風呂とキャスト
かのひとの失踪について警察から聞かれた時、僕は思わず、「あの子は太宰じゃなくて、ロバート・ジョンソンだったんですね」と口走りそうになった。
そのことをガールフレンドに話したところ、彼女はいつも通り大口を開けて笑い転げた。
「あ、は、はは、は! なに、あの子は誰かと不倫していたところを、カレシに見られたとか、そう言いたいの? 二十七になっても処女だったあの子が? 相変わらず面白いこと言うね、君は」
僕の得意料理のラタトゥイユもどきは、すでに鍋ごと空になっている。本当は明日の昼食まで持たせるつもりだったのだが、ガールフレンドの胃袋を甘く見すぎていた。
寝転がった彼女の、剥き出しの膝が、ローテーブルの足に当たる。サラダの入っていた白い器とフォークがぶつかり、軽い音を立てた。芥子色のスカートは、あまりその意味をなしていなかった。
カーテンの外はもう暗い。
立春を過ぎたとはいえ、まだ日が落ちるのが早いのだ。
六畳しかない部屋の隅で、微かに鳴り続けているラジオが、七時を知らせてきた。外で頑張っている洗濯機が一仕事を終えるまでに、あと十分ほどかかる。
「不謹慎極まりない想像を働かせているのはどっちだよ」と僕は答える。
ついでに、食べ終えた夕食の皿を、全て流しへと運んだ。これ以上テーブルを蹴飛ばして、皿を割られても困る。
居なくなったらしい女性は、ガールフレンドの友人であり、僕にとっては、なんというか、昔ながらの知人だった。
数年前、故郷の居酒屋で偶然再会したものの、連絡先の交換すらしなかった。その時は二人とも酷く酔っ払っていたし、お互いその必要は無いと感じていた。今も、そう思っている。
ガールフレンドは、ひとしきり笑ってから、「さて、風呂に入るか」と立ち上がった。まるで、ひとつの話がそこで終わってしまったかのようだった。
僕は少しだけ言葉に詰まった。
ガールフレンドの行動はとても自然なものだった。僕が彼女の立場なら、きっと同じようにするだろう。
失踪したあの人は、それに値するような人間だった。
それでも、と僕は最後の皿を流しに置いた。
皿同士がぶつかり合い、小さな音が鳴る。この家に、複数の存在がある証だ。
それでも。
あの人の元心中相手だった僕が、スポンジを手に取るまで、しばらく時間を要した。
事は単純な話で、女の子からの誘いを、僕が蹴っただけのことだった。
あの子はどこまでも不安定な少女で、僕はそれについていけなかった。
最後はお互いに納得して別れた、と思う。僕は、その思い出を、腑に落ちてはおらずとも、喉を通り過ぎたものとして扱っていた。
だから、風呂から出てきたガールフレンドの台詞にも、問題なく対応出来るはず、だった。
「今頃、どこの風呂に入っているんだろうね」
思わず僕は作業の手を止めた。誰のことを言っているのかは、聞かずともわかった。
恋人は、白いキャミソールに、着古されたジャージのズボンを履いている。短く切りそろえた茶髪からはまだ水滴が滴り落ちていて、フェイスタオルがどうにか床がびしょ濡れになるのを防いでいた。
僕は、皿洗いを終えて、明日ゴミに出すペットボトルをポリ袋にまとめていた。
慣れてしまった恋人の寝巻きを見上げる。洒落たケーキをSNSに上げる人物には、到底見えなかった。
頭をがしがし拭きながら、彼女は「何変な顔してんの」と眉を顰める。
「ペンギンがビール飲んでいるシーンを初めて見たひとみたいな顔してるんだけど」
「……エヴァ?」
「うん」
白いタオルに包まれた頭が一度縦に振られる。「新劇の方ね」と情報が追加される。最近テレビで放映されていたからだろう。
僕は、上手い返しをしようとして、何も思いつかなくて、結果的に曖昧に微笑んだ。微笑んでから、「あー、いや」と、何を否定しているのかもわからないまま話し始める。
「なんというか、風呂ってイメージが、あの人と結びつかなくて」
こちらの言葉に、ガールフレンドは、「出た、相変わらずの信仰ちっくなやつ」と返した。ご丁寧に、口がへの字に曲がっている。
以前どこかで話した僕とあの人の関係を、思い出しているに違いなかった。
僕は炭酸飲料のラベルを勢いよく剥がした。ミシン目に上手く沿えず、薄いプラスチックは途中で大きく歪む。
それを見たまま、「そういうのじゃないよ」と否定する。
「あの人には現実感がないってだけの話なんだ。どちらかと言えば、麻薬みたいなものだよ。手を出せばやめられなくなるし、その先にあるのは文字通りの死だ。だから僕は選ばなかった」
ガールフレンドは、しばらく僕の方を見ていた。何か、口の中で言った気がしたが、それはこちらの耳に届く前に空気に溶けた。
彼女は、一度目を閉じて、そして開いた。
「……そして、私が選ばれた。そうよね?」
ガールフレンドは大股でこちらとの距離を詰めると、僕の手からペットボトルを取り上げた。
そして、躊躇なくポリ袋に捨てた。
透明なポリ袋には、既にいくつかボトルが入っていて、何度か揺り動かせば、もうどれがどれだか分からなくなる。
僕は、彼女の目を見た。
真っ直ぐにこちらを突き刺してくる視線は、確かに現実のものであり、僕らが熱を帯びた大人だということを否応なしに提示してくるものだった。
僕は確かめるように言った。
「僕は、君を選んだ」
「よろしい」
ほぼゼロ距離からの視線が、ようやく和らぐ。
お許しを貰えたようだ。
ガールフレンドは残りのペットボトルを片付けてしまうと、固くポリ袋の口を結んだ。
「ま、あの子のことだし、大丈夫なんじゃないの? どこの風呂に入っているかはわからないけどさ。それは最早、あの子の物語に過ぎないよ。君はすでに、その物語のキャストからは追放されている。違う?」
「違わないさ」
僕はシンプルに答えた。
実際、知人という関係性を頼りにやって来た警察に対して、僕は何一つ語ることが出来なかった。
かの女性の今までの経歴や言動を話したって、それが本人に繋がる「あの人」そのものであるとは、到底思えなかったからだ。
聞けば、他の聞き取りも似たようなものだったという。元々、あの人は、人との交流を好まなかった。
だから、恋人の言う通り、あの人は誰も知らないどこかで、風呂に入っているのだろう。ひょっとしたら、誰かと一緒なのかもしれない。でもそれは、最早僕にとって、どうでも良いことだった。そのはずだ。
僕はポリ袋を玄関に移してから、「あ」と声を上げた。
テレビをつけようとしていたガールフレンドが振り向く。その表情には、なにかの予感があった。多分、僕も似たようなものだったんだろう。
僕は言った。
「僕たち、結婚しようか」
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