第369話 ハマダラ蚊
20世紀末。式見優の世界でのことである。
ジャングルで金の採掘をしていたある技術者がいた。ある日、彼の部下が高熱を発して倒れた。マラリアに罹ったのだ。
どの街からも遠く離れたジャングルの中である。助けを求めることはできない。もちろん高価なキニーネなど持ち歩いてはいない。
高熱にうなされる部下を助けるすべはないと思われた。
やむなくその技術者は、自分が普段から持ち歩いている殺菌剤(水質の悪い水でも飲めるようにするサプリ。アメリカではドラッグストアで普通に売っている)を与えた。
ところがそれが奇跡を呼んだのだ。その部下は一命を取り留めるどころか、健康を取り戻してしまったのである。
その殺菌剤は安定化酸素と呼ばれていた。中身はほぼ亜塩素酸ナトリウム水溶液である。その後の調査で、亜塩素酸ナトリウムとクエン酸を混ぜることによって、より高い効果が発揮されることが分かったのである。
「ということなんだ」
「「「「「ふぁぁぁぁぁっ!!!???」」」」」
「そんなことを知ってたのね」
「ただこれは、民間療法であり科学的に裏打ちされたデータがあるわけじゃない。効き目は人によるのかも知れないし、自然治癒をアシストしただけかも知れない。どんな症状に効くのかも分かってないし、用法用量なども目算に過ぎないらしい」
俺が飲んだ(作らせた)のは、殺菌剤(亜塩素酸ナトリウム)ではなく次亜塩素酸である。キッチンハイターだと思ってもらえればかなり近い。漂白剤である。混ぜるな危険! の片割れである。
これは、亜塩素酸ナトリウムに比べればずっと毒性は強い(そしてまずかった)。
しかし作るのは簡単なのだ。塩素を水に溶かせばいいのだから。水をアルカリ性溶液にすればもっとたくさん作ることができるが、今回はそこまで指示するだけの体力も時間もなかった。
それでも俺の血液の中に入った次亜塩素酸は、亜塩素酸のようにマラリア原虫を退治するのに必要な酸化塩素に変わってくれるだろうと信じた。その程度の素人判断である。
医学書などない世界で、高熱で死にかかってる俺の判断に文句あるやつは出てこい。マラリア原虫を100匹ぐらいプレゼントしちゃる。
俺はアチラの識の魔法が、特定の元素の原子番号を2つ動かせるということを知った。理屈はさっぱり分からないがいくつかの事例がある。
ケイ素(Si)がイオウ(伝聞)になり、クロムが鉄(確認済み)になり、そしてイオウがアルゴン(未確認だが現象から推定)になった。
これらの事実を鑑みると、原子番号を動かせるとしか考えられないのだ。これらの元素の原子番号は下記の通りである。
ケイ素は14でイオウは16。
クロムは24で鉄は26。
イオウは16でアルゴンは18。
いずれの原子番号が2つ跳んでいることがお分かりいただけるであろう。
それならリンに識の魔法をかければ、塩素が発生するはずだと考えた。それを水に溶かし込むだけで、金の採掘技術者がやったことと似たような効果が得られるはずである。次亜塩素酸の水溶液が得られるはずである。
イオウを同時に集めさせたのは念のためである。もしかすると、術者のレベルや健康状態、気候とか疲労度とか。もろもろの条件によってはひとつしか動かない場合もあり得るのかな、と思ったからである。
ファンタジーの世界はそのぐらいの配慮がないと、連載などできないのである。(関係ないと思うヨ?)(黙ってろっての)
しかし他にも問題はあった。イオウは単体で存在しているからいいとして(不純物のことなど考える余裕はなかった)、リンはスクナの話を聞く限りでは過リン酸石灰のようであった。リンと水素とカルシウムの化合物である。
それに識の魔法をかけて原子番号を2つ動かした場合、どうなるか。単純に考えると、リンが塩素ガスになると同時に、水素はリチウムに、カルシウムはチタンに変わることになる。
塩素以外は金属であり水には溶けない(反応はするけど)。それなら発生したガスを水に通してやれば、次亜塩素酸の水溶液が得られると考えられるのだが。
相手は化合物である。ただ混ざっているだけの混合物なら俺の推測は当たるだろうが、識の魔法が化合物にどう影響するのか。そんなデータはおそらく誰も持ち合わせてはいないだろう。本来ならここで試験を繰り返し、確認してから挑むところなのだ。
しかし俺に残された時間は少なかった。繰り返す発熱に俺の脳はもう死にたがっていた。こんな辛い思いなどもうしたくない、そう思い始めていたのである。
だからいろんな意味で、ぶっつけ本番であった。うまく行ったのは結果オーライに過ぎなかったのである。
「ラノベあるあるなノだ」
「それを言うんじゃないの!」
