう遅い。大人しく受け取れ」
父さんに叱られる。ゲームばかりして、と。
「ありがと」
先生は何でも買ってくれる。ちょっと欲しそうにするだけで。どうしてかわからない。こうゆうのが優しいという意味かもしれない。こっそり入力。意味は知ってる。確認というやつ。
「帰ってからにしろよ。やりたいのはわかるがな」先生はシートベルトをしながら云う。
でも袋はまだシートの上。先生はまた勘違い。
「帰るの?」
「買い物してからな。午後からうるさいのが来るぞ」
うるさいの、というのはオオギ先生のこと。確かに先生よりは口数が多いし動きも活発だけど、俺は別にうるさいと思ったことはない。先生と違って一緒に遊んでくれるし、ゲームもやってくれる。兄貴がいたらこんなだったかもしれない。
それなら先生はなんだろう。父さんじゃないし、親じゃないし、兄貴じゃないし。医者?
オオギ先生も医者だ。だから俺は先生と呼ぶ。そしてときどき混乱する。二人が背中向けてるときに先生、と呼ぶと両方が振り向く。そうゆう時に限ってオオギ先生に用があったりするから、先生はすねたような顔をする。相手にしてもらえないとすねるらしい。これは父さんから聞いた。
「お前どれがいい?」
「ううん、ちょっと待って」
オオギ先生はケーキが好きだ。ケーキじゃなくても甘いものなら何でも好きらしい。プリンとかアイスクリームとか。ガラスの向こうにそうゆうのがいっぱい並んで。悩んだ末にチョコレイトケーキ。ぜんぶで三つ買ったけど先生の分はない。好きじゃないらしい。
長い長い坂道を車で上っていくとポールが立ってて先には進めない。でもそれは退かせる。ちょっとコツがあるんだけど先生とかオオギ先生とか父さん以外は知らない。そこから先がダンジョンみたいに迷路になってる。ゴールが俺の家。
先生や父さんは施設と呼ぶ。しせつ。よくわからない。
たぶん先生は他に家があるんだと思う。だからここを家と呼ばない。父さんも研究所が家だし、オオギ先生もどこか違うところが家。とすると、ここは俺だけの家?
「あんれ、まぁたそんなのやって」
計算ドリルをやってたらオオギ先生が来た。俺の部屋は二階の突き当たり。オオギ先生はノックしないで勝手に入ってくる。
「父さんに」
「平気だよ、たまにはサボったってさ。それより新しいの買ったって聞いたよ。僕もやっていい?」とか尋ねるけど、すでに先生はロードしてる。
俺だってちょっとしかやってないのに。明日父さんさえ来なければこんな面倒くさいこと。
「おいおい遊ばせんなよ。お前にはこっちをくれてやるから」
いつの間にか先生が廊下にいた。さっき買ったケーキの箱。
オオギ先生はコントローラを放ってそっちに引き寄せられる。ネズミ捕りの罠みたいに。毎度そんな感じ。
「お前も切りがいいとこまでやったら来いよ。休憩も必要だ」
「わかった」
本当はよくわからないところがあったんだけど、先生やオオギ先生はすたすた行ってしまった。階段を下りる音。でも先生たちにきいてもわからないことのほうが多い。こうゆうのは父さんにきいたほうがいい。
計算をやめて漢字にする。さっき知った切磋琢磨という漢字を書いてみる。難しい。もう二度と使わない気がする。
なんだか疲れた。鉛筆を削って机に置く。消しゴムのカスを集めてゴミ箱に入れる。父さんに指定されたところまで全然出来てない。どうしよう。遊んでたせいだ。ゲームばっかやってたわけじゃないけど、ゲームしかやってない。今度こそ取り上げられるかもしれない。
怒った顔なら先生のほうが怖い。鬼みたい。鬼なんか見たことないけどオオギ先生がそう言ってた。鬼みたいな顔、と。オオギ先生は鬼を見たことがあるのかもしれない。
でも俺は父さんのほうが怖い。先生は怒ったあとまた優しい顔に戻るけど、父さんは怒った前も後も顔が変わらない。怒ってるのか怒ってないのかわからないわけじゃない。雰囲気が怒ってる。そしてゲームをするな、と言われる。
ゲームがあるから勉強をやらないわけじゃない。ゲームのほうが面白い。勉強はつまらない。数字を足したり引いたり掛けたり割ったりするよりダンジョンでバトルしたい。漢字を書いたり文章を読んだりするよりステージをクリアしたい。
いいや。どうせ間に合わない。
ダイニングに行ってケーキを食べる。オオギ先生は自分の分をとっくに食べ終わって俺のを狙ってる。先生が子どもの分を取るな、と言ってくれる。
子ども。大人の反対語。親の反対語。
この場合どっち? ぜんしゃってやつ。
オオギ先生とゲームをしてるうちに日が暮れた。洗濯物を取り込む。オオギ先生も手伝ってくれた。対戦モードで勝って機嫌がよかったからだ。負けたときはぶすっとして口を利いてくれないときもある。
先生の部屋は、キッチンとか俺の部屋がある建物とは別。風通しのいい渡り廊下を進んだ先。俺はそっちの建物が苦手だ。診察室とかいう部屋が特に嫌い。
俺には発作ってゆうのがある。フツーにしてる分には大丈夫なんだけど、すごく疲れたときとかたくさん運動した後とか雨の降ってる日に出ることが多い。のどがすごく苦しくなって息が出来ない。そんなときに入る部屋だからいい思いをしたことがない。もちろん、出るときは具合がよくなってるけど。
右に曲って左側の奥。ドアは開けっぱ。
「おお、悪い。適当に置いといてくれ」先生がのっそり起き出す。大きな欠伸をして眼をこする。
「あいつは?」
「のど渇いたって」
「もう夕飯か」
「ううん、もうちょっとあとで」
「わかった」
先生はだるそうだった。オオギ先生に疲れたのかもしれない。
キッチンに行ったらオオギ先生がジュースを飲んでた。俺の。
「寝てた?」
「うん」
「ふて寝かな。コントローラ二つしかないから」
そうじゃないと思う。先生は一度もゲームをしてくれない。
「ねえ、学校行きたい?」
先生と同じことをきかれたのでびっくりした。
オオギ先生はううん、てうなる。
「明日来るんだって?」
「うん」
そこで先生が来て話が途切れる。今日はオオギ先生が泊まってくらしい。だから夕飯が賑やかだった。
学校。風呂に入りながらずっとそれだけ考えてた。全然わからない。もしかしたら父さんは俺を学校に行かせるのかもしれない。でもおかしい。父さんは学校を嫌いだと言ってた。あんなとこ行かせない、とも。
気が変わった? わからない。父さんはよくわからない。先生にきいてみようか。なんて?
ダイニングもリビングも誰もいなかった。明かりはついてるのに。とすると部屋。オオギ先生も一緒だろうか。どうしよう。気が進まない。
部屋に戻ってちょっとだけ勉強した。わからないところを飛ばしたら、父さんが指定したところまで出来た。漢字のほうは、知ってる字が多くて面白い。せっさたくまはすでに書けない。
学校。いろいろ調べてみる。児童、生徒、先生。
先生?
ここにも先生がいるらしい。やっぱり医者なんだろうか。学校は勉強をするところ。勉強。つまらなそうな響き。ゲームは出来ないのだろうか。漢字書いたり計算やったりするだけだったらわざわざ学校に行かなくても。
ゲームをしてたら眠くなってきた。ボスを倒せたので満足。歯磨きをしてないのを思い出す。どうしよう。下に行きたくない。洗面台は一階の奥。浴室の手前。渡り廊下の横を通らなきゃならない。暗くて怖いわけじゃない。独りで行くのがイヤなわけじゃない。
恐る恐る階段を下りる。ちらりと確認。渡り廊下の向こうは暗い。良かった。先生もオオギ先生も眠ってる。
オオギ先生はちょくちょく泊まりにくるから専用の部屋がある。先生の向かい。どうせ部屋は余ってるし、ほとんど俺と先生しかいない。月一しか来ない父さんの部屋まであるくらいだ。
父さんの部屋は俺の隣の隣。階段を上がってすぐ。父さんも昔ここに住んでいたらしい。聞いたときは嘘だろうと思った。でも先生がそうだ、と言ったから信じることにした。父さんの部屋はずっと昔から父さんの部屋のまま。俺はあまり入ったことない。父さんが鍵を持ってて、先生ですら入れない。
さっさと歯磨きを済ませて部屋に戻る。逃げてるみたいだけどたぶん当たってる。何から逃げてるのかよくわからない。なんだろう。言葉じゃ説明できない。
布団の中にもぐって入力。視力ってのが落ちるからやめろと言われてる。たまに、だから許してもらえるだろう。何度調べてもよくわからない。先生にきいてもいいんだろうけど、何てきけばいいのかわからない。父さんは絶対知ってる。千里眼だし地獄耳。どうして俺が悩んでるのかなんて手に取るようにわかる。
悩んでる? 何に?
