ドラマツルギー

 彼女の名前は花瓶と言った。少なくとも僕の前ではそう名乗っていた。

「川内花瓶。私の名前です。カ、ワ、ウ、チ、カ、ビ、ン。川の内に花の瓶と書いて、川内花瓶」

 花瓶はそう言って、地面に傘で文字すら書いて見せた。ただあまりに動作が早くて、彼女が正しく川内花瓶と書いたのかは分からなかった。

「珍しい名前だね」

 そう返してから、別に彼女が本名を名乗る必要はないのだ、と言うことに気が付く。夜の街で偶然出会っただけなのだから、どれが嘘だったって構わない。

 居酒屋やバーが立ち並ぶ、商店街とデパートが混ざり合った街。その中心にある大型書店で、文字通り僕らは出会った。ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』を二人とも探していたのだ。

 『モモ』ならともかく、(たとえそれがミヒャエルの代表作であれども)『鏡の中の鏡』なんて一冊並んでいたらラッキーだ。ただ僕はその夜どうしてもそれが読みたくて仕方がなかった。

 数年前までは持っていたのだが、ある時古本屋に売ってしまっていたのだ。一度読めば十分だと高をくくっていた自分が憎い。

 彼女は泥酔状態だった。訊けば数時間前までアルバイト先の仲間と飲み会をしていたらしい。そんな状態で本を読めるのか疑問だったが、彼女は頑として譲らなかった。

「私だって読みたいんですう、むしろ今の状態だからこそいいんです」

 変な女だった。一見女子中学生をアイシャドウだのヘアカラーだの、そう言ったもので無理矢理大人に仕立て上げたような、そんな人だった。

 百五十センチもない背丈に、茶髪のボブと深い紅色の唇がくっついている。化粧は若干崩れているもののある程度の濃さを保っている。

 くたびれたワイシャツに芥子色のスカート、グレーのカーディガン。長袖から除く小さな爪に、マニキュアは塗られていない。

 ただしそれが「外側」であることを、僕は直感的に見抜いていた。

 「まるで女子中学生を無理矢理大人に仕立て上げたような人」という殻を、彼女は被っていた。

 別に僕は観察眼が鋭い人間ではない。昔いたガールフレンドの髪型が変わったことにも気が付かず、酷く怒られた覚えがある。

 しかし、彼女だけは、初対面であるはずの花瓶だけは違った。本を棚から引き抜いている彼女と目が合った瞬間に、僕は確信したのだった。

 簡単に言えば「私」という一人称を使う彼女の下に「花瓶」という名の薄皮が一枚あって、さらにその下に……と言う風に何重にも彼女が、あるいは彼女のアイデンティティがあるような状態だった。

 多重人格と言うわけでもない。その全てが彼女であり、今はそれに対して仮に「花瓶」という名前がついているのだった。

 そして自身が暴かれたことを、花瓶も十分に理解していた。

「こうしましょう」

 花瓶は言った。

 大学生女子が喜びそうな、丸い声だった。

「本を二人で買うのです。そうです割り勘です。流石に本まで真っ二つに切り裂くわけにもいかないので、物体は貴方に差し上げましょう。ですから、私には言葉をください。ね、公平でしょう?」

「公平でしょうって言ったって」と僕は頬を掻いた。花瓶が何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。彼女のほんとうは分かった癖に、その言葉を僕は理解できなかった。

「一体どうやったら君に言葉をあげられるのさ。それに、本は頁に文字が乗っかってるからこそ本と呼べるんだ。僕は真っ白な紙束なんてほしくないんだけれど」

 僕の言葉に、花瓶は一瞬ぽかんとした顔をした。それから赤く染まった頬をゆらゆら揺らしながら、「貴方はなかなかにロマンチストのようだ」と言った。チェシャ猫のような意地の悪い笑顔を浮かべる。

「別にファンタジーなことを望んでるわけじゃありませんよう。私はただ、本を朗読してほしいだけです」


「全部ってわけじゃないんです。どうしても今夜読みたい、言葉として受け取りたい一節があって、そこの場面を読んでほしいんです」

 赤面した僕に対してひとしきり笑った花瓶はそう言った。既に会計を終え、『鏡の中の鏡』はカバーもつけられずビニール袋の中に納まっていた。

 「確かに十四時間営業のカフェがこの辺にありましたよね」と彼女はふらつきながら僕の前を歩いた。

 その身体は誰が見ても危うくて、目を離した瞬間に居なくなってしまいそうな気がした。しかしそれも多層の一部に過ぎないことを僕は知っていた。現に僕が瞬きをするたびに、花瓶は有名なロックバンドのボーカルや昔のガールフレンド、小説の主人公、あるいは全く知らない女性へと姿を変えた。

 「なあ」と僕は試しに訊いてみた。

「君の花瓶っていう名前は一体どこから付けたんだい」

 彼女はあっさりと答えた。

「んー、詳しいところ分かりませんけど、大方出掛ける前玄関先に花瓶が置いてあったとか、そういう感じじゃありませんかあ? 若しくは、ロマンチックに言うなら花瓶のように脆い、とか。仮についた名前なんて、みんなそんなもんですが」

 そこから一ターン、綺麗にくるりと回って見せる。芥子色のスカートが軽く広がった。僕にはそんな芸当出来っこなかったが、恐らくTVで見たんだろう。

「それにしたって」

 僕は話題を変えるように口を開いた。どちらにせよ、生産的なものではなかった。

「この本において『一節だけを朗読する』のは間違った読み方だと思うよ、花瓶」

 『鏡の中の鏡』は変わった構造を持つ短編集だ。物語の最後のシーン、あるいは言葉が虚像のようにゆがめられ、次の物語の書き出しに現れる。短編ひとつひとつも超現実的で、どこまで降りても続く階段のような錯覚を覚えるのだ。

「本来ならばそうでしょうけれど、今はその一面だけを覗くべきでしょう?」

 花瓶は真面目な顔をして言った。

「それよりも急がないと。あまり朝まで時間がありませんから」

 見れば確かに、花瓶の背はいくらか伸びていた。声こそ変わっちゃいなかったが、顔の輪郭が少しずつ大人びてきていた。つまりは目の前にいる僕そのものだった。

 僕はなるべく彼女の正体を考えないように努めた。花瓶に名前を与え、別人として認識しているからこそ彼女は存在しているのだった。否いけない、この思考はいけない、認識するだけでもいけないのだ、せっかく嘘偽りのない違うそうでなくたってやっと層の深い部分にいる私に、いやぼくに? 出会えたかも、しれないのに、


「――あ」


 カフェは目前だった。

 そして自分は一人ぽつんと早朝の街に立っていた。



 いつ、どうやって家に帰り着いたかなんて覚えちゃいなかった。

 気が付けば部屋の壁にもたれ、ぼうっと虚空を眺めていた。

 お酒の飲み過ぎで痛む頭を片手で押さえながら本を開く。結局どれを読めばいいのか分からず、おもむろに一ページ目の最初の一音から発してみる。

 周りには芥子色のスカートやロックバンドのCD,小銭まできっちり払われた本屋のレシートが転がっている。

 僕は一段ずつ、階段を下りていく。

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