前奏曲 Morning Dew

 西暦1533年、スレイマン一世率いるオスマン帝国軍は対立するサファヴィー朝へと侵攻、中東の覇権を争った。

 主戦場となったイラク一帯、さらにその首都バグダードを襲った破壊と殺戮は凄惨を極めた。老若を問わず、男女を問わず、ただ敵地にいた・・・・・・・というだけで誰もかれもが殺された。人間としての、ましてや一個の生命としての尊厳も未来もない、ありふれた地獄だった。


 しかして、地獄は一年を待たずして、終息することとなった。

 オスマン帝国の大敗北と、終焉を以てして。





 女性と思しき人影が一人、朝霧が立ち込めるロンドンの街を歩いていた。霧は朝日の光と熱を浴びて雫となり、周囲に生える草花を艶やかに濡らしている。テムズ川に近いこともあって少し肌寒いだろうに、件の人影はそんなの知るかとばかりに軽装だ。薄手のロングドレスに旅用のブーツと、英国紳士淑女が見れば卒倒するようなアンバランスないで立ちをしたその人影が、霧の隙間から差し込む陽光へと姿を晒す。少女と見紛うほど幼さを残す顔、差し込む光を受けてきらめく瞳は、セイロンのストレートのような紅茶色ティーカラー。肩で長さを揃えた髪も、それと同じ色彩を放っている。未だ色濃い朝霧の中を軽快に散歩するその様は、まるで伝承に出てくる小人妖精ピクシーのようだと誰もが言うだろう。そんな可愛らしさと、ある種の幻想的な雰囲気を、彼女は放っていた。

 「んー、楽しみだったんだよねぇ! こんなふうに朝の静かなテムズを散歩するの!」

 心底楽しそうに人影は、フローレンス・ガートルードは夢見たひと時を堪能する。故郷にいた頃から、常々家を訪ねてくる貴族や商人から、ロンドンのあれやこれやを聞かされてきたのだ。ずっと遠い都会の話だと、地方富農の家の自分には一生縁のない世界の景色なんだと憧れつつもどこか一歩引いた気持ちでいた。紆余曲折はあったけれど、こうして己が足は今、世界の中心……の次ぐらいだが、とにもかくにも憧れの都を歩いている。

 霧が徐々に晴れてゆき、ロンドンの街も目覚め始める。と同時に、隠されていたテムズ川の水面もまたその顔を覗かせた。

 「うぐ……話には聞いていたけど、直接見て匂ったら分かるわ。 だいぶ汚いわよね」

 ここ半世紀ほどの産業の発達や植民地の獲得などを経て、大英帝国は世界一の海洋国家へと成長した。不滅の繁栄エターナル・プロスペリティの栄光は、遍く大地と海を照らすと、帝国民の大半は信じている。しかし、その眩い光がもたらす影もまた、底なしの暗闇であった。

 テムズ川、古来よりブリテン島南部の交通や交易の要とされてきたロンドンのグレートリバーであるが、急速な工業化や人口集中により、その汚染は深刻の一途を辿っていた。

 「これじゃ、耐え難き悪臭グレート・スティンクって呼ばれるのも仕方ないか……こんなんじゃ川辺で演奏するのもキツそうだし……」

 この街に住む人々は、みなこれを受け入れているのだろうか。ロンドンには他にも、スラムの増加や子どもを違法に働かせるなど、急激な繁栄が招いた闇があちらこちらに広がっていた。たった一晩過ごしただけで、フローレンスは少し不安な気持ちに襲われる。これもある種のホームシックなのだろうか。自然が美しく、空気も澄んだ故郷ウェールズに対する……

