第3話

「ああ、良い気持ちねぇ……」


 草原を馬車が一台駆ける。屋根がない荷台に座り、風を受ける美女が一人、長い黒髪をなびかせ、地平線を窺う。


「そうそう、こんな感じだったわねえ。外の世界って。城の周りは岩肌が出た山ばっかりで味気なかったわぁ」


 元魔王リリスは強引に魔王城から脱出し、隠居生活に入っていた。もっとも、若く見られたいリリスは隠居という言葉は使わず、セカンドライフと称しているのだが……。久しぶりに見た青空と緑の草花はリリスの心を洗うには十分な美しさだった。


「お穣さん、とりあえず乗せてくれと言われ、乗せましたが……、女性が一人で旅行するなんて珍しい。目的地はどこです?」


 馬車の御者をしている中年の男がリリスに話しかける。その顔面は赤く染まっている。原因はもちろん、リリスの人並外れた美貌だ。


「あてなんてないわ! とりあえずはこの世界を楽しみたいの! それに御者さん、私はお穣さんなんて言われる年齢じゃないわよ!」


 リリスはにっこりとほほ笑む。白いワンピースから出ている真白な四肢と、角を隠すための麦わら帽子から見える笑顔は清楚そのもの。虜にならない男などいないだろう。当然のように御者の中年も年齢に似合わないドギマギを見せてしまう。


「い、いや、凄く若く見えたもんでつい……。失礼ですが、おいくつなんです?」

「えーとねぇ……」


 リリスは少し考え込む。本当の年齢を言っては、魔族であることがばれてしまう。『そう言えば、人間の寿命は私達の十分の一くらいだったわね』とリリスは思考を巡らせる。単純に年齢を十分の一にするのならば、三十四歳だ。だが、どうせ年齢詐称なのだ。リリスは『鯖読んじゃえ!』と思い、答える。


「三十二歳よ!」

「三十二歳!?」


 激しく驚く男を見て、リリスも驚く。リリスは鯖を読み過ぎたかもしれない、と思った。だが、実際はそうではない。


「いや、すいません。失礼しました。二十歳いくか、いかないか、にしか見えなかったもんで。まさか三十二歳とは……」

「あ、あはは。よく若く見られるんですぅ」


 リリスは笑ってごまかすと、目線を青空に戻す。魔王城から見る曇天とは比べ物にならないくらい綺麗だった。その青色を見るだけで、リリスは解放感に満たされた。


「これから、目一杯、自由を楽しむわよー!」


 リリスは大空に向かって声を張り上げるのであった。

 馬車に乗って、三時間程経ったであろうか。リリスは小さな農村に辿り着いた。


「ここでいいわ! 御者さん!」

「こんなところでいいんですかい? お穣さん……」

「ええ! 私、こういうのどかな農村に憧れていたのよ!」

「この辺は魔族も少ないからまだましですが、ただでさえ、女性の一人旅はないんです。気を付けてくださいね」


 御者の男は名残惜しそうに、リリスに声をかける。


「心配してくれてありがとうね! おじさん!」


 リリスは太陽の頬笑みで御者の男に礼をする。男はその笑顔のまばゆさに目をくらませる。「もし、あと十歳若くて、妻子がいなかったら、迷わず口説くってのに……」と思いながら、御者の男はリリスのもとを去って行った。

 リリスは農村をぶらりと歩く。そもそも人間の村にゆっくりと立ち寄ったことの無いリリスにとって、全てが新鮮だった。粉ひきのための風車や水車、柵の中で飼われている牛や羊、建物の構造……。生まれて此の方、戦闘と魔王以外の仕事をしたことがないリリスは、そういったものを間近で見ることがなかったのだ。

 一通り、村にあるものを見学した後、リリスは小高い丘に登った。丘の地面は背丈の低い草で覆われており、程良いクッション性がある。リリスは勢いよく地面に寝ころび、仰向けになった。


「ああ! たのしー! やっぱり自由っていいわぁ……」


 リリスは青空に浮かぶ真っ白な雲を見て呟く。「……臣下たち、やっぱり怒ってるかしら。アーくんも怒ってるかしら。……って違う違う! 国のことは忘れるの! 折角、フリーになったんだから、全て忘れて楽しむのよ、リリス!」と、リリスは心の中で自分に言い聞かせる。


「ん?」


 リリスは何かに気付いた。わずかだが、大気が揺れている。耳を澄ますと、爆発音のようなものが聞こえてくる。どうやら、リリスがいる丘から少し離れた森の中で何かが行われているようだ。


「なにかしら?」


 リリスは呟くと起き上がり、音のする方へと向かう。焦げ臭いにおいがリリスの鼻孔を刺激する。森の中に開けた空間があるのをリリスは見つけ、そこに向かって歩みを進める。


「リリース・ファイア!」

「え?」


 開けた空間にリリスが顔を覗きこんだ、その瞬間、突然炎が現れ、眼前にまで迫る……!