よく眠れなかった。またあの夢。頭ががんがん。のどが苦しい。窓が開けっぱ。閉めてから階段を下りる。
「おう、今日はいいのか?」先生は顔を洗ってた。洗濯機を見て吹き出す。
ちょっとムカついた。
シャワーの音がする。オオギ先生がいる。
「飯食ったら行く」
そんなこと言わなくてもわかってる。
「大人しく待ってるんだぞ」
そんなのいつものことだ。慣れっこ。
「昼一緒に食べれねえけど」
別にいい。父さんが作る。それだっていつもと同じ。
先生はたまにお節介になる。たぶん今日のもそれ。腹は立たないけどうっとうしい。バカにされてるみたいで。子ども扱いされてるみたいで。
「わかってるよ」
「悪い。駄目だな。どうも年食うと」
先にキッチンへ。俺が作ってもいいんだけどまだ上手く行かない。先生よりももっとずっと上手い父さんに教えてもらってる最中だから、いつか先生をビックリさせたい。先生が昼寝してる最中に完成。先生のビックリする顔が眼に浮かぶ。
「ちょっといい?」オオギ先生がニコニコしながら手招きしてる。こうゆう時はたいてい。「手伝ってくれない?」
ゆうと思った。
先生の部屋かと思ったら違う。オオギ先生の部屋。珍しい。いつもは先生の部屋なのに。アルコール。キモチワルイにおい。
まず窓を開けてもらった。床にビールの空き缶が散らばってる。おつまみの袋とか。お菓子もあった。大きなゴミ袋に入れる。オオギ先生は食べれるものと食べれないものを分けるのは得意だけど、燃えるものと燃えないものを分けるのは苦手だ。
ついでに言うと、先生はどっちも不得意。先生の部屋なんか放っとくとゴミだらけになってる。俺はそうじとかイヤじゃないから代わりにやってあげる。俺は食事が作れないからお互い様。
「ありがと。これご褒美」
お菓子。未開封だったからもらった。ゲームしながら食べよう。
「カタクラ君飲み過ぎだよね」
「まあ確かに」
オオギ先生は、先生のことをカタクラ君と呼ぶ。
「二日酔いしてるみたいだから運転はやめさせるよ。ああそうだ。これ、あげてきて」
先生は包丁できゅうりを切ってた。心なしか歯切れが悪い音に聞こえる。きゅうりが腐ってるのかも。
「だいじょぶ?」
自分できいといて変だけど大丈夫なはずない。先生はそんなにお酒強くない。オオギ先生はちょっとしか飲まないから、床に転がってた缶のほとんどは先生。十本以上あった。オオギ先生だって止めればいいのに。二人で同じくらい酔ってて気づかなかったんだろう。とするとさっきのお節介は二日酔いのせい?
「悪いな」先生はドリンク剤の蓋を取る。一気に飲み干した。
「変なこときいていい?」
「なんだ?」
「俺って学校行くの?」
「行きたくなったのか?」
「そうじゃなくて、オオギ先生もおんなじこと」
先生はちょっと哀しそうな顔をした。俺が勝手にそう思っただけかもしれない。たまに先生はこうゆう顔をする。特に父さんが訪ねてくる日の朝とか。
「気にすんな」
「でも」
答えになってない。俺がききたいのは、どうして先生とオオギ先生が同じ内容を質問したのかってことで。
「父さんから聞いた?」
「何を?」
「だから、俺が学校行くとかそうゆう話」
「聞いてないな。それよかお前味噌汁の中身何がいい? 昨日は豆腐とワカメだったろ? 大根でいいか?」
「なんでもいいけど」
話逸らされた。先生は都合が悪くなるとすぐに話を逸らす。
「なんか隠してる?」
「何をだ?」
「だから、俺に内緒で俺が学校行くことになってるとか」
「ないない。あいつが学校嫌いだって知ってるだろ? ああ悪い。冷蔵庫から卵とってくれ」
だいぶムッと来た。卵なんて取ってやらない。だいたい先生のほうが冷蔵庫に近い。
「おい、卵は」
「自分でやってよ」
「頼んでるんだがな」
「知らない」
先生は俺の顔をじっと見たあと自分で冷蔵庫を開ける。卵を三つ。たぶん目玉焼き。玉子焼きだとしたら卵の数が少ない。食べる人数の割に。
「教えてよ」
「大したことじゃねえな」
「なんで」
「知らなくていい」
悔しい。これ以上言うと先生は怒鳴ってくるからもう何も言えない。諦めるしかない。
しぶしぶ廊下に出る。壁とか蹴ってやりたかったけど我慢。オオギ先生がこっちに向かってきた。
「あれ、どうしたの?」
何も言うことがない。黙るしか。オオギ先生はどっちかというと先生の味方だから。
俺だけ仲間はずれ。
「ちょっと散歩しようか」
「なんで?」
オオギ先生は渡り廊下から庭に出る。ついて来い、という意味。
「カタクラ君、怒鳴ってないでしょ」
「寸前でやめたから」
オオギ先生はにっこり笑う。庭と森の境目まで来た。
「昨日、どうしてあんなにお酒飲んだと思う?」
「やけ酒」
「へえ、よくわかってるね君は」
「疲れてるならやめればいいのに」
「疲れてるから飲んだんだよ。それが自棄酒ってこと」
「余計疲れるじゃん」
「忘れたかったんだよ。ああ見えてね、カタクラ君もいろいろつらいことがあるから」
つらいこと?
「なに?」
「それは僕の口からは言えないな。僕はカタクラ君の親友だから」
「しんゆう? 友だちじゃなくて?」
「友だちよりもっと親しい関係だね。まあ、僕が勝手に思ってるだけだけど」
友だちよりもっと親しいとしんゆうってのになるらしい。親しい。昨日調べたことを思い出す。確かあれも親しいとかどうとか。
「君がもうちょっと大きくなったら訊いてみるといいよ」
「いまはダメってこと?」
「そうだね、我慢だ。それを訊いたら君のお父さんが怒るから」
それは困る。父さんのほうが先生より偉いから、先生も困るだろうし。
「うん、いいにおい。そろそろ戻ろうか」
花が咲いてる。地面にも木にも。あたたかい。
オオギ先生は手を握ってきた。先生の手より柔らかい。先生の手はごつごつして痛い。どうして手なんか握るんだろう。あとで調べてみよう。しんゆうってのと一緒に。
やっぱり目玉焼き。大当たり。出来る前に先生に言っとけばよかった。せっかく当たったのに、これじゃ意味ない。
先生のつらいこと。気になってご飯の味をおぼえてない。たぶんいつもの通りおいしかったと思うけど、何を食べたのか言えとゆわれると目玉焼きしか思い出せない。
先生は何かつらいことがあったのだろうか。なんだろう。オオギ先生は知ってる。俺は知らない。俺が生まれる前かな。なんだろう。父さんは絶対知ってる。父さんにきいたら怒られるらしいから父さんにはきけない。でも父さんに嘘がつけないから怒られるかもしれない。もしかしたらそっちのほうが気がかりだったのかも。
駐車場まで送りにいく。最初はこれがすごくイヤだった。いまもイヤなんだけど、昔は淋しくてイヤだった。先生がいなくなったら俺はひとりぼっち。こんなに広い建物でたったひとり。ベソかいた。先生も哀しそうだった。
今日はいつも以上に先生が哀しそうに見える。オオギ先生が運転席で待ってるのに、先生はなかなか車に乗ろうとしない。ドアにすら触らない。具合が悪くて運転が出来ないからすねてるのだろうか。ずっとなんだかんだ理由をつけて俺に話しかける。どうでもいいことをいつまでも、いつまでも。
「早く行ったほうが」
「ああそうだ。昨日買ったゲームどうだった? 面白いか?」
ビックリした。先生がゲームのことをきいてくれるなんて。いままで聞いてほしくてもどうでもよさそうな顔してちっとも相手にしてくれなかったのに。どうせヴァーチャルだろ、とかバカにして。ヴァーチャル?
リアルとヴァーチャルの差。
「面白いよ。最初のボス倒したし」
「そうか。すごいな。ボスってのはまだいるのか?」
「うん、ステージごとにいるからそれを倒してかないとラスボスに着かない」
「だいぶかかりそうか?」
「わかんない。まだ最初だし。勉強あるし」
父さんに怒られるし。ゲームばかりやって、て言われるし。
「ところで行かなくていいの?」
先生がまたあの顔を。淋しそうな哀しそうな。
なんで? なんでそんな顔。
「あづま」
先生の声が震えてる。泣きそうな顔。
なんで?
一日いないだけなのに。昔の俺みたいな。
「あづま」
「なに?」
「学校は行きたくなかったら行かなくていいからな」
俺はうなずく。
先生もうなずく。
「行かなくていいんだぞ。あんなとこわざわざ行かなくても生きてかれる。それだけ憶えといてくれ。先生はそれだけ言っとく」
てことは俺はやっぱ学校に行くの? 行かないの?
どっち?
「じゃあな。元気でやれよ」
その時はどうしてそんなこと言ったのかわからなかった。単に一日留守番するだけで元気でやれも何もない。じゃあな、の言い方も何かいつもと違った。まるでもっとずっと長い間会えないみたいな。もし俺があの時気づいてたらどうなってただろうか。どうもならない。むしろもっと悪くなったと思う。気づかなくてよかった。
気づいてたらたぶん、先生とは二度と。
リアルとヴァーチャルの差。
それを考えながら父さんを待った。ゲームもせずに部屋で大人しくじっと。
車の音。窓から駐車場は見えない。階段を下りて庭に出る。
黒い車。絶対に父さんのだ。エンジンの音がしなくなって車が停止。ドアが開く。父さんが降りてくる。
リアルとヴァーチャルの差。
そんなのはない。これが俺の答え。声に出してないけど父さんにはしっかり聞こえたと思う。
「よく出来ました」
拍手。褒めてもらった。うれしくなる。いちにい、さん回目が鳴ったときに父さんの姿が黒塗りになる。車に食べられたみたいだった。黒い車が歯向かう。でも父さんのほうが強い。だからすぐに父さんの姿は白塗りになる。黒い車は白く。
気がついたらコンクリートの上に寝てた。
2
先生かと思った。
眼つきが鋭いところとか、語調が強いところとか、せっかちですぐ怒鳴るところとか、とにかくいろいろがそっくりだったけど、一番似ていたのは雰囲気。眼を瞑って、いや瞑らなくても、隣とか後ろに立たれるとうっかり先生と呼んでしまいそう。実はついさっき、先生と呼んじゃって父さんに笑われた。
この人は誰なんだろう。先生にそっくりだけど、先生よりだいぶ若い。血がつながってるとしたら、弟? 先生に子どもはいないはずだから甥? 孫じゃないと思う。父さんにきいてもケラケラ笑うだけ。
父さんがちょっと変だ。俺より背が低くなってる。俺が座ってるのにすぐそこに頭がある。なんで? 若返ってる、というやつだろうか。おかしい。人間は年は取るけど逆戻りは出来ないはずじゃ。逆戻り?
タイムスリップ。ついこの間クリアしたゲームに出てきたことば。過去に戻っちゃったり未来にいっちゃったりするやつだ。もしかしてそれ? だって俺はそのまま。大きくもなってないし小さくもなってない。
じゃあ、この人は先生ってこと? 先生の若い頃に戻ったってこと? だから父さんは俺より小さいし、先生は俺のこと知らないし。どうしよう。戻れるのだろうか。でも俺だけ過去に戻ったはずなのに、父さんは俺のことを知ってる。俺の名前も知ってる。てことは、父さんは記憶だけそのまま?
よくわからなくなってきた。
ゲームがしたい。タイムスリップのヒントがわかるかも。でもここには何もない。父さんも先生らしき人もいつの間にかいなくなってた。ペンもあれも向こうの世界に置いてきたのだろうか。ポケットにはもしものときの薬しか。発作が起きてもこれがあればひとまず安心だけど、他に何も。計算ドリルも漢字ドリルも鉛筆も消しゴムもテレビもコントローラもソフトもハードも。
先生に昨日買ってもらったばっかのゲームが心残り。まだまだ序盤でこれから面白くなるってところだったのに。過去に戻ってきてるとしたらゲームはあるのだろうか。もうちょっと未来にならないと売ってないかもしれない。父さんが子どもの頃にゲームはあったって聞いてるけど、たぶん映像もヘボいだろうしハードも重いだろうし、未来から来た俺がやっても面白いかどうか。
窓もない。あるのは天井と床と壁。巨大なサイコロの中に入ったみたいだ。灰色でひんやりとしたサイコロ。ドアは押しても引いても開かない。
壊してもいいかな。父さんが怒るかも。俺より小さくなった父さんが。俺より小さいのに父さんってのは変。変だ。じゃあ何て呼べば。
ういん。
て聞こえた。振り返る。身体を起こす。
父さんだった。違う。父さんはまだこのとき俺の父さんじゃないから、俺の未来の父さんて呼ぶべきで。
「紹介するよ。これ、おれの息子」
「え」知らない声。
父さん(呼び名はもういいや)の向こうに知らない人。俺のことをじっと見てから父さんに向かって疑り深い眼を向けた。
「本当に?」
「嘘言ってどうすんのさ。ちなみに隠し子ね。バラさないでよ、信用してんだから」
白すぎる。血が通ってないみたいに蒼い。紫とか赤紫の線が入ったシャツを着てる。黒い髪と黒い眼。父さんは真っ黒いけど、こっちは黒になりきれてない黒。黒になる途中でやめた黒みたいな。
父さんはまたいなくなってた。その昔は瞬間移動も出来たのかもしれない。未来になるとそれは千里眼と地獄耳に化けるわけだけど、確か未来人はその時代の人に未来のことを告げちゃいけなかったんじゃ。
「ねえ、君は本当に」
ここはどう答えるべきか。未来人だから適当に誤魔化すべき。父さんがバラしてたから平気。
「うん」
とびきり変な顔をされた。別に俺が悪いわけじゃない。でも父さんはすでにここにいないから、残された息子の俺が全面的に悪いような感じに。誤解。むしろ真実。
これがゲームに出てた、未来人のかっとう、てやつだろうか。
「年は?」
「さあ?」
また変な顔。未来人はツライ。いまならわかる。もう一度あのゲームをやったらもっと楽しめたかもしれない。
「わかった。信じることにする。そもそもその選択肢しかなかった」
「悪い」
「なんで謝るの?」
「いや、いろいろ」
言えないことがあるから。
「ふうん」
「お前だれ?」
「えとり」
俺より背が高い。父さんより大きい。てことは。
「父さんの兄貴?」
「たぶん」
当たった。じゃあ未来でも会えるかも。でも父さんに兄貴がいるなんて初耳。父さんにはきょうだいってのがいることになる。俺はひとり。
えとりは学校に行ってるらしい。俺は行ってない。そう言ったらまた変な顔をされた。フツー子どもは学校に行くことになってるらしい。でも俺未来人だし。内緒だけど。
「勉強は? ようじさんに教えてもらってるの?」
ようじ、というのが誰を指すのかわからなかったけど、たぶん父さんの名前だ。よくよく考えたら思い出した。先生がそう呼んでた気が。
「しなきゃまずい?」
「まずいだろうね。君がこの世界で生きてく上では」
この世界。帰れるのだろうか。もしも一生戻れないとしたらやっぱり勉強をしなければいけないだろうか。学校ってのに行って。
それは困る。とにかくゲームができないってのが一番困る。何とかして元の世界に戻る方法を考えないと。それもこっそり。たぶん父さんの研究のいっかんじゃないかと思う。先生の言ったとおり。どうせ大したことじゃない。
大したことだった。
「そろそろ帰るね」
「どこに?」
「どこって、家」
そうか。えとりだって他に家がある。先生とかオオギ先生みたいに。
ここは俺の家。一時的に俺の。
「ねえ、明日も来ていい?」
「いいよ」
えとりが扉の向こうに消えたのを見届けてから横になる。なんだか眠くなってきた。サイコロの内部に睡眠ガスがまかれたみたいに。
毒ガスだったら俺は死ぬかな。このまま白骨化するまで発見されなかったら、未来人の骨っていう札がかかったガラスケースの中に入れられるのかな。博物館だからえとりも見に来るかもしれない。俺だって気づいてくれればいいけど望み薄。先生ならわかってくれるだろうか。父さんなら。
かつん。
て聞こえた。足が見える。あ、し。あし。先生だ。
「寝てたか」
「うんまあ」
過去の先生は俺に何かを見せた。ケース。ディスクとか入ってるあれだ。ジャケットに何か書いてあるけど読めない。もう滅んだ国の言葉かも。
「こうゆうの好きだって聞いたんだが」
「父さんに?」
先生はうなずく。過去だろうが未来だろうが先生は先生だ。笑った顔が先生そのまま。
でも先生はまだ俺の先生じゃない。だから先生と呼んではいけない。父さんは過去の先生のことを何て呼べって言ってたっけ、えっと。
「おやじ」
先生はえとり以上に変な顔をした。まるで俺がいけないみたいだけど、今回も確実に父さんのせい。
おやじってなんだ?
