八月、アスファルトにて
ぼくにはお姉ちゃんがいます。
血はつながっていませんが、ぼくが今よりずっとずっと小さかった頃から一緒にいる、大切なお姉ちゃんです。
彼女の特徴は、何といってもその美しい脚でしょう。
健康的に焼けた肌。華奢な足首。ふくらはぎの筋肉は彼女が歩くたびしなやかに動きますし、膝小僧はお姉ちゃんの全てを知り尽くしているような顔で関節としての役割を果たします。
ぼくが三歩進むと、彼女は高い真っ黒なヒールを一度
カツン、
と鳴らして進みます。
自信たっぷりに、何も怖がることなんて存在しないかのような優雅さをもったその音は、ぼくの鼓膜を震わせ、心臓の鼓動をどんどん激しくします。
そのカツン、が聞きたくて、ぼくは今日もお姉ちゃんと散歩に出かけるのでした。
みんなにはお姉ちゃんが見えません。お父さんとお母さんは最初、見えないお姉ちゃんのことを怖がっているようでしたが、お医者さまにぼくを見せたあとは何も言わなくなりました。安心しきっているようでした。
お医者さまはお姉ちゃんのことを「何とかフレンド」と呼びました。ぼくは、このお医者さまはあまり頭が良くないのだと思います。
「フレンドってね、ともだちって意味なんだよ。ぼくは何度もお姉ちゃんのことを説明したのに、お医者さまはニコニコ笑っているだけだった」
ぼくの言葉に、お姉ちゃんはカツン、とヒールを鳴らして笑いました。
散歩の時間は、ぼくらが二人きりになれる大切な時間です。
八月の初め、じんじんとお日さまが地球を睨みつけています。ぼくは一度立ち止まると、水筒のフタを開けて直接麦茶を飲みました。口の中に氷が入りこんで来て、頭がきぃんとしました。
汗をぬぐい、また三歩たったった、とリズムよく進みます。
お姉ちゃんも嬉しそうにカツン、と笑います。
ぼくは楽しくなってきて、たったたたたたたたた! と駆け出しました。
お姉ちゃんのカツカツン、という音を聞きながら、もっともっとその声が欲しくなります。
僕の三歩がお姉ちゃんの一歩なので、たくさんは聞くことができません。彼女が全力で走る音を耳にするのが、ぼくの密かな夢です。
公園は、原っぱの周りを木とアスファルトがぐるりと囲っている簡単なものです。蝉の声が今日は一段と大きく響いていました。
原っぱにはタイチがいました。
彼はサッカーが好きで、よくお兄さんとPKをしています。ぼくにタイチのお兄さんは見えませんが、がっしりとした手の素敵な人だと聞きました。
珍しいことに、今日はタイチの他にも子どもが六、七人遊んでいます。ゴール代わりの木と木の間、普段はお兄さんがいるらしい位置で、タイチは声をあげてはしゃいでいます。
不思議なことに、ぼくは彼らが何を叫んでいるのかちっとも聞き取れませんでした。
「タイチ、お兄さんはどうしたの?」
ぼくは彼に近寄って尋ねました。
タイチはぼくに気がつかず、子ども達の方を向いています。蝉は彼の笑顔を後押しするようにわめきたてました。
「タイチ、お兄さんはどうしたの?」
ぼくは声を張り上げて、もう一度尋ねました。やっとこちらに気がついたタイチは、ああ、とつまらなさそうに言いました。
「あいつと遊ぶのはもうやめたんだ。だって、全然ボールを取ってくれないのだもの。いつもおれが勝ってばかりだ、飽きたんだよ」
「でもタイチ、お兄さんはどうしたの?」
ぼくは蝉の声に負けないよう大声で言いました。タイチは「うるさいな」と言って、深いため息をつきます。
「知らないよ、おれはもうあいつと遊ばない。たったそれだけのことだ。それよりさ、お前も仲間に入れてやるよ。一人足りなくて、困ってたんだ」
それから彼は「仲間」らしい子どもたちの方を見て、おぅい、と呼びかけました。決してお兄さんではないだろう、ぼくやタイチと同じような年頃のの彼らの顔はひどくぼんやりとしていて、よくわかりませんでした。
カツン、
と音がして、ぼくは我に返りました。振りむくと、お姉ちゃんが寂しそうに立っています。
いけない、とぼくは思いました。
「ぼくはいいよ、タイチ。お姉ちゃんがいるから」
彼はむっとしてこちらを見ました。ひとつどこか大人びたような、ぼくに何かを諭すような顔で、タイチは口を開きます。
「なあ、そいつは何をやってくれるんだ? 一緒にサッカーをしてくれるのか? ゲームで対戦できるか? 一緒におやつを食べられるのか?」
ぼくはタイチを見て、彼がもう変ってしまったのだと気がつきました。
タイチには、もうお兄さんは必要ないのです。
彼に何も言い返さないまま、ぼくらは公園を出ました。
たったった、の音に、カツン、というお姉ちゃんの声が重なります。心配してくれているようでした。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ぼくはお姉ちゃんのことが大好きだもの。タイチみたいにはならないさ」
ぼくは彼女に笑いかけました。
お姉ちゃんに、ほほえむ唇はありません。頭も、胴体も、タイチのお兄さんにならあるのだろう腕も、彼女は持っていません。あるのは太ももから下、美しい脚と、その先を覆う真っ黒なピンヒールだけです。太ももの真ん中あたりから上は、霞がかったようにぼんやりとしています。
他の人とは、確かに違うかもしれません。ぼくにしか見えないのかも、しれません。でも目の前には確かにぼくのお姉ちゃんがいるのです。
カツン、
と、ヒールが鳴りました。
「……お姉ちゃん?」
ぼくは首を傾げました。今までずっと、お姉ちゃんはぼくが歩き出して初めてその音を聞かせてくれていたのです――突っ立ったままのぼくに、お姉ちゃんはもう一歩、
カツン、
とアスファルトに音を立てて右足を踏み出しました。
水筒の中の氷を全部噛み砕いてしまったかのように、脳のずっと奥の方がきぃん、と痛みます。不思議と怖さはありませんでした。
置いていかれてしまう、という気持ちも全く起きませんでした――お姉ちゃんが一歩進むのなら、ぼくは三歩走ればいいだけのことなのです。
カツンカツンカツン、
という音と共に、ぼくは全力で走り出しました。
カツン、カツンカツンカツンカツンカツンカツンカツン!
「お姉ちゃん、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
ぼくは走り続けました。アスファルトの上で、永遠に踊り続けることができるのだ、そう思いました。あれほどに夢見ていたお姉ちゃんのたくさんの声たちが、ぼくの周りで笑っています。
すらりとしたふくらはぎの筋肉を絶えず動かし、お姉ちゃんは笑い続けます。ぼくも笑いました。笑いながら息を切らし、心臓をばくばく鳴らしながら、彼女を追いかけます。
右腕が取れ、首がアスファルトを踏んだ勢いで転げ落ち、余りの重たさに胴体を投げ捨ててもなお、ぼくが止まることはありません。
彼女は、今も目の前であの声を高らかに響かせ続けているのです。
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