「うえええ!? 『プロテクション・ウォーター』!」


 リリスは咄嗟に水の盾で身を守る……! もっとも生身で受けてもリリスに大したダメージはないだろう。服を守るためにリリスは魔法を使ったのだ。


「ちょ、ちょっと! いきなり何するの!? 『魔法を人に向かって撃ってはいけません』って習わなかったの!?」

「ご、ごめんなさい!」


 炎を放ったであろう小柄な赤髪の少女がリリスのもとに走って駆けより、頭を下げる。


「だ、大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」


 少女はリリスの身を案じる。当然ではあるが、魔王リリスには怪我どころかかすり傷ひとつなかった。人間ならば無事では済まない威力の火炎もリリスにすればろうそくの火程度のものである。


「だ、大丈夫よ。今くらいの威力なら全く問題ないわ!」

「す、すごい! お姉さん強いんですね……!」

「ええ! 自分で言うのも何だけど最強よ!」

「最強……」


 少女は真剣な目付きでリリスを見つめる。


「わ、私、最強を目指しているんです! 最強の魔法使いを……!」

「最強の魔法使い?」

「はい!」


 少女は純粋な目をして、元気よく返事をする。燃えるような紅い目をしていてとても綺麗だ、とリリスは思う。と同時に、彼女の愛らしい姿と物腰からは、とても最強の魔法使いを目指しているような気性は感じられない。


「なんで、また、あなたのようなかわいい娘さんが最強なんかを目指すの?」

「か、かわいくなんてありませんよ!? ……最強を目指す理由……ですか……」


 少女は理由を口にするのをためらっている。


「ま、話したくないなら、別に構わないわよ?」


 リリスはその場を後にしようとする……。しかし、少女が呼びとめる。


「ま、待って下さい! 私と魔法の特訓をしてくれませんか?」

「え?」とリリスは振り返る。

「先ほどの素早い『プロテクション・ウォーター』……。この村であんなに魔法を使いこなせる人はいません! 私に魔法を教えてください。お願いします! 師匠!」

「ええ!?」

 突然に師匠呼ばわりされ、動揺するリリス。

「ちょっとやめてよ! 師匠なんて……ジジクサイじゃない!」

「ジジクサイ?」

「そ、そうよ。イ、インストラクターって言い直してちょうだい! って、そうじゃないわ! そもそもインストラクターなんてやらないから! 私はセカンドライフを楽しむんだから!」

「そ、そんなこと言わずに私に魔法を教えてくださいぃいいいい!」

 赤髪の少女はリリスのワンピースのスカートにしがみつく。

「あ、あなた。大人しそうな見た目なのにえらくしつこいのね。は、放しなさい!」

「嫌ですぅうう。やっとこの村で私より魔法が上手い人を見つけたんです! は、放せません!」


 リリスは無理に少女を引き剥がそうとしたが、服が破れると思い、断念した。しかし、このまましがみ付かれたままなのも面倒だ。どうすれば良いか……、とリリスは悩んだが、程無く一つの方法を思いつく。


「わ、わかったわ! インストラクターをしてあげる!」

「ホントですか!?」


 少女はリリスのスカートを放す。急にスカートを放されたリリスはバランスを崩して倒れてしまう。


「ちょ、ちょっと、危ないじゃない! 急に放すんじゃないわよ!」

「ご、ごめんなさい。で、でも魔法を教えてくれるんですよね?」

「ええ。ただし、条件があるわ!」

「条件?」

「ええ。私と勝負しなさい。あなたが戦闘不能になる前に、私に一撃でもダメージを与えられたら、魔法を教えてあげるわ!」

「わ、わかりました!」


 リリスは『これでもう大丈夫。この娘が私に一撃を与えるなんてことは不可能。解放は約束されたわ』と心の中で呟く。


「それで、私が負けた時はなにをしたらいいんです?」

「え?」


 確かに、勝った時に何かしてもらわなければ不公平だ。しかし、何を頼めばいいだろう、とリリスはしばし考え込む。長考の末、リリスは一つの答えに辿り着く。


「イ……」

「イ?」、赤髪の少女は聞き直す。

「イ、イケメンを私に紹介しなさい! この村一番のイケメンを……!」


 リリスは顔を真っ赤にして勝った時の条件を提示する。


「し、師匠……。そんなので良いんですか?」


 少女は憐れむような顔でリリスを見る。


「な、なによその目は!? 仕方ないでしょ! これまで良い出会いがなかったんだから! あと師匠はやめなさい!」

「それじゃ、早速勝負を始めましょう! 負けませんよ!」

 少女は杖を構え、リリスと対峙する……。

「そう言えば……、まだ名前を聞いてなかったわね。娘さん、あなた、お名前は?」

「私の名前はアルカです! アルカ・ミストです! 師匠は?」

「だから、師匠っていうなぁ! ジジクサイでしょ! 私の名前は……」


 そこまで声に出して、リリスは口籠る。素直にリリスなんて言ったら、魔王だとバレてしまう……、かもしれない。


「……リリー、私の名前はリリーよ!」

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