Death-ward

光藤 環

Season 1

幕開けの朝

# 01

“現在”というのは、限りなく“未来”に近い。

 これは小難しい時間の概念についての話ではなく、ただの体感の話だ。

 例えば今年は、21世紀が始まってからもう××年目になる。別の表現をするなら、キリストが生まれてから20××年目でもあり、アインシュタインが一般相対性理論を発表してから10×年目でもある。

 少し前までは夢物語にも思えた様々な技術が現実のものになり、ボイジャー1号は太陽系の果てに到達しようとしていた。“未来”という言葉に持つイメージは、“現在”にも当てはまっているのだ。

 少なくともランカはそう感じていた。


 だから、「こんな時代に今更」と思った。

 ランカほど今の世界に空想を抱いていなかったとしても、きっと多くの人がそう思ったはずだ。


 ほんの数日前のことだ。

 信じられないような猛暑がようやく落ち着いて、秋の気配が滲み始めた夏の終わりのある日。は突然現われた。驚くほど非現実的で、古臭く、それこそ現在や未来という概念とは対極に位置するような存在。


 悪魔。


 21世紀が始まって××年で、キリストが生まれて20××年で、一般相対性理論の発表から10×年の今になって、彼らは突如として人類に悪意を剥き出しにした。

 ランカはその瞬間を目の当たりにした一人だった。



✴✴✴



 ザクザクと音を立てて靴底が土を踏む。

 太陽は真上。埃っぽい空気の中をランカは小走りで進んでいる。両手には白とライムグリーンのペイントが施されたカービンライフルを抱え、敵の影に目を光らせていた。

 不運にも戦場に選ばれた町のほとんどの建物は、崩れたり、弾痕で穴だらけになったりしている。その瓦礫が散らばる路地裏をランカは進んでいく。少し焦っていた。

 敵を倒さなければならない。だがその敵が見つからない。たまに銃声は響くけれど、どこから聴こえてくるのかいまいち分からない。一緒にいたはずの仲間も、いつの間にかいなくなっていた。

 心細くなったランカは、ヘルメットに装着されているインカムに向かって呼びかける。


「バート! バート、いないの?」


 しかし返事はなかった。

 落胆と焦燥で奥歯を噛んだ、その時だ。

 ドン、と胸を思い切り殴られたような衝撃にランカの体は弾かれた。息が詰まり、背中から地面に倒れこむ。

 そこでようやく気付いたが、正面に誰かが立っていた。敵だった。彼が構えるライフルの銃口はまっすぐにこちらを向いていて、細く硝煙が立ち昇っているのが見える。

 ランカは仰向けに倒れたまま、頭を持ち上げて自分の体を見た。胸の真ん中、ちょうど心臓の辺りから血が流れだしている。

 撃たれた。

 そう認識したと同時に灼けるような熱さに襲われる。勝手に口が大きく開いて、痛みに悲鳴を上げようと息を吸い込みかけたが、上手くできなかった。

 そうしているうちに、敵はもう一度引き金を引いた。


 ──その瞬間、ランカはびくりと体を震わせて目を覚ました。そして、夢だったと気付いた。

 強張っていた体から力が抜け、安堵の息が溢れ出る。ランカは太陽が照りつけるどこかの戦場ではなく、目を開けていても閉じていても変わらないような暗闇の中にいた。

 撃たれたと思った胸に無意識に手をやると、速い心臓の鼓動を感じた。本当に銃声が鳴ったみたいに、耳には轟音の余韻が残っているような気がする。

 そうして呼吸を整えながら、ランカは思わず小さく笑みを浮かべた。

 とんでもない夢を見た。

 けれど、悪夢というわけでもなかった。まだ世界が普通だった時の夢――さっきのは、良くプレイしていたオンラインゲームの夢だ。

 とても気に入っていたゲームだった。もう、遊ぶことはできないのかもしれないけれど。


 現実を思い出し、完全に覚醒してしまったランカは仕方なくベッドから体を起こした。

 寝る前に点けていた蝋燭はとうに燃え尽きているようだ。真横にあるカーテンを指先で少しだけよけて、窓の外を伺ってみる。星明かりでここよりはほんのりと明るいものの、やっぱりまだ真夜中のようだった。


「ランカ?」


 そんな真っ暗な空間の中で、細く名前を呼ぶ声が上がった。


「あ、ごめん、起こしちゃった」


 ランカはぱっと声の方を振り向いた。

 もちろんすぐには姿は見えない。けれど気配を感じる方をじっと眺めていたら、そのうちだんだんと闇に目が慣れてきて、やがてこちらを向いている白い顔がぼんやりと浮かぶようにして見えてくる。

 その顔は不安そうな表情をしていた。


「どうしたの? 何かあったの?」


 彼女──親友のエマは、上擦った掠れ声でそう尋ねてきた。


「ううん、なにもないよ」

「外にあいつらがいるの?」

「いないよ。大丈夫、ちょっと怖い夢見て起きちゃっただけ」

「……そう、そっか……」


 頼りなげに揺れる声のあとに、深く息を吐く音が聴こえた。


「エマ、ごめん。びっくりさせたよね」

「ううん、いいの。だって、無理もないもの」


 エマの声はまだ震えていたが、どうやら一応は落ち着いてくれたようだった。

 それでも不安そうな様子の彼女に、ランカは何か気の利いた言葉を掛けてあげたいと思った。けれど結局何も思い浮かばず、もう一度「ごめんね」を繰り返す。

 わざとではなかったにしろ、ランカはエマを怯えさせてしまったことを反省した。エマはずっと怖がっている。何しろランカとエマの住む街が悪魔の襲撃を受けたのは、まだほんの三日前のことだった。ランカとエマは間近でそれを見ていた。彼女が言ったように、この異様な空気の重さも無理もない。あれは間違いなく世界の終わりの光景だった。


「寝よう、エマ。まだ朝までだいぶあるよ」


 ランカは努めて明るい声を出した。今はそれくらいしかできることがなかった。


「うん……そうだね」

「明日には、きっと何か良くなってるよ。原因が分かるとか、軍が来てあいつらやっつけてくれるとか」

「そうだと、いいね」

「そうなるよ。だってこんなの……こんなのが続くなんて、リアルじゃないもん」


 そう、リアルじゃない。

 それは紛れもない本心だったが、ランカはすぐに言ったことを後悔した。気休めの言葉にしてもお粗末すぎる。


「……ねぇ、ランカ」


 後悔するランカに、エマがそっと呼び掛ける。

 ランカが視線を上げると、彼女は暗闇を見ていた。


「私ね、今でも、これは夢なんじゃないかってどこかで思ってるの」

「うん、分かるよ」

「でも、違うのよね。これは現実なの」


 イエスともノーとも言えず、ランカは黙って続きを待つ。


「だって、あなたの怖い夢は、ちゃんと覚めた」


 囁きほどの小さな声の中に、絶望と悲壮がいっぱいに詰まっているようにランカには聴こえた。

 ランカの見た夢は、こんな形でエマを打ちのめしてしまったらしかった。

 少しの間かける言葉を探してみたが、すぐに無理だと悟ったランカは、無言のまま再びベッドに横になった。話せば話すほど彼女を救えなくなる気がしたし、本当はランカにも、誰かを励ましてあげられる余裕はなかった。

 何も考えないようにしながら眠りやすい姿勢を探した。前髪のあたりまでタオルケットを引き上げ、更に暗い闇に逃げ込む。

 それを見てエマも会話の終わりを察したようだ。おやすみも言わずにランカが目を閉じても、それ以降彼女が口を開くことはなかった。けれど、寝息が聴こえてくることもなかった。


 こうやってランカとエマはまた、何も解決しないまま眠りにつくしかない。はっきりしているのは、ランカたちが知っている日常は三日前になくなって、いつ取り戻せるのかも、いつかは取り戻すことができるのかも、分からないということだ。

 そして、ランカたちをそんな世界に追い込んだのが“悪魔”と呼ばれる者たちだということ。

 最初に彼らを悪魔と呼んだのが誰かは知らない。でも実際にその姿を目にしたランカにしてみれば、それ以外に相応しい呼び名はないと思えた。

 人間への悪意そのものが顕現した、そんな姿だった。



✴✴✴



 夜が終わり、次の日の朝が来た。

 きっと何か良くなってる、そう昨夜エマに掛けた言葉も空しく、ランカは穏やかな朝日の中、いよいよ差し迫った問題に直面している。

 街が悪魔に襲撃されてから三日目というのは、そろそろ家の中にある食料が枯渇し始める頃合いだということを意味していた。

 キッチンの戸棚の中を覗いていたランカは、ため息を吐いて扉を閉めた。この作業はもう何度目かになるが、何度見ても中には缶詰一つ残っていない。停電したせいで冷蔵庫の中身もほとんどが駄目になり、残っているのはもうペットボトルの水が一本と、スナック一袋のみである。そもそも一人暮らしをしていたランカには、余分な食料を備蓄する習慣がなかった。そのことを悔やむのも、もう何度目になるか分からない。

 繰り返し出そうになるため息を飲み込んで、ランカはそっと後ろを振り返る。カーテン越しの太陽に照らされたリビングと、その真ん中にあるソファの上に座るエマの姿が目に入った。

 淡いオリーブグリーンのカーテン、ミルクティー色のラグ、クリーム色のソファ。ウォルナット材のローテーブルの上には最後の食料であるスナックの袋と、テレビのリモコンが無造作に置かれている。

 わずかに残った日常の光景の一つだ。

 ただクッションを抱きしめて座るエマの表情は虚ろで、視線はぼうっと宙に投げられている。


「エマ」


 そんな彼女にランカは声を掛ける。


「食べ物がなくなっちゃった。やっぱり、もう外に出るしかないよ」


 エマはすぐには口を開かず、視線だけをこちらによこしてきた。外は明るくなったが、その瞳は暗いままだ。


「……私、お腹空いてないから大丈夫」


 やがてぽつりと、呟くようにエマが言う。ランカは体ごと彼女に向き直ってキッチンに背を預けた。


「今は空いてなくても、あとで食べたくなるかもしれないよ?」

「いらない。食欲がないの」

「なくても、食べなきゃ動けなくなっちゃう」

「いいの、いらないの」


 エマは首を横に振り、ぎゅっと自分の膝を抱いた。


「エマ」

「お願い。外なんて無理。行けない」


 声こそ弱々しいが、拒絶の色は強い。ランカは彼女には聞こえないように嘆息する。昨日もこの話をしたが、その時も全く同じ調子だった。

 彼女の気持ちはもちろん分かる。外で地獄を見て、命からがらここへ逃げ込んだのだから。それからこの三日間は、ふいに聞こえてくる悪魔の唸り声や、襲われたのであろう人たちの絶叫に怯えながら過ごした。外が危険だというのは、分かりきったことだ。


「エマ。私は食べ物が欲しいから、外に行きたい」


 それでも、ランカは一言一言を区切るようにして、はっきりとそう告げた。

 部屋に閉じ籠って三日。状況は混乱のままだが、今すぐ解決しなければならない問題は単純で明白だ。

 食料が底をついたので、調達しにいかなければならない。

 あと、水の心配もある。今はまだ水道が使えるが、いつまでも無事な保証はない。テレビも携帯電話も使えないとなっては、情報も欲しかった。

 あの日、ランカとエマはたくさんの人が死ぬのを見た。その次の日も見たし、ランカが住むこの小さなアパートに、自分たち以外に生きている者はもう誰もいないということも知っている。それでも、この街で生きているのが自分たち二人だけなんてことは、きっとないはずだとランカは思っていた。

 ランカたちのように逃げ延びている人がいるかもしれない。そんな人をもし見つけることができたら──情報交換もできるし、この先助け合っていくこともできる。

 何よりこの状況で何もしないままじっとしているのは、ランカには耐えられなかった。


「私は行くよ」


 もちろん怖い。けれど、食糧がなくなれば待っているのは飢えだけだ。助けが来るかもしれないという期待は捨てていないが、都合よく今日来てくれるとまでは思えない。

 ランカはエマを見つめた。聞くまでもなく、彼女の返事は分かっていたが。


「私は、行けない」


 それはほとんど泣き出しそうな声だった。

 

「うん、わかった」


 ランカはなるべく軽く聴こえるようにそう答えた。そして、少しの時間を掛けてその答えを飲み込むと、勢いを付けてキッチンに凭れさせていた体を起こす。

 行くなら早い方がいい、そう心の中で決心した。

 足が竦まないうちに──。

 そこからはもう、ランカは勢いだけで動いた。

 食べられなければ死ぬ。それだけを考えるようにした。


 ベッドルームの姿見の前で、キャミソールにデニムのパンツというラフな格好の上から薄手のパーカーを羽織る。そのとき映った自分の顔が、思ったよりも疲れているように見えたのが少し意外だった。

