第4話 もう1つの怪異

「……お兄ちゃん、おかえり」

「ただいま」


 長い講義も終わって、自分の家に帰ってきた。

 そんな僕を出迎えてくれたのは――妹の青原依未あおはらよみ

 無愛想な顔を綻ばした妹は、手におたまを持って、エプロンをしていた。

 そういや今日の夕飯の支度は依未の番だ。そんなことを思い返していると。

 依未が、僕に体を密着させて、匂いをかぐような仕草をしてきた。


「……お兄ちゃん、変な匂いがする」


 変な匂いがする。それは別に僕の体が臭いという意味ではなく。

 僕が何らかの怪異に取り込まれているという、そんな意味を持っていた。

 依未には小さい頃から何かを感じ取る力があるらしく、昔から驚かされていた。

 僕が怪異の存在を受け入れ、それを明かそうとしたきっかけだったりもしたり。

 ……今は関係ないか、話を戻そう。

 匂いの元凶が知ってる僕は「そうか」と軽い言葉から会話を続ける。

 

「ああ、前に話したけど、箱のことなら」

「……違う」

「えっ?」

「……もう1つだけ、匂いがするの。」


 ――何だって、もう1つだけ?

 顔をしかめていた依未に、それと同じような表情をしながら聞き返す。


「それは本当なのか、依未」

「……うん。……鼻が曲がっちゃうくらい、気持ち悪いの」


 深刻そうな態度。おそらく嘘は言っていないはず。

 だが、思い当たる節はないのも事実だった。

 かと言って、依未の力の信頼性だって兄として分かっていた。

 ……本当にもう1つの怪異が迫っているのかも知れない。


「分かった。ありがとう、気をつけるよ」

「……うん、気をつけてね。お兄ちゃんがいなくなったら、私……!」

「大丈夫だって」


 とりあえず、涙を浮かべそうな状態の妹を、安心させるように撫でた。

 依未は嬉しそうな、不安そうな、複雑な顔で僕の顔を見つめていた。




 日は変わって、次の日の朝。大学の構内。

 僕はいつも通り夕闇倶楽部の部室に訪れようとしていた。

 今日は午後しか講義を入れいないので、休んでも良かったのだけど。

 大事な事情があるとはいえ、ここまで来ると惰性で行ってるとしか思えないな。


「……もう1つの怪異、か」


 昨日の依未の言葉は、未だに僕の心に残っていた。

 答えが出ないものを考えても仕方がないとは分かっても、考えてしまう。

 人間の脳とは思い通りにいかないものだと、つくづく思い返された。

 とりあえず思考を変えようと、別の大事なことを思い浮かべて忘れようとする。


 別の大事なこと、とは部室に放置された箱のこと。

 昨日の八時頃、遠乃から連絡が来たのだった。箱の解錠が進んだらしい。

 それを見た瞬間、言葉に表せない恐怖と危機感も感じた。

 ……理由はわからない。

 しかし、これから大変なことが起きる予感のようなものを感じた。

 そんなわけで、僕はあいつに真意を聞き出すべく部室の扉を開いた。


「おはよう。みんな……え?」


 その瞬間、部室から嫌な空気を感じた。

 そこにいたのは雫と千夏。二人の様子がおかしかった。

 ――雫は毛布をかぶってうずくまっている。目の隈が痛々しい。

 ――千夏は頭が抱えて、顔を青くして、虚ろな目で原稿に向かっている。


「……おはよう、誠くん」

「……おはようございます。誠也先輩」

「ふ、二人とも、どうした?」


 負の何かが漂う二人に、思わず質問を投げかけた。


「あのね。また夢を見たんだ」


 僕の質問に対して、最初に口を開いたのは雫だった。

 振り絞って出されたような微かな声に、僕は何も言わずに耳を傾ける。


「でも今度は違っててね。――まるまる太った怪物の夢」


 昨日の時に話してくれた夢とは違う内容に困惑したが、一先ずは話を聞く。


「それがね、光ってる何かを睨みつけていて、変な食べ物を汚ない手で掴んで、貪るように食べて。まるで、私が小さい頃に見たアニメの怪物みたいだったんだ」


 紡がれる言葉から、彼女の見た夢のおぞましさが飛び出しそうだった。


「私、怖くて怖くて。それに昨日の夜からずっと気分が悪くて……」

「べ、別に休んでも良かったんだぞ?」

「何でだろう。何故か行かなくちゃって思って……」

「……とりあえず、無理だけは絶対にするなよ」

「う、うん。それは大丈夫」


 そんな様子で大丈夫と言われても首を傾げてしまう。

 ……本当に大丈夫なのだろうか?


