大晦日

「別に、年越しそばでいいじゃないですか。張り合わなくたって、うちは十分繁盛してますよ」


 もう何度目か分からない俺の言葉に、店長は無言で首を振った。

 うどん「木戸屋」。

 十二月三十一日、二三時三十二分。

 新たな年が来るまで、残り三十分を切った。

 絶え間なく湯気が上がる店内は暖かいが、外は雪がちらついている。


『時代はそばじゃねえ、年越しうどんだ』

 そんなことを宣った店長に巻き込まれ、帰省予定も彼女もいないバイト生による男気じゃんけんの結果がこれだ。

 賃金もそれなりで、嫌いなバイトと言うわけではないのだが、たまにくる店長の思い付きには頭を抱えざるを得ない。大体巻き込まれるの俺だし。

 今回も普段より高い時給を貰えるから何とか堪えているような状態だ。


 店内は思っていた以上に客がいる。蕎麦を茹でるのが面倒くさかったらしい大学生。独り身のOLのお姉さん。近所の除夜の鐘を突きに行くのだ、と家族そろって来店した親子もいた。


「いつもなら家でのんびり蕎麦でも食っている頃なのになあ……畜生」

 仕事帰りらしい中年男性のきつねうどんのお揚げを一枚多めに盛りながら、小さく悪態をつく。


 ある意味今年らしい終わりかもしれない。

 大学に入って三年目、独り暮らしもすっかり板についた。卒論のテーマも決まったし、教員免許ももう手の届く位置にある。全ては順調だ。

 その反面、終わりらしい終わりのない一年だったともいえる。コンビニのバイトを辞めたのは一昨年の話だし、彼女と別れたのは大学二年の夏のことだ。


 安定していると言えばそれまでだが、学内で「モラトリアム最後の一年」と呼ばれる年代にしては、何の変哲もない日常生活だった。

 満足していないわけではないが、どこか寂しい。


「……って、流石にセンチメンタルすぎるか」

 ぼやきつつ、きつねうどんをカウンターに運ぶ。「お待たせしましたー」と覇気のあるように聞こえる声を上げると、注文した主はゆるりと顔を上げた。

 この店の常連で、週に一度当店を訪れるサラリーマンだ。個人指導塾チェーンの塾長をしている、と聞いたことがある。


「ああ、すまないな」

 深く皴が刻まれた頬が持ち上がる。仕事の中で身に着けた、本能的な笑顔なのだろう。しかしそれは、普段よりいっそう老けて見えた。


 この男が完璧な営業スマイルを浮かべているところを想像してみる。

 ぴっしりとしたスーツには乱れているところなどなく、ネクタイはそのまま首でも吊れそうなほど詰められている。相手は中学生男子とその母親だ。

『息子さんの場合、一か月で十点点数が上がらなければ、五回分の授業を無償で提供いたします』

 男は人のよさそうな笑みを浮かべながら言うが、母親の顔はつれない。本当に男が信用に足る人物なのか、どこかに穴はないか、真剣に書類を睨みつけている。その横で男子はぼうっと壁に貼られた『合格体験記』の文字を眺めている。男の頬の筋肉は次第に引きつっていく。額には脂汗が浮かぶ――。


「大晦日までお仕事ですか」

 ゆっくりと箸を割る男を横目に、俺は声をかけた。

 疲れ切ったまぶたが、三枚になったお揚げをとらえる。数秒こちらに向きかけた視線は、すぐに目の前の丼にもどった。

「……人の事言えんだろう」

 ぼそりと呟き、うどんをすすりはじめる。

 満足した俺は、「そっすね」と笑ってその場を離れた。厨房に戻る。


 カップルの片割れが注文したらしい肉うどん大盛の具を用意しながらぼんやり物思いに耽った。

 カウンターのさらに向こう側、窓の外では、吹雪が強くなっていた。元旦は雪景色が見られるかもしれない。


 こういう時に限って思い出すのは、一年半前まで一緒に居た彼女の言葉だ。

『君は、どうにも【終わり】、と言うものが好きすぎるみたいだ』

 彼女はどうも説教じみた行為が好きだった。何かにつけて俺を糾弾し、正論を並べ立てた。ただ責める、或いは叱るのではなく、こちらを諭すような口調だった。その上で、俺が納得していないことを喜んでいた。そういう奴だった。

『いいかい、【終わり】は他者からもたらされるものであって、君自身が決めるものじゃあ、ない』


 微笑んだ彼女は、「君は私の言葉の意味をきちんと理解できないのだろう、分かっているよ」とでも言いたげだった。きっと、俺が彼女の心情に気がついていることすら、お見通しだったのだろう。

 それから俺らの関係は半年も続きやしなかった。宣言通り、別れを告げてきたのは彼女の方だった。




 肉うどん大盛をテーブル席に運んでから、俺は外に並んでいるのぼり旗の内、数本が倒れていることに気がついた。

 ちらりと店長の方をうかがったが、さっきのサラリーマンの会計をしている。何やら話し込んでいる様子だ。

 どうやら自分の仕事らしい。

 時計を見れば、針は二十三時五十分を指している。一息ついた俺は、手を洗ってから外に出た。



 のぼり旗は単純に風で倒れただけだった。

 幸いにも雪は若干弱くなっていた。

 とはいえ手袋もろくな上着もない作業はつらい。

 水に触っていたこともあり、手がどんどん赤くかじかんでいく。旗の鉄部分は氷に触れているかのようで、ちりちりと痛んだ。


「こんなことしながら、一年終わってくのかあ」

 ぼやいた声は、白い息となって曇天に消えていく。

 思考を口に出すと、妙に現実感が増す。終わる。終わる。今年が、もやもやしたまま終わっていく。


 否、これは本当に終わりと言えるんだろうか。十二月三十一日と一月一日の差なんて、たった一秒じゃないか。それはただ昔々の人間が定めたものでしかなくて、決して俺のものではないのだ。

 思い切り息を吸い込むと、むせる程冷たく乾いた空気が肺に押し寄せてきた。

 思わず蹲り、咳き込んでしまう。

「なに、やってんだろ、おれ」


 その時、頭の上に熱い何かが押し付けられた。


「……大丈夫か?」

 低く、鼓膜からその奥へと染みる声。

 見れば、例のサラリーマンがコーヒーとココアの缶を持って立っていた。傍の自販機で買った物だと分かる。

 どうやら、好きなほうを選べ、と言うことらしい。


「くれる、んですか。終わりを」

 思わず口走ってしまう。

 男は眉をひとつ顰めた後、「終わり?」と言った。

「あ、ああ、すみません、ちょっと考え事をしていたものでして」

 慌てて頭を下げる。

 確かに、あまりに変な発言だった。


 お言葉に甘えて、ココアの缶を受け取る。手のひらが、じんわりと温まっていく。ありがとうございます、と呟いた声は、酷く掠れていた。


 男は「ふむ」と呟いて、右手の指をあごに当てた。

 教育者の顔だ、とぼんやり思う。彼の頬の皴が、深く染まる。

「兄ちゃんにやれるのは、そいつくらいだよ。終わりなんて、簡単に人にやれるもんでもないさ」

 彼はそう言って、ゆっくりと笑った。

 初めて見る、営業スマイルではない笑顔だった。


 ココアの缶に雪がひとひら舞い降りる。

 すぐにじわりと溶けていったのを見て、俺は顔を上げた。

「だが、何かを区切るきっかけくらいにはなるんじゃないか。――一区切りつけな、兄ちゃん」

 ほら、年も明ける。

 男が言った瞬間、除夜の最後の鐘が響き渡った。

 新しい年の始まりだ。

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