 クローゼットの奥から大きめのボストンバッグを引っ張り出しているとき、背後にエマの視線を感じた。ちらりと振り返るとドアの向こうからこちらを見るエマと視線が合ったが、小さく笑ってみせただけですぐに作業を再開する。

 懐中電灯とメモとペン。ボストンバッグにはそれだけを入れた。このスカスカのバッグが、ここへ帰ってくる時には食料でいっぱいになっていればいいなと楽観的に思う。

 最後に、ランカはチェストの引出しから一つの箱を取り出した。たった今その存在を思い出したのだが、まるで始めからそれを用意するつもりだったかのように、自然な動きで蓋を開け、中のものを取り出す。

 ずしりと冷たく掌に納まったのは、一丁のハンドガンだ。一人暮らしをすることになったときに父親に持たされたものだった。急激に両親の安否が気に掛ったが、彼らが住んでいるのはこの国の東海岸側。ランカとエマがいるこのロサンゼルスとは数百キロも離れているから、きっと無事だと思い直す。

 ちゃんと弾が装填されていることと安全装置がかかっていることを確認して、ランカはハンドガンをデニムパンツの後ろ側に差した。上手くパーカーの裾に隠れてくれるはずだ。

 予備のマガジンをボストンバッグに放り込んで、ふ、とランカは小さく息を吐いた。そしてボストンバッグを肩に掛け、出発しようと振り返りかけた時、開けっ放しの引き出しにきらりと光るものが目に留まる。


(……悪魔、なんだよね)


 一瞬動きを止めていたランカは、心の中でそう呟くとそれを指先で拾い上げた。


「ランカ、行かないで」


 そうして今度こそ扉に振り返った時、エマがふいに声をあげた。


「ううん、行かなきゃ」


 ランカは言い聞かせるように答える。


「行かないで。一人にしないでランカ、お願い」

「食べ物を見つけたらすぐに戻るから」

「無理だよ、外にはあいつらがいるんだよ?」

「それでも行かなきゃ。ほんとにもうこの家には何もないんだよ」

「あいつらが何をするか……人を、人をあんな風に……っ。あの日、あなた一緒に見てたでしょう!」


 俄にエマの声が大きくなった。

 感情を露にしたエマはそう叫ぶと、つかつかと歩み寄ってきて、縋りつくようにランカの腕を両手で掴む。


「行かないで、外に出たらきっと殺されちゃう!」

「エマ聞いて。一昨日までは騒がしかったけど、昨日からは悲鳴は一つもきこえてない。あいつらはもう、この辺りにはいないのかもしれない」

「それは生きてる人がいなくなったからよ!」

「それでも一緒だよ。あいつらは明らかに人を狙って襲ってた。人がいなくなったなら、あいつらも移動してるかも」

「そんなの……そんなこと言ったって、分からないじゃない……」


 押し殺していたものがついに溢れるように、エマの瞳から涙が零れる。


「私、怖いの。行かないで。一人にしないで」


 親友の涙声の懇願は胸に突き刺さるようだった。思わず決意が揺らぎそうになる。ランカは一度目を閉じて、その動揺が落ち着くのを待った。


「……エマ」


 そうして目を開けると、ランカは自分の腕を掴むエマの手に、もう一方の手をそっと添えた。


「私も怖いよ。でも、だから何かしたいの。怯えながらじっとしてるだけの時間はもう耐えられない。頭がおかしくなりそう」


 ランカはエマのヘーゼル色の目に訴えかけた。

 そう、ランカは自分のために外に行きたかった。唯一はっきりしている目先の問題に取り掛かることで、受け入れがたい現状から目を反らしたかった。

 エマは顔を歪めて泣いている。その彼女の手を、ランカはゆっくりと引き離した。


 エマは抵抗せず、それ以上何も言わなかった。嗚咽を堪えながら泣き続ける彼女をそのままにして、ランカは部屋を後にする。

 短い廊下を抜け、壁に掛けていた車のキーをポケットに突っ込んで、ランカは玄関の扉を開けた。

 三日ぶりの太陽に目を細めながら、ランカは先ほど引出しの中に見つけたものをその光に翳してみた。

 シルバーのロザリオはきらきらと朝日を弾いて輝いた。

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Death-ward 光藤 環 @tamaki_mitsufuji

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