「それで、千夏はどうしたんだ? 体調悪そうだが」

「私は、単純に寝不足ですよ……」


 ……安心感と脱力感で、気が抜けた。

 そういや昨日から記事の締切に追われているって言ってたよな。

 だが、何はともあれ、大事に至っているわけではないようで良かった。


「色々と書くものが増えて大変ですけど……。おっとっと」


 彼女が机に倒れ掛かった時、写真が一枚落ちて、僕の目の前に落ちた。

 思わず見てしまう。それに写っていたのは1人の人間。……見覚えがあった。

 昨日見た――あの女性だ。あの見た目がとんでもなく個性的な人だ。


「あ、これ……」

「ご存じでしたか? 狂花月夜くるいばなつきよさんですよ。こういう字を書くんです」


 書いていた記事の原稿、その一部分で指し示してくれた。

 ……どうやら見た目でなく名前も特徴的な人だったようだ。


「昨日、ちょっと見たんだ。そんなにすごい人なのか?」

「はい! 噂に違わぬ、素晴らしい方でしたよ!」

「そ、そうなのか……」

「おかげで記事を書くのが、捗っちゃいました!」


 意外だ。やたら辛口が目立つ千夏にしては珍しい。

 僕の個人的な感想としては見た目がおかしい人、だったのだが。

 ああ見えて、中身は千夏から賞賛を受けるほど優れていたらしい。

 ……まあ、人を外見だけで判断はできないし。単なる偏見だったようだ。


「そのせいか頭痛は悪化しましたけどね……」

「ず、頭痛?」

「昨日もそうでしたが、今日はよりひどくて。寝不足ですかね」


 薬は飲んだんですけどね、と頭を抱える千夏。

 その姿を見て、僕の中で疑惑が膨らみ初めた。


「千夏、教えてくれ。……その頭痛、いつからだ?」

「いつからって……。うーん、1週間前くらいでしょうか」

「四日目? それって」

「先輩が、あの箱を廃寺から持ってきた日の翌日でしたね」


 それを聞いて、確信を得てしまった。

 ……あの忌まわしき箱を見つめる。箱は依然としてそこにあった。

 箱が解錠が進展したと同時に訪れているという、体調不良。

 やっぱりあの箱には何かがある。僕の勘は間違ってなかったのだ。

 そう結論付けた瞬間。雫が突拍子もなく立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。


「あ、そうだ。とおのんに言われてたんだ。……箱を、開けないと」

「えっ? あ、おい! 雫っ!!」


 僕の制止を聞かずに、操られたように箱へ向かう雫。

 ふらふらとしながら箱を持ち上げると、器用に箱のからくりに取り組み初めた。

 そんな異様な光景に、僕と千夏は呆然と立ち尽くしているだけだった。


 ――かたんっ


 突然、箱から何か動いたような音がした。


「あっ……。開いたよ、開いた。開いた開いた、もうすぐもうすぐ」


 ……おかしい。雫の様子がおかしい。

 体の重心がまったく定まってない。神経質に鼻をすすっている。

 数秒経った頃には絶えきれなくなったのか、自身のハンカチで押さえていた。

 その小奇麗なハンカチには、彼女のものと思われる血がべったりとついていた。


「もうすぐで……あれ、何だろ? ……は、鼻血? あれ、あれれ」


 自分から流れる血を見て、ぶつぶつと呟く。

 そして、そのまま糸が切れたように力を失って、後ろに倒れ込んだ。


「雫っ!!」


 駆け寄って、息を確かめた。

 ……よかった。ちゃんとある。意識は失っていない。

 でも、一刻を争う大変な状況ではあった。すぐにでも保健室に!


 ――どさり。


 気づくと、僕の後ろにいた千夏が倒れ込んだ。

 疲労と頭痛で歪んでいた彼女の顔は、青白くなっていた。


「何よ、これ」


 訳のわからない状況の中、部室に来た遠乃が呟く声だけが耳に入ってきた。

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