「アチラさん。採ってきたよ。これをどうするの?」
「ここに大きな植木鉢がありましたので借りました。中身を出して底の穴は板で塞ぎ、そこにリン酸肥料をどっちゃり入れました」
「そ、そ、それ。コウセイさんが大切にしていた樹齢150年はあるかという松の盆栽……」
「え?」
時価10万円は下るまいと、コウセイさんが豪語していたものである。それはいま、ぽきぽきに折れた枝と一緒に地面の上に寝っ転がって、土に還る日を待っている。ご愁傷様デス。
「そ、それは忘れましょう。僕は忘れました。で、ですね。茶碗には気体を溶かし込むための水を入れてあります。スクナさんは採ってきたウツギの枝から、節のない部分だけを折ってください。断面は僕が仕上げます。それをこの蝋引きの布で繋ぎます」
「ぽきっ。あ、簡単に折れた。あっ、中身が空洞だ?!」
「ええ、それがウツギという木の特徴です。空の木だからウツギなのです。その空洞を使ってガスを通します」
「なるほど、それでウツギを採ってこいと言ったのね。で、これを繋ぐの? でも、気体だから漏れちゃいそうね」
「多少の漏れは仕方ないです。僕が断面を斜めにカットしますので、それで曲線を描くように繋げるはずです。植木鉢から茶碗まで、そうそうそんな感じで繋いでください」
「なるほど。この断面の斜めのやつとまっすぐなやつを繋ぐと曲線になるわけね。アチラさん、すごい!」
「昔、ゼンシンに習ったことがあるんですよ」
「アチラさんもいろんな経験を積んでるのね。それでつなぎ目にはこの蝋引きの布をぐるぐる巻いて、思い切り縛るとぎゅっ。ウツギの空洞を盆栽……植木鉢から発生したガスが通るから、茶碗の水に誘導できるわけね」
「その通りです。僕は魔法をかけるだけで精一杯になると思うので、ガスが発生したあとの作業は全部スクナさんとオウミ様でお願いします」
「分かった。手順を教えて」
「植木鉢にはフタが作ってあります。上に穴を空けましたので、ここに繋いだウツギの片側を差し込んでください。そして反対側を茶碗のフタに空けた穴に差し込んでください」
「茶碗のほうは水に入れるだけじゃだめかしら?」
「それだと水を通ってすぐに拡散してしまうかな、と思ってフタを用意してみました。それもこれもやってみないと分からないことですけど」
「そうね。そのほうがよさそうね。オウミ、このウツギの先端を茶碗のフタの穴に差し込んでいて。そのまま動かさないように持っていて」
「分かったノだ。ぽちっとな」
「でも茶碗側は、フタを強く抑えすぎると、途中のつなぎ目で漏れてしまうので、その辺は力の加減をお願いします」
「ちゅーしょーてきでややこしい指示なノだ。やってみるノだ」
「すみません。僕もこんなこと初めてなので」
「私はこの管の途中を手で支えていればいいね」
「はい。それと僕が魔法をかけたら、間髪入れずに植木鉢にフタをしてください。遅れるとそれだけ気体が逃げることになります」
そしてアチラが少しずつ魔法をかけては塩素を発生させ、それをスクナとオウミが支えるウツギ管を通して茶碗の水の中に気体を溶け込ませて行く。
そういう地道な作業であった。
「わおわおわお。漏れるノだ漏れるノだ。だだ漏れるノだ」
「オウミ、圧力がかかりすぎ! つなぎ目からもだだ漏れだから、もっとフタを開けて逃がして」
思っていたよりガスの発生量が多かったのである。
「注文の多い料理店なノだ。フタを開けると管が水から出てしまうノだ。臭い臭い臭いノだ」
「臭いぐらい我慢しなさいよ! もう、フタは外していいから、茶碗の水から管は絶対に出すな!」
「スクナが厳しいノだ?! だけど頑張るノだ」
「これで7回かけました。どうでしょう?」
「どうでしょう、と言われても我は藤村ディレクターではないノだ」
「なんの話よ! 水に色が付いてきたわね。ある程度は溶け込んだような気がする。とりあえずこのぐらいにしましょう。これをユウさんところに持っていって、一度見てもらいます。アチラさんはそのまま待機していて」
「分かりました」
「ユウさん。できたんだけど、これをどうするの?」
「ほにゃららほい」
「なんて言ったノだ?」
「飲ませろ、って聞こえた」
「「ふぁ?!」」
「ほんとなのかヨ? 我にはほにゃらとしか聞こえなかったヨ」
「我にもそうなノだ。スクナ?」
「大丈夫。だと思う。ユウさんは、これを飲みたがっている」
「すごいまずそうなノだが」
「我なら御免被るヨ。しかし、スクナがそういうのなら」
魔王ふたりは、茶碗を持つスクナをアシストすべく行動を開始した。オウミがユウの枕を首元に移動させて、口を真上になるようにした。ミノウはユウのアゴを引っ張って口を開けさせた。
