罹患

 よく晴れた昼下がりの事だった。

「明日、貴方は虫になりますよ」

 散歩中の僕に、突然話しかけてきたその女は、ただそれだけを告げて通り過ぎていった。

 後ろでひとつにまとめた黒染めの髪、フレッシャーらしき真っ黒なスーツとパンプス。眼鏡だけが場違いに赤い女だった。

 宗教勧誘もなく商品の説明もなく、ただその一言だけを、僕の真正面で、堂々と言った。

 訝しげに振り向いたが、女は既に曲がり角へと消えていた。歩道の脇に植えられたイチョウが、寒々しく立っていた。

 大方、グレゴール・ザムザでも読んだのだろう。

 僕はそう思うことにした。

 来月から新社会人になることに辟易した女が、ストレスを発散させるために、通りすがりの僕を標的にしたのだろう。

 長い春休みをダラダラと過ごす二つ下の男の散歩姿は、さぞかし彼女をイラつかせたに違いなかった。

 いい迷惑だが、刺されるよりは幾分かマシだ。

 でも、小説にある通り、明日本当に虫になるとしたら?

 僕は考える。信号のない小さな横断歩道を渡る。

 オレンジとピンクを混ぜてくすませたような、変な色をしたレンガ風のアスファルトを踏みしめる。ミミズの死骸がところどころ転がっていた。

 もしあの女の言ったことが本当ならば……と考えて、僕は何ひとつすべき行動をを持たないことに気がつく。

 まだ履修登録もしていないから、演習の欠けを気にする必要はない。友人にそれとなく告げてみるにしたって、だからどうなんだ、という話だ。明日虫になるから、と言われても、困惑しかないだろう。

 強いて言うなら、学費を払ってくれている親に感謝するくらいだろうか。SNSを開き、「ありがとう」と送ってみる。既読はつかない。

 そこまで考えてから、僕は軽く頭を横に振った。無性に腹が立っていた。なんでこんなことに頭を悩ませなくちゃいけないのだ。

 ふと前を見ると、3メートル程先から、男がひとり歩いてくる。

 同年代に見えるが、見知らぬ顔だった。他学部だろうか。ダボッとしたパーカーを1枚被り、ダメージ・ジーンズを履いている。どうやら、その先の曲がり角から出てきたらしい。

 僕は足を止めると、男と向き合った。

 目が合う。上手くすれ違えるよう見計らって、そいつに言ってやる。

「明日、あんた、虫になりますよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る