あれがあれば調べられたのに。父さんにきいたって意味なんか教えてくれない。そもそも父さんがペンをくれた。わからないことはこれで調べろ、て。過去にペンはないだろうか。
「持ってきたはいいが肝心のパソがねえじゃねえか。あいついちいち勝手なことほざきやがって」
「ぱそ?」
「なんだ。知らねえのか?」
知ってる。当たり前だ。俺は未来人なんだから。
この時代にもパソコンは存在するらしい。もしかしてこのディスクは。
「ゲーム?」
「おう、一応な。どうする? あいつ会議でどっか行っちまったみてえだし」
なら答えは決まってる。父さんがいないなら。
「やりたい」
先生はニヤっと笑って俺をサイコロの外に出してくれた。先生はやっぱり先生。昔からずっとこんなだったらしい。俺はちょっとうれしくなる。先生が車に乗り込む。
イヤな予感がする。
「んだよ、歩きてえか?」
「遠いの?」
「けっこうな。早くしろ」
すでに先生の中では決定事項。こうゆうところも変わってない。勝手なのは父さんとお互い様だ。オオギ先生もそう。
オオギ先生。やっぱりいるんだろうか。でも先生は知らないかもしれない。まだ出会ってないかもしれない。未来人はよけいなことをしてはいけない。まるでゲームだ。
父さんは何がしたいんだろう。タイムマシンは完成したんだろうか。でも完成してないと過去には来れないだろうし。失敗。そうか。失敗して過去に来た。だから父さんは、記憶だけそのままだけど姿は過去の。じゃあ本当に。
「しっかりシートベルトしろよ。死ぬぜ」
未来人が過去で死んだらどうなるんだっけ、と思った瞬間ぐわんと引っ張られた。懐かしい感覚ってやつ。
この人は先生だ。先生で間違いない。先生以外にあり得ない。こんな荒い運転をするのは、過去にも未来にもたった一人でいい。いらない。
夜に車に乗ったのは初めてかもしれない。つまらない。ウィンドウには自分の顔しか映らない。車の中が真っ暗で。先生が持ってきてくれたケースを開けて取説を読もうと思ったのに台無しだ。早く着いてほしい。
でも先生の運転でいいところはそれ。長所というやつ。すごいスピードだからあっという間に目的地。
どこだろう。先生の家?
暗くて見えない。何かにつまずいた。急に明るくなる。ゴミだらけの汚い廊下。
「気ィつけろよ」
返す言葉がない。先生は昔から整理整頓が下手だったらしい。
「ゴミ袋ある?」
「ん、あったかなぁ。こっちか?」
がらがらと山が崩れる。廊下がふさがってしまった。
先生は構わずそこら辺を引っかきまわす。見るもむざん、てやつかもしれない。
「もういい。そっちいってて」
「そっちってなんだよ。ここ俺の」
「じゃまだから」
先生はしぶしぶ奥に引っ込んだ。その奥もすごいことになってたのは言うまでもない。でもとりあえず出入り口から何とかしないと。俺が帰れない。
「んなことしなくていいぞ」先生はのんきにビールなんか飲んでる。
ちょっと腹が立ってきた。ペットボトルでも投げつけてやろうか、と思ったけど怒鳴られるのがイヤだからやめた。それにもし当たり所が悪くて先生がケガしたらイヤだし。先生の大好きな運転が出来なくなると困るし。
ゴミ袋は鍋の中から見つかった。鍋?
わけがわからない。
バトルっぽい曲が聞こえる。先生はゲームなんかやってる。ゲーム?
ますますわけがわからない。まさか、いやいやたぶん、これは夢なんかじゃなくて。タイムスリップ。
「おう、終わったか?」
「好きなの?」
棚。ごちゃごちゃで整理なんて夢物語だけどぜんぶゲーム。昔のだ。俺が持ってるのは七とか八だけど、先生は一とか二とかとにかくシリーズの初期の頃の。すごい。もうハードが違うからプレイできないと思ってたRPG。
「これは?」
「やったことねえのか?」
そういえば車の中に置いてきてしまった。取りに行こうと思ったら先生がパソコンの画面を指さす。RPG。
え、まさかこれ?
「すごい」
「だろ? 実はこれ作ったのな、俺の弟」
嘘だ。先生は俺をだまそうとしてる。たまにこうゆうたちの悪いジョーダンを言う。先生はゲームなんかしないし、弟なんかいないはず。
「何だよそのツラ。さては信じてねえな?」
「しょーこがない」
「まあ確かに。あいつ本名で出してないしな」
「ちょっとやってみていい?」
「いいぞ。ああ、それセーブして最初っからやってみろ」
とにかく何もかもがすごかった。映像も音楽もシナリオも、未来で出したって見劣りしない。むしろこれなら俺が欲しい。プレイ中は過去に来たってことをすっかり忘れてた。過去にこんなすごいゲームがあったなんて。しかもそれを作ったのが先生の弟だなんて。ないない。それだけは。
「面白ェだろ?」
うなずく。うなずくしかできない。
「欲しいだろ」
うなずかない。うなずかないように耐えた。
「どうすっかなあ」
イジワルだ。わかっててやってる。先生はたまに父さんよりガキっぽくなる。
「お前、勉強してねェんだってな」
「してなくない。今日はたまたま」
タイムスリップした日で。突然でビックリしてて。
「父さんが」
タイムマシンなんか作ってそれが失敗したから。じゃなくて。それは言えないから。
「俺を閉じ込めとくから」
「じゃあ明日からでいい。ようじに言われた分だけでもきっちりやってみろ。そしたら」
「くれるの?」
「考えてもいい」
「考えるだけ?」
「お前の頑張り次第だな」
がんばり。面倒なことばだ。でも勉強くらいでこれがもらえるならガンバれるかもしれない。
俺はうなずいとく。先生はガキみたいに笑った。
次の日の朝またあのサイコロに戻された。父さんが帰ってくる前に何事もなかったかのように元どおりにしなければ。この時代の父さんの特技は瞬間移動だからあんまり意味ない気もするけど、先生が楽しそうだったからまあいいや。
「じゃあな」
「どこ行くの?」
「どこってすぐそこだ。仕事だよ」
先生が医者だったことをいま思い出す。とすると病院てのかもしれない。
先生と入れ替えで父さんが入ってきた。入ってきた? 違うか。瞬間移動。
「よく寝れた?」
「ほどほど」
「ゲーム楽しかった? 部屋汚かったでしょ」父さんはケラケラ笑う。
やっぱバレてる。先生はつめが甘い。どうしよう。先生が悪いとか言われたら。
「だいじょーぶ、怒んないよ。これやっといてくれれば」父さんは抱えてたものを床に落とす。
ばさばさ。計算ドリル、漢字ドリル、理科とか社会とか。アルファベット練習帳もあった。
「そんくらい書ける」
「カバンと犬がこんがらがってるような子にはこれがお似合いだよ」
父さんは俺をいじめるのが好きだからからかわれてもイヤな顔をしてはいけない。困った顔とか嫌そうな顔をちょっとでもするとよけいにヒドくなる。
鉛筆と消しゴムを受け取ってだまる。それがいちばん。
「お腹すいたら電話ちょーだい」父さんはケータイを置いてった。
横でずっと監視されなくてよかった。もしかしたらサイコロには隠しカメラとかあるかもしれない。なんせ父さんが用意したくらいだ。きっとへんてこな名前がついてる。
やることがないとだいぶはかどる。ぼけっとしてるより何かしてたほうが面白い。時計がないから何時なのかわからなかったけど、急に扉が開いてビックリした。父さんかと思ってどきっとする。
でも違う。えとりだ。俺をじろじろ見てまた変な顔をする。
「眼が悪くなるよ」
意味がわからない。眼というのはいいとか悪いとか、そうゆうのじゃないと思う。
えとりは俺の手元をのぞき込む。
「違ってるよ」
「どれ?」
「ほら、ここはこうじゃなくて」
えとりはけっこう頭がいいかもしれない。父さんの教え方よりわかりやすかった。
それを伝えたらなんてことないよ、みたいな顔をされた。
「学校でやったのか?」
「ずっと前にね。でもあんまり意味ないよ、僕が言うのもあれだけど」
「意味ないのにやってんの?」
「そうゆう決まりだからね。仕方ないよ」
よく見ると、えとりは昨日と同じ格好をしてた。同じシャツ。
「ああこれ、制服っていって学校に通ってる人の決まりごと。これを着てないと建物に入れてもらえないんだ」
「ケチだな。いいだろ、服くらい」
「管理するほうが楽なんだよ。学校ごとに違うからどこの学校に行ってるのかすぐわかるし」
「わかったほうがいいの?」
「悪いことしたときに学校に連絡しやすい」
悪いこと。なんだろう。
どんなことが悪いこと。
「したことあんの?」
「何を?」
「悪いこと」
えとりがまた変な顔になる。
「悪いことって?」
「わかんねえ」
「じゃあわかんないよ」
「お前はわかるの?」
「善悪の判断は難しいよ。ようじさんにでも訊いたら?」
「父さんごまかすし」
「それなら君が悪いことだと思うことって何?」
悪いこと。考えてみる。
悪い。いいの反対。
「いいことじゃないこと」
「まあ間違いじゃないよね」
「お前はどうなんだよ」
「良心が咎めること」
「は?」
「自分でいけないと思ったらそれが悪いことなんじゃ」
積んである冊子が崩れそうだったのを支える。えとりも手伝ってくれた。
「机くらい買ってもらいなよ」
「そうする」
えとりのおかげで、父さんが指定したところまであっという間に終わった。でもこういうときに限って父さんは電話に出ない。わざと出ないに決まってる。どこかの部屋でサイコロ内部をのぞいてケラケラ笑ってるに違いない。過去でも相変わらず。
「ねえ、ここで寝てるの?」
「うんまあ」
先生のところでゲームやってたことを責められたかと思ったけどそうじゃなかった。
えとりは首をかしげながら床に触る。
「冷たいじゃん」
「そうだな」
「背中痛いしさ」
なんだろう。何が言いたいのかわからない。
横顔が父さんに似ててぞくっとした。寒気がする。冷たい。冷たいのは床じゃなくて。
「あづま君」
手のひら。
「ずっとここにいたの?」
首をふる。
「だよね。ちょっとあり得ない話だよね」
タイムスリップ。えとりになら言ってもいいかもしれない。聞いてほしい。えとりなら信じてくれる気がする。カメラがどこにあるかわからないけど、見たいなら見ればいい。悪いことだったら父さんが止めに来るだろうし。
悪いこと? いまからしようと思ってることは。
「おやじって」
「カタクラ先生のこと?」
やっぱり。先生の名字はカタクラだ。同じ、カタクラ。
「俺は、先生がもっと年取った時代から来た」
「え」
「タイムスリップしてきた」
「うそ」
「父さんは知ってる。たぶんそーちは父さんが発明した。でも失敗したらしくて父さんは記憶だけそのままで昔に戻って」
えとりは変な顔をしなかった。あきれてる、かもしれない。でも俺の話を最後まで聞いてくれた。
ぜんぶ聞いた上でうーん、て眉を。
「俄かには信じがたいけど」
「ウソじゃない」
「疑ってないよ。カタクラ先生がいたってのが何よりの証拠だし、ようじさんならままあり得るだろうし」
静か。えとりの溜息だけ聞こえる。
「君の推論を仮定すると、君は未来から来たわけだよね。どのくらい先の?」
「さあ」
「じゃあカタクラ先生は何歳?」
「四十いくつか。六よりは上くらいの」
「へえ、そんなに先ってわけでもないんだね。確か先生は二七だから」
とすると二十年後の未来。
二十。長いのか短いのかわからない。
「僕が生きてたら三十二だね」
生きてたら? その言い方が引っ掛かった。でも何で引っ掛かったのかよくわからない。
「三十二かあ」
ケータイがぶるぶる震える。計ったようなタイミング。絶対に父さん。
「出ないの?」
「どうせ嫌がらせだろ」
「嫌がらせ? 怒られても知らないよ」
本当に怒られた。きっと虫の居所が悪かったのだ。八つ当たり。タイムマシンがなかなか直らないとか。それは困る。そしてもっと困ることが発生する。
一週間ゲーム中止。一ヶ月えとりに会うな。つまりはここに閉じ込められるわけで。
「反省するまで出さないから」
先生は哀しそうな顔をする。ゲームが一週間お預けになったときの気持ちをわかってくれている。未来の先生はどうしてゲームをしなくなったか気になる。
あきた?
「聴いてる?」
「ごめんなさい」
父さんが俺より小さいせいで全然怖くない。声も子どもみたいに高いし、あんまりショックじゃなかった。確かにゲーム中止はイヤだけど、どっちかというとえとりに会えないほうがキビしいかも。理由はわからない。
「なあ、電話出なかっただけだろ? そんなに怒るような」
「としきも会えなくするよ」
としき? 先生の名前かも。名字とくっつけてみる。
カタクラとしき。
「ちょっと来て」
「ここで話せ」
「あづまに聞かせていい?」
「聞かせられないようなことなら話すな」
笑いそうになった。あの父さんが先生に負けてる。立場逆転。小さくなっただけでこんなに迫力が出ない。
父さんは先生をにらみつけてさっさとサイコロからいなくなる。瞬間移動。
「ったく、どっちがガキだよ」
タイムスリップ。先生は知ってるのだろうか。
「気にすんなよ。まあ、慣れてるかもしれねえけど」
「あのさ、オオギ先生って」
「よく知ってんな。あいつに訊いたか?」
すでに知り合ってる?
オオギ先生は先生を友だちと言ってた。いや、しんゆうだったかな。
「だれ?」
「院長」
「なにそれ」
「院長っつったら病院だろ。俺の勤めてる病院知ってるか? オオギ病院っつって」
「偉い人ってこと?」
「偉いも何も、そうだな。偉いな」
「会ったことある?」
「まあ一応はな。まさか死んでねえだろうな、よぼよぼのじーさんだし」
「じーさん?」
「なんだ、じーさんじゃ悪いか? じじいにしとくか?」
よくわからなくなってきた。タイムスリップして過去に来たならオオギ先生も、先生と同年のはず。じーさんとかじじいなわけない。
「オオギ先生ってほかにいない?」
「なんだよ、会いたいのか? 俺はごめんだな」
「そうじゃなくて、他にもっと若い人」
「さあ、俺が知ってんのは院長サマだけだが」
もしかしてオオギ先生の父さんかじいさんかも。
結論。先生はまだオオギ先生に出会ってない。
「腹減ってねえか?」
「別に」
「このままここいるとあいつの機嫌直るまで何も喰えねえぞ?」
「でも」
「あいつも飢え死にさせようとは思ってねえだろうよ。大事な息子をな」
どうせバレてるから堂々としてた。拷問ジェットコースタに乗って着いた先は小さい店。いいにおい。ラーメンだ。
先生はラーメンが好きで、毎食ラーメンでもいいとか言ってた。二十年前から好きだったらしい。
「これでいいな?」
「うまいの?」
「んだよ、俺の選択じゃ不満か?」
先生はすごく楽しそうだ。にこにこしながら待ってる。待つのが大嫌いな先生が、イライラしないで待ってられる唯一の時間。
「えとりと仲良くなったんだってな」
「まだ二回しか」
「毎日会っても仲良くなれないのだっているだろ。要は質だよ。えとり頭いいからな。勉強教えてもらえなくなるのは残念だな」
一ヶ月。短いのか長いのかわからない。
「大人しくしてりゃ短くなるんじゃねえか?」
「ホント?」
「ほら、仲良くなってる」
やっぱり長いのかも。一ヶ月。
何がいけなかったんだろう。何か悪いことをした。電話に出なかった。無視した。父さんは俺がいうことを聞かないとすぐ罰を与える。ゲーム禁止令は初めてだけど、えとりに会えないっていうのはつらい。でも先生には会えるし。ううん、でも。
ラーメンはすごくおいしかった。さすが先生。また連れてきてくれると言った。他にも気に入ってる店がいっぱいあるらしい。毎食ラーメンていうのをしっかり実施。確か昨日も夜食にラーメンを食べてた。
「えとりのことどう思う?」
「どうって?」
「あいつな、前あんまり笑わなかったんだよ。無表情な奴だなって思ってたんだが、今日会ってビックリした。ちゃんと笑えるじゃねえのって」
「笑わなかったの?」
「見せてやってもいいが、俺は今日見た顔のほうがいいな。あづま」
急に名前を呼ばれてビックリした。
車の中は暗い。車の外も暗い。また夜だ。過去の先生とは夜のドライブばっかり。
「なんでようじが怒ったんだろうな」
「無視したから」
「それもあるかもな。でもたぶんもう一個あるんじゃねえか?」
おかしい。さっきと同じ道を逆戻りしてるだけならもう着いてもいいのに。たった一つの利点がなくなってしまったらこんな車、ただの。
「それがわかんないと帰れないってこと?」
「そうゆうことだ」
やっぱり先生は何も変わってない。未来の先生も、俺が父さんに叱られるとこうやって外に連れ出しておいしいものを食べさせてくれて、その帰りに静かな反省会がある。なんとなく気が進まなかったのはそのせいかも。
「俺は悪いことだとは思わねえよ。だからなんでようじが怒ったか、それだけ考えりゃいい」
「予定狂ったから」
先生は俺の膝に何かを置く。
軽くもなく重くもなく。硬くて長方形。
ゲームだ。未来で俺が持ってたペンじゃなくて、その先代機。売ってるのは見たことがある。ボタン操作だけだけど、それでしか出来ないゲームがあるからちょっと欲しかった。
「内緒だぞ」
「ソフトは?」
「RPGなら買ってやる」
「ありがと」
「出世払いで返せよ」
「二十年以上かかるけど」
「だいぶ先だな。俺いくつだ? うっわ四十七? 生きてられっかな」
「大丈夫だと思う」
だって先生は、オオギ先生相手に疲れたり、父さんに鎮圧されたりしながら施設で俺を育ててくれたし、一緒に住んでるし。
「悪いことって何?」
「気になってるか?」
「そうじゃないけど、その話したから」
「悪いことについてか? ずいぶんレベル高い会話してんだなお前ら」
「えとりは、自分でいけないと思ったらそれが悪いこととか言ってた」
「それでいいんじゃねえの? りょーしんに反しないようにって」
親に従うってことだろうか。父さんのいうこと聞かなかったから。
「ところでりょーしんて字書けるか? 両方の親って意味じゃねえぞ」
「違うの?」
「良い心で良心」
違った。ペンがないから間違えて覚えてた。先生のくれたこれじゃわからないことを調べられない。わからない。
サイコロに帰ってからもずっと考えてた。未来に戻らないと。でも修理がうまくいってないみたいだし、父さんに話しかけられないし。未来に戻ったらえとりに会えないし。どこにいるのだろう。発見できるだろうか。先生にきけばわかるだろうか。父さんは。
こんがらがってきた。ケータイをいじる。父さんの番号しか入ってない。
いや、もうひとつ。
ケータイの番号じゃない。最初の三桁が。
えとりだ。
いつ、とか、なんで、とかどうでもよかった。
発信。出ろ出ろ。
「もしもし」
「あ、俺」
「あづま君?」
声が大きくなった。もしもしって声聞いたときは死にそうだと思ったけど。
死にそう?
「気づいてくれたんだ」
「遅くなった。悪い」
「悪くないよ。うれしい」
「家か?」
「うん、ひとりだけど」
「ひとり? 誰もいないの?」
「話してなかったっけ? 僕の親は離婚して父さんしか」
「同じじゃん」
「離婚?」
「そうじゃなくて、父さんだけ」
サイコロの中をうろうろ。絶対どこかにカメラがある。見つけて壊してやる。
「でも僕の父さんは僕のことなんか」
「家にいないのか?」
「仕事が忙しいみたいでね、全然帰ってこないよ」
先生の言ってたことを思い出す。
笑わない。無表情。
「いいなあ。ようじさんはちゃんと君のこと気にしてくれてて」
「怒られたけど」
「気にしてくれてるから怒るんだよ。どうでもよかったら怒ったりしない」
一周したけど何も見当たらない。壁じゃないなら床? それとも天井? 届かない。俺の三倍はある。先生でも届かない。
「それに君はもうひとり父さんがいる」
「だれ?」
「呼んでたじゃん。そうゆうことじゃないの?」
「おやじ? なんで?」
「親父ってお父さんのことだよ。違うの? 言っちゃ悪いけど、ようじさんよりカタクラ先生のほうが君によく似てる。初めて見たときビックリした。カタクラ先生みたいで」
「似てる?」
「そっくりだよ」
「でも俺の父さんは」
父さんだし。先生は先生で。おやじって父さんのこと?
わからない。まただ。過去は不便だ。言葉の意味がわからない。
天井が遠い。きっと天井にある。あのどこからか父さんの視線を感じる。じろじろじろじろ。
「ごめん、変なこと言ったけど、電話くれてありがとう。明日も会いに行っていい?」
何て答えよう。何て答えれば気づかれない。この会話も父さんには丸聞こえだから、父さんにはわからなくてえとりだけに伝わる何かいい方法。
考えろ。ある。絶対に。
「学校終わるの何時?」
時計ならケータイにある。
扉は一つ。それを壊せばいい。
長い。一ヶ月なんか待ってられるか。サイコロの外に出てやる。
一晩中扉を蹴ってた。父さんが見てたら絶対止めに来るはずだけどちっともそんなことなかった。ケータイも震えない。足が痛くなった。苦しい。まずい。激しい運動なんかしちゃいけなかった。
いま思い出す。もう遅い。
天井がすごく遠い。ポケットを探って薬を出す。吸い込む。吸い込む。のどが苦しい。死にそう。
死にそう?
だいぶ治まるころには朝になってた。窓がないから時刻で判断。扉が凹んでる。でもそれだけ。壊れてないし穴も空いてない。
なんでこんな所にいるんだろう。なんで閉じ込められなきゃならないんだろう。
タイムスリップ。それがいけない。失敗したから父さんがその腹いせに俺を閉じ込めてる。
俺は悪いことなんかしてない。悪くないって先生だって。
「発作あったでしょ」
父さんの足。瞬間移動してきた。父さんの家から。
俺の家はサイコロなんだろうか。こんなとこにいたくない。外に出たい。外に出て。
「発作があったか訊いてるんだけど」
「あった」
「運動はダメだって言い聞かせたはずだけど、守れてないみたいだね」
父さんの声は温かくも冷たくもない。すぐわかった。本当に怒ってるときの声だ。言いつけが守れなかったときとか、言うことに従わなかったときとか。
「あーあ、こんなにして。誰が直すと思ってるのさ」
「父さん」
「俺じゃないよ。確かにここは俺のものだけど、その前はえとり君のお父さんのものだったんだから」
「えとりの?」
「知らないの? えとり君のお父さんは、俺の師匠」
聞かなければよかったのかもしれない。わからない。あとになったってわからない。俺は何も知らない。ペンがないとまともに話も出来ない。別に知りたくない。知りたいけど知ったらどうなるのかわからない。
父さんは俺の背中に触る。直に触って発作の治まり具合をみる。強く叩かれたわけじゃないし爪を立てられたわけじゃないけど、背骨に沿ってひんやり痛かった。鋭く尖ったもので背骨をえぐり出されてるみたいな感じ。
「こんなことしたって外に出さないからね」
「なんで」
「なんで? 理由はあづまが一番よく知ってるはずだけど」
企みがバレてることくらいじゃ驚かない。それがなんだ。気づかれてたって構わない。父さんに内緒でっていうのはそもそもあり得ない。先生がこっそりくれたゲームだって隠す場所がないからすでに父さんの手の上。
「としきは甘いよね。その分俺が厳しくしてるわけなんだけど」父さんはそれを、いつも着てる白いコートみたいな服のポケットに入れた。
取り上げられた。先生に謝らないと。せっかく俺のために用意してくれたのに。ソフトも買ってくれるって言って。
「何その眼。返せってこと?」
「壊すなよ」
「壊すわけないよ。そもそもとしきのものだから、持ち主に返しとくだけ」
「いつ帰る?」
「へえ、帰れる? 未練とかない?」
「何してんの?」
「人類の未来のために貢献してんの。俺がいなかったらあと二十年で人類は滅亡だよ? それを防いであげてるんだ。とやかく言われる筋合いはないな」
「失敗したくせに」
「失敗? なんのこと?」父さんは瞬間移動の準備をする。
「なんでここ閉じ込めたの?」
「悪い子だから」
その日は結局えとりに会えなかった。その日だけじゃない。それから一ヶ月間父さん以外には会えなかった。ゲームの件で先生に会うことも禁止。
ずっとひとり。
えとりもひとり。家でたったひとり。
えとりが笑わなかったわけが何となくわかったような気がした。つまらない。面白くない。そんな状況で笑えるわけない。
じゃあ俺と一緒だとつまらなくないのだろうか。面白くなくないのだろうか。笑ってた。これが証拠。
「どう? 悪い子じゃなくなった?」父さんから電話。父さんにしかつながらない。
「たぶん」
「たぶん? 自信もっていいよ。あづまはどう思う?」
「最初から悪くない」
「さてどうかな。俺が悪いって思ったらそれは悪いわけだから、自動的にあづまは悪いってことになるけど」
それはえとりの考えだ。父さんのものじゃ。
「帰るの?」
「年取った先生がそんなに恋しい? 若いとしきがいるのに」
「えとりは?」
「さあ、最近見てないけど」
またひとりになってる。そうに決まってる。
「出せ」
「出せったってここにいないわけだし。ああ違うの? あづまが外に出たいってこと? そうだね。いい子になったら許さないでもないかな」
「いい子って?」
「いい子はいい子だよ。俺のいうこと聞いて大人しくしてる。これ以上にいい子はいないね。出来る?」
「前からそうだった」
「逆らったじゃん。忘れたの? 俺に内緒で何したか、言ってごらんよ」
電話を床に叩きつけそうになってやめる。これじゃますます思う壺だ。俺は父さんの手の平の上から逃げられない。逃げるべきじゃない。逃げたらたぶん発作が出る。そうゆうふうに爆弾が仕掛けられて。
いい子じゃなければいらない。悪い子なんか死んだって。
「ごめんなさい」
「わかればいいよ。いい子になったお祝いに会いに行ってあげる。ちょっと待ってて」
ちょっとじゃない。すぐだ。どうせ瞬間移動。
父さんは俺にゲームを返してくれた。一ヶ月前に先生にもらったあれ。ソフト付で。
「としきが渡しといてくれってさ。よかったね」
「あれは?」
「ああ、最初に逃亡したときの。パソコンだっけ? いま適当なの探してるから」
「ありがと」
今日の父さんは機嫌がいい。俺の頭を撫でた。滅多にしてくれない。これで三回目くらいだった気がする。父さんのほうが背が低いから変な感じ。
父さんの作ってくれたごはんを食べて勉強をする。言うとおりにしてれば平気。この時代の父さんに千里眼と地獄耳が備わってなくて本当によかった。瞬間移動くらいならあってもなくても同じ。気にならない。
「どこまでやった?」先生が聞く。「まさかクリアしたんじゃねえだろうな」
「まあね」
「おいおい、勉強サボってんじゃ」
「違う。ほら」先生に問題集を見せる。
パラパラめくって納得してくれた。
「頑張ってるみたいだな」
「がんばってるよ」
「仕方ねえな。くれてやるよ」
「ホント?」
「嘘ついてどうすんだよ。おら、気が変わらねえうちに持ってけ」
「ありがと」
「なあ、明後日何の日か知ってるか」
「なに?」
「ようじの誕生日」
イヤな予感がした。俺の勘が正しければタイムマシンは明後日起動する。ちょうど明後日に直るように修理して。そうとしか思えない。
だとするなら時間がない。先生がサイコロから出るときに一緒に外に出た。たぶん父さんは最終調整があって今日明日は俺の監視はしてない。これをチャンスと言わずになんと言う。
チャンスだ。
えとりの家に電話をかける。番号くらいおぼえられる。単につながる電話がなかったから電話が出来なかっただけで。出ろ出ろ。出ない。ずっとぷるるるいってるだけで何も変化ない。留守電てのにもならない。なんだろう。発作が起こりそうな前ぶれみたいな変な感じ。
先生の勤めてる病院が見える。サイコロのすぐ近く。入り口がいやに明るい。入り口じゃないかもしれない。裏口かもしれないし、秘密の抜け穴かもしれない。そこから誰かが出てくる。背の高い。父さんと同じ白い服を着ている。
顔を見てビックリした。顔だけじゃない。身体の外枠がぼやける感じとか、内部から流れ出る冷気みたいなものにすごく見覚えが。懐かしい。
知ってる。俺はこの人を。
「君は」
「えとり?」
そう、だったんだ。えとりは未来にはいない。未来にいるえとりは、過去でえとりの父さんをしている。だから俺は未来に戻ってもえとりには会えない。絶対不可能。だったら俺は未来なんか帰りたく。
「あづま君か。どうしたんだ、こんな夜に」
声はずっと低い。背もだいぶ高い。
でもえとりだ。俺のことをあづま君て呼ぶのはえとりしかいない。
「どこいくの?」
「どこだろうな。わからないよ」
「一緒に行っていい?」
「構わないよ」
未来のえとりはサイコロのある場所をじっと見つめて歩き出す。
「入りたい?」
「誰もいないだろう。いないならいいよ」
暗かった。足元がよく見えない。眠くなってきたけど我慢する。今日を逃したらすぐに明後日になって未来に帰らなきゃいけない。俺にはその前にしなきゃいけないことが。
「久しぶりだね」
「うん」
一ヶ月。やっぱり長かった。もしかしたらカレンダが間違ってたり時計がずれてて十年とか経ってたのかもしれない。えとりの久しぶりだね、はそんな感じだった。
「私は随分と悪いことをしてしまった。息子にもその周りの人にも。一生かけても償えないほどの罪だ。勿論君にも迷惑をかけている。君が閉じ込められていたあれは以前は私のものだった。今更だと思っている。謝らせてくれないか」