「これでいいノだ。スクナ、それを上から注ぐノだ」
「でもこれ、全部飲ませていいのかしら?」
「量が分からないけど、面倒くさいので全部飲ませちゃおうヨ」
「大事なことなんだから面倒くさいがらないで!」
「じゃ、少しずつ、そっと垂らしてゆくノだ」
「そうね、そうしよう。でも茶碗で少しだけ垂らすって難しい」
「ぐがーごえーご」
「早くしないともう意識混濁状態のようだヨ」
「それは寝言じゃないかと思うノだ。しかし、急いだほうがよいノだ」
「そうっとそうっと。まだ落ちないか。あぁ、横から垂れちゃったぁぁ。ちょっと零れた。もう、面倒くさい! 全部入れちゃえ!!」
「たったいま面倒くさがるなって怒っていたばかり」
「ミノウ、もっと口を大きく開させて」
「ほいーヨ、ぐいっ!」
「オウミは鼻をつまんでぐぐぐぐ、ごらぁぁ私の鼻をつまんでどうする! ユウさんの鼻だっ!」
「し、指示が不適切なノだ。ほい、ぐにっにににに。鼻に汗をかいていて滑るノだ、早く、早くするノだ」
「そのぐらい空気を読みなさいよ、まったくもう」
「「ぐがーご……ご……ぐぐぐごごごごがががが」
「ユウさん、口で息をして!! それで一気にこれを飲み干して。どぼどぼだばだばどぼぼぼぼっ!!」
「ごっくん、ごっくん、ごっが……がが……がえぇぇぇぇごほごほごっほごほごほごっほごほほほ」
「まるでキングコングなノだ」
「印象派の画家にもそんなのがいたヨ」
「ごっほごっほごっほ!! やかまごっほしいわ、ごほほっごほほ。なに、なにがごっほあったんだ、いま。海で溺れる夢を見たぞ?!」
「あ、ユウさん、目が覚めた?! どう、クスリは効いた?!」
「あ、スクナか。クスリ? あぁ、この臭いのは例のあれか。できたんだな、ってどんだけ飲ませたんだよ?!」
「えっと茶碗1杯分から零れた半分を引いたぐらい?」
「そんなにいらねぇよ! 二口ぐらいでいいんだ。大量に摂取してもそんなに身体が受け付けない。それに2時間ほどで分解されて身体から出て行くだけなんだ」
「そういうことは先に言って欲しいものだヨ」
「ということで、2時間おきにそれを少しずつ俺に飲ませるように。くてっ」
「「「また落ちた?!」」」
「2時間おきね。じゃあ、また作るわよ。オウミ、転送」
「ひょいっ」
そして必死で魔法をかけるアチラ、管を抑えるスクナ、茶碗を抑えるオウミの連携プレーによって、次亜塩素酸水溶液は再び作成され、今度は少しずつユウに飲ませたのであった。
その度にユウが咳き込むのはご愛敬である。
「ご愛敬じゃねぇよ! 普通に起こしてから飲ませればいいだろうが!!」
丸1日が経つと、そのぐらいのツッコみができるぐらいに元気になったのであった。
「ツッコみで俺の健康度を測らないで」
ユウは危機を脱したのである。
「あぁ、辛かった。ほんとに死のうかと思った」
「あれだけ熱が続いたものね。クスリはもっと作ったほうがいい?」
「あ、そのことだが、もっと大量に必要になるかも知れない。作ったら光の当たらない容器に入れて保管してくれ。ガラスがいいな」
「いいけど、どうして大量にいるの?」
「ああ、俺の罹ったのはおそらくマラリアだ。ということは、その原虫を媒体した蚊はまだどこかにいる、ということだろ?」
「ああっ!?」
「ということは、これからも患者は増えるということになる。だからクスリがいる」
「そうか、そうだったね。でも、熱帯の蚊がどうしてニホンにいるのかしら?」
「いや、かつては温帯にだっていたんだ。日本にもだ。熱帯じゃなきゃ住めないわけじゃないんだよ。ただ、ニホンは公衆衛生が発達してマラリア蚊がいなくなっただけだ。この世界の衛生状態ならいても不思議ではない」
「でも、ユウさんのあの症状については、誰も知りませんでしたよ?」
「そうだったな。それは俺の免疫の弱さなのかも知れない。普通ならあそこまで抉らせるものではないのかも知れない」
「みんな1度はかかったことがあって、それで免疫ができているのかしら?」
「その可能性は高いな」
「でも、ユウさんを刺した蚊は、いったいどこにいたんでしょうね。
「俺もずっとそれを考えていだ。温帯気候でもいるとはいえ、マラリアを媒体する蚊――ハマダラ蚊という――は、気温が高いほうが長生きでしかも活性化するという話を読んだことがあるんだ。熱帯地方でいまだに猛威を振るっているのはそれが理由のひとつだろう。そして1箇所だけハマダラ蚊の繁殖があり得る場所を思い付いた」
「どこそれ?」
「タケウチ工房だよ」
「「「はぁ?」」」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます