回想3 1964年の記憶
――ここは、地獄だ。
不衛生な床と壁が見える。血や糞尿で変色して、異臭が構成物となっている。
空気は淀んでいた、埃と湿気で。換気したいが、窓は開けられない。
部屋の扉はもってのほか。ここどころか他に移動するための扉は塞がれ、奴らに監視され、それが吐き気のする閉塞感に繋がっている。
太陽の光は鉄とボロキレで遮られて、不健康な青白い光が部屋を照らす。
人間らしい生活のできない場所。でも、ここで俺たちは暮らしていた。
「…………、…………」
「……あー。……あー。……あー。……あー」
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」
そして、何よりも。ここに居る人間の精神が荒廃していた。
絶望、憎悪、憤怒、狂気、自棄、怨恨、諦観。行き場のない負の感情がこの施設では竜巻を起こしている。
もしそれらが具現化したら、俺たち、この場所は潰されちまうだろうな。
なんて、戯けたことを思いつつドス黒い染みがあるベッドで横になった。
「おい、人が死んでるぞっ! 今すぐ誰か処理に来てくれ」
何やら廊下が騒がしい。聞き耳を立てたら理由が分かった。
人が死んだらしい。便所の手洗い場所に頭を自ら打ち付けたようだ。
異常な死に方だが、ここで死ぬなら普通だった。この施設の中はあらゆる自殺の方法が制限されている。刃物はもちろん、ナイフやフォークも渡されない。首吊りで使う縄状のものは神経質なほど排除されている。
だから、死ぬにはこうするしかない。他には鉄格子に頭をぶつけたり、便器に顔を突っ込んで窒息したり、頑張って自分の爪で首を掻き毟ったり。
ああ、どれもまともなんかじゃない。人に限らず生き物とは生きるために活動をする。自ら死ぬには本能が邪魔して、上手くできないはずだ。
だが、それができる状態になっちまう。あの病気になってしまったなら。
『化け物に殺される。脳みそが破壊される』
これは3日前に死んだ、隣の部屋の奴が残した言葉だった。
正直のところ見飽きてたし、聞き飽きていた。自殺をする奴は決まってこう。
誰かに殺される、黒い何かに殺される、脳が、心が破壊される、死にたくなる。
「あああ、あああああ、ああああああああああ」
突如として、同じ部屋にいた奴が奇声を上げ始めた。
あいつはアルコール依存症だったか。死ぬまで酒を飲みたくなる病気、酒でしか楽しめなくなる病気、酒が抜ければまた違う症状が襲いかかる病気。
だけど、あんなにも惨めに、口からよだれを垂れ流しながら、発狂して、この世全てに絶望して、幻の恐怖に震える病気ではないはずだ。
「あああ、よ、よめさんが、あああああ、おれをみすてて、ああああああ」
「そこっ、うるさいぞっ! もう一度“管理室”にぶち込まれたいか!!?」
「ああ、うぎ、うぎぎ、あああああ、あそこはやだ、こわされる、ころされる」
……俺たちの頭がおかしい? ……気が狂っている?
その通りだが、俺たちは元からおかしいんじゃない。おかしくさせられた。
そして、病気になったんだ。奴らに付けられた病気とは違った、新手の病気だ。
名前は何にしよう。この惨状だ、きっとこの地に渦巻く呪いとなるだろう。
……と、古びたペンで記録を残した。薄汚れた手記に、だ。
これが何のためになるかは分からないが、そうしないと俺まで気が狂っちまう。
溜め息と同時にペンをその辺に置いた時だった。また騒がしいことに気づく。
看護とは名ばかりの、ガタイの悪い形相の野郎どもが廊下を走り回っていた。奴らから、俺は理不尽な苛立ちを感じた。
「またかよ、めんどうくさい。あそこに沈めるのも一苦労なのに」
「やっぱり“管理室”に入れておくべきだったんだよ。半年は稼げたんだから」
――ああ、ここは地獄だった。
かろうじて隙間から見える外の湖は、悠然と存在していた。
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