 「やめやめ! 新生活初日の朝からこんな調子でどうするのよフローわたし! こんなんじゃわたしフローに顔向けできないわよ!」

 彼女は誓ったのだ。たとえ道は交わらずとも、必ず夢を叶えて、それぞれのゴールでお互いを称え合うと。あの日、もう一人の、自分と。

 踵を返し、フローレンスは新居へと足を向けた。

 「それじゃあまず、朝ご飯といきましょうか」




 「――さて、では弁明を聞こうか。 ミス・ガートルード」

 時刻は午前9時12分、大英帝国王立遣奏団から伝えられていた集合時刻は午前8時。完璧なまでの遅刻をしでかしたフローレンスを、副団長ウィリアム・バートウィスルは鋭い眼光で睨みつけた。演奏楽器はフルートにも関わらず、謎に鍛え上げられた屈強な肉体と、鷹を思わせる切れ長の目が、相対する者をことごとく震え上がらせる。

 「いえ、それが……バートウィスル副団長、この度の失態は、ここへ来る道中に面倒ごとに巻き込まれてしまいまして!」

 「……ほう、一時間も遅れるほどの大ごとだったと?」

 「はい。 それはそれは大惨事でありました……」

 嘘はついていない。現に今朝、散歩から帰っていざ出勤しようと家を出たわずか数分後、大事な大事なバイオリンを置き引きにかっさらわれかけてしまったのだから。

 実際のところ、朝の露店で見かけたクランベリーパイにうつつを抜かしていたから盗られかけたとは死んでも言わないが。

 「――というわけでして。 我々にとって、楽器と自らの音感は命よりも大事なモノですし、取り戻すためには致し方な」

 「愚か者がぁ!! 命よりも大事なモノであればむざむざ盗人に奪われないように常に注意するのが大前提であろうがッ!!」

 個人の部屋にしては少し広い副団長執務室に、落雷のような轟音が鳴り響いた。



 

 「あらら~。 それはそれは災難だったねぇ。 元気出しなよ、ほら」

 「うぅ……ありがとうございますアリッサさん。 でも、悪いのは管理がずさんだった私ですし……反省してます」

 遣奏団の初仕事が、サタンをも黙らせる(という触れ込みの)副団長からのお叱りを頂くという最悪なスタートを切ったフローレンスは、現在練習ホールと諸施設の見学を終え、中庭で小休憩を取っていた。案内役兼弦楽器直属のパートの先輩であるアリッサが隣で励ましてくる。

 アリッサ・ジェメル、担当楽器はチェロで、器量もスタイルも抜群な完璧な弦楽器パートの先輩である。フローレンスのこともすぐにフローと愛称で呼び、この数時間何かと気にかけてくれていた。

 「よしよーし、できたばっかりの可愛い後輩を泣かすなんて、ひどい副団長さんだこと。 今度私も言っておくからさ、フローもアレを嫌わないであげてね。 あんなでも頼りになるんだよ?」

 そう言いながら、アリッサが頭を撫でてくる。フローレンスは昔から、大人たちや大きくなった友達によく頭を撫でられていた。曰く、子犬みたいだからついとのこと。大人になってからもこれが続くので流石に不服だったのだが。

 アリッサさんのは……全然嫌な感じじゃない。 むしろ……気持ちいいかも。

 頭から伝わる温もりと心地よさに思わずトリップしそうになる。こんな言い方は変かもしれないが、彼女は撫で慣れているのかもしれない。


 「ねえ、聞いてもいい? フローはどうして、ここに入ろうと思ったの?」

 夢見心地だったフローレンスを、その一言が引き戻した。

 王立遣奏団は国内のみならず、世界各国と比べてもトップクラスの演奏者を招き入れるか、あるいは養成することでそのレベルを保持している。そのために団員に求められる努力は並大抵のものではない。三日と持たず逃げだす者、熾烈な競争やスランプに日々苛まれ、精神を病んだ者も多いと聞く。ここで食べていくには、相当の覚悟ないし理由が必要だった。アリッサが尋ねてくるのも当然と言えるだろう。

 「そういうアリッサさんは、どうなんですか?」

 そう返すと、アリッサは一瞬キョトンとしながらもすぐに破顔して、

 「私の理由なんて平凡もいいところだよ? ほらあれね、所謂家庭を支えるためってやつね」

 努めて明るくアリッサは教えてくれたが、フローレンスは気付いてしまった。一瞬、ほんの一瞬だが彼女が家庭と口にした際、悲しげに目を細めたのを。

 「そうなんですね。 ……やっぱりアリッサさんは凄いですよ!」

 「ほーら、私はいいから、フローの理由を教えてよ」

 「私は……」

 