「別にお前のせいじゃない。悪いのはもっと」
「もっと?」
「もっと悪いやつ。ラスボス」
「もしかしてゲームのことかな」
「知らねえの? ゲームやったこと」
「ないな。存在は知っているつもりだが」
薄暗い外灯の下にベンチがあった。そこに座る。えとりはちょっとためらってからゆっくり腰掛ける。俺は持ってきたゲームを出して電源を。
「これがゲームなのか?」
「まだスタート画面。こうやってボタンを操作して中にいる奴と一緒に旅する」
「旅をするのか?」
「旅しながらいろいろなごたごたに巻き込まれて、敵を倒して経験値もらってレベル上げて、ボスを倒す。主人公は世界を救わなきゃいけない」
「ずいぶん壮大なストーリィだね。世界を救ったらどうなるんだ?」
「終わり。平和になったらそれでいいから」
少し進めてセーブした。ここは暗くて画面がよく見えない。眼が痛くなってきた。
「眠いだろう。もう」
「別にこんなの。いい、どこ?」
「やはり君は付いてこないほうがいい。私ひとりが悪いだけだから」
「そんなわけ」
えとりは首をふる。ゆっくり、スローモーション。
「私が行こうとしているところに、まだ君は相応しくない。もう少しこっちにいたほうがいい。こっちには楽しいことがある。私に付いてきたらゲームができないよ」
それは困る。せめてこれをクリアしてから。でもゲームなんか未来に帰ったって。
「何しようとしてんの?」
「旅を終わりにするんだ。ありがとう。久しぶりに君に会えてよかった。元気そうで」
えとりの周りだけ闇が深くなる。夜に呑み込まれてるみたいに。ダメだ。そっちに行っちゃ。そう叫んだけど聞こえてないみたいだった。走っても意味ない。向こうは気体。こっちは個体。さわれない。間は液体。
のどが苦しくなって地面に座り込む。発作なんか起こしてる場合じゃない。薬を吸い込んでも全然。悔しい。ゲームだったら魔法で病気を治したり時間を止めたり出来るのに。なんで。なんでうまくいかない。
「えとり」
独り言みたいに聞こえた。たぶん独り言。もう誰も。未来のえとりはどこか行ってしまった。他の世界かもしれない。過去なのか未来なのかも。せめてどっちなのか言ってくれれば会いに行けるのに。悔しい。声が出ないことがこんなに悔しい。声が届かないことがこんなに。
発作が治まるまで待ってサイコロのある場所まで戻る。もしかしたら、と思った。もしかしたらさっき見たいやに明るい入り口からもう一度えとりが出てくるかもしれない。タイムスリップが失敗して、タイムマシンが途中で故障して。
駄目だった。期待するだけ無駄。疲れた。すごく疲れて眠くもならない。
もう一度電話を。それとも父さんを探してえとりの場所を。先生はいないのだろうか。家に帰っただろうか。ゴミだらけの部屋に。
かちかちちくたく。
頭の中でずっとぐるぐるしている。何の音なんだろう。何を表しているのだろう。わかるようなわからないような。伝えようとしている意志はわかるのにその意味がわからないみたいな感じだった。いつもと同じだ。過去に来てからずっとのその繰り返し。
わかる。わかるはずだ。思い出せないだけで。
これはこの音は。
「あづま君?」
振り返るのが怖かった。未来のえとりか過去のえとりか、そんなことはどっちでもいい。同じだ。どっちもえとりだし、どっちもえとりでしかない。
「父さん知らない?」
きかれると思った。これをきかれることがわかってたから後ろを見たくなかった。
俺は振り返らずに首をふる。
「ホントに? 何か隠してるんじゃなくて?」
「会ったことないし」
「そう」
「いないのか?」
「大学から連絡があって、おかしいなって思って来てみたんだけど」
「父さんなら」
「いないって」
それはそうだ。最終チェックでそれどころじゃないんだから。
「どっか出かけてたりとか」
「あり得ない。一週間もいないなんておかしいよ」
「一週間?」
思わず振り返ってしまう。
えとりは制服じゃなかった。
「連絡もなしにぱったり。全然知らなかった。どうせいつもみたいに仕事してるんだと思ってたから」
「なあ、えとり。明後日何の日か知ってるか?」
「え」
「父さんの誕生日なんだ。俺はたぶん、その日になった瞬間未来に帰らなきゃいけない。だからお前も来い。俺の考えだと未来にお前はいない。だから」
「どうゆうこと? 僕は未来にいないの?」
「さっきは嘘ついて悪かった。俺は未来でえとりに会ってるんだ。でもそいつはお前じゃない。過去でいえばそいつはえとりの父さんってことになる。だからこっちの世界にいるえとりの父さんは未来から来たえとりなんだ」
えとりは変な顔をした。変な顔というより、俺の説明の仕方が下手だったせいで伝わってない。
もう一回言ったら、えとりはちょっとだけうなずいてくれた。
「でもそんなことしたら、ぐちゃぐちゃになるよね? そもそもぐちゃぐちゃなのかな。未来の僕がこっちに来てるってことは、僕の両親は別にいるってことになるの?」
「なんで?」
「僕が父さんだと思ってた人が僕ならそうゆうことだよね? 僕は全然違う人たちから生まれて、その人じゃないまさに未来から来た僕が僕の父さんを名乗ってたわけでしょ?」
「そうかもしんない」
「じゃああの人は僕なんだ。僕に関心がなかったのはそうゆうわけだったんだね。ようやくわかったよ」
えとりの顔は笑ったのか泣いたのか怒ったのかよくわからなかった。その全部かも。ぜんぶを同じくらい表情に表すとこうなるのかもしれない。
「どうせぐちゃぐちゃならもっとぐちゃぐちゃにしようよ。行こう」
一緒にサイコロの中に。明後日まで一緒にいることにする。
すでに時刻は次の日。つまり父さんの誕生日は明日。明日になった瞬間に一緒にいないとタイムスリップできない。タイムマシンはこのサイコロ自体なんだから。
「未来はどんな感じ?」
「先生がいる。俺は先生に育てられたんだ。施設ってところで、たまに父さんが来て俺を怒って帰る。ゲームばっかやってたから」
「勉強は心配しなくていいよ。あんなの役に立たないし、どうしてもっていうなら僕が教えてあげる」
「そうする」
過去の先生からもらったゲームをしっかり握り締める。ゲーム機もディスクも。ソフトはまだクリアできてない。父さんがやらせた問題集はぜんぶ置いていく。いらない。こんなのあっても意味ない。えとりだってそう思ってる。
「学校は?」
「まさか訊かれると思ってなかった。大丈夫。やめるって言ってきたから」
「簡単にやめれんだな」
「僕は頭がいいから、面倒な階段を一気に跳び越えられる。ようじさんだって」
「あのさ、父さんの話は」
「ごめん」
やっぱり俺は何一つ悪いことなんかしてなかった。父さんが悪いことだと思ったことは俺の中ではちっとも悪いことじゃない。ずれてる。先生は俺と同じ考え。
先生は俺の本当の父さんかもしれない。確かに似てる。考え方とか。でも一緒にいたから似てきたのかもしれない。だから俺の父さんは父さんのままでいい。先生は未来だと先生だし、過去だとおやじ。
ただそれだけのこと。呼び名が変わったくらいで中身なんか。
かちかちちくたく。
その音が鳴った。時間だ。あっという間に明日。タイムマシンが起動するときの合図。小さな音だったけど俺は聞き逃さなかった。えとりに眼で教える。離れないように。ゲームでは片方だけ違う世界に出て離れ離れになった。それはイヤだ。手を握るだけではダメだ。もっと近くに寄らないと。ごちゃごちゃになってどっちがどっちかわからなくなるくらいに。
まだか。早くしろ、父さん。
自分の部屋。ベッドから落ちて眼が醒めたらしい。らしい? 違う、そうじゃない。俺はまさについさっき過去から帰ってきた。元いた未来に。でも過去から見るといまは未来なだけで、いまを中心に考えると、ここは現在。
窓もある。机もテレビもハードも。タイムスリップの前日に先生に買ってもらったソフトも。周囲を見渡そうと思って身体を起こして初めて気がつく。床には過去の先生からもらったゲーム機とソフトとケース。中にはきちんとディスクが。
でも安堵の溜息はつけない。
えとりだけ置いてきた。よりによって一番連れてきたかったものを。失敗だ。タイムマシンは直ってなんかいなかった。
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