 「私は、アリッサさんのように家族のためなんて立派な理由ではないんです。 馬鹿にしてるのか!って思われるかもしれません。 でも、それでも……」

 私は、私が好きな音楽で、色んな人を幸せにしたいから。

 「大好きなアイリッシュを、世界中に広めたいんです」




 「――そういやフロー、この後午後から独奏披露と遣奏先の決定でしょ? 練習とかしなくていいの?」

  独奏披露とは、入団初日に新団員がソロ演奏を団長と副団長の前で行う、いわば洗礼の儀のようなものだ。課題曲などは設けられておらず、曲数もジャンルも完全な自由。つまりそこで新団員は、己の持つ技術や音楽への造詣、そして熱意を試される。これを受けて団長と副団長は、派遣先やより適性のある楽器への転向などを決定する。あるいは、入団したはいいがそこで結果を見せられず、資格なしとされて放りだされることもあるようだが。

 「独奏披露ですかぁ……実は、一番自信のある持ち曲がありまして」

 「へー持ち曲ねぇ。 やっぱりアイリッシュ?」

 「ですです!」

 「うーん……フローの気持ちが真剣なのはよく分かったけど、ここは無難にクラシックとかの方が……折角ヴァイオリンなんだし」

 アリッサの意見はもっともだ。フローもクラシックが嫌いなわけでも、弾けないわけでもない。知名度の高い、一定の社会的評価を受けた名曲を選ぶのは鉄板だろう。

 だがフローレンスにも、譲れない情熱があるのだ。

 「ふっふっふ……ではリハーサルも兼ねて、どうか一度お聴きください! とても簡単なので、ノれそうだったらアリッサさんもぜひ!」

 愛用のヴァイオリンを取り出す。手に馴染んだ弓の感触、弦の硬さ。これだ、こうして楽器を持てばいつも、世界と繋がったように心が弾んだ。

 「では、曲目は――」




 「私達大英帝国王立遣奏団は、外交使節の一員として国内外を問わず各地へと赴いて演奏を行います。 それ即ちこの英国の音楽、いいえ文化を代表することと同義。 失敗しないなどは当たり前、底の知れる演奏しか見せられないような者も必要ありません。 それらを充分に理解した上で、どうぞ貴女の持つ最高の音楽を見せてください」

 午後の独奏披露開始とともに、遣奏団団長ブリトマート・ローレライは冷淡な声で告げる。傍らには、まるで女王に仕える騎士のように副団長ウィリアムが座っており、二人から発せられているプレッシャーは計り知れない。

 ブリトマートって、本当にそんな名前の人いたんですね。実際に舞台なんかをやるとしたら、こんな人なんだろうな……

 部屋全体にのしかかる重圧の中、おおよそ見当違いなことをフローレンスは考えていた。ブリトマート、かのエドマンド・スペンサーの未完の大作『妖精の女王』に登場する男装の麗騎士。目の前の団長は、美しさの中に強さを持ったそんな英雄を確かに思わせた。

 「ではミス・ガートルード、曲目を挙げた後、そのまま演奏に入る様に」

 午前中の雷が嘘のように、粛々とした声で副団長がそう促す。余計な前置きは不要、己のことは演奏で語れ、ということらしい。

 無論、最初からそのつもりだった。彼女が披露するのは、高名な作曲家から生まれた名曲ではない。鼻歌で覚えてノリと感覚でセッションする、楽しい楽しいダンスチューン。先ほどのリハーサルでは、アリッサから一周回ってなんか大丈夫だと思う、とのコメントを頂いた。それでも微妙な顔をしていたが、結局なんと言われようと自分史上一番の曲というなら、アイリッシュをおいて他にはないのだから。


 「大英帝国王立遣奏団フローレンス・ガートルード、曲目はMorning DewとMacArthurs Roadを繋げたReel Setです」

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