Artifact:04 時騙しの法(中編)
アヒルチャンに忘れられている。その事実にファイは愕然とした。一瞬で視界が暗転し、永遠に消滅したような感覚すら覚えた。だがその感覚は、突如として口の中に侵入してきた異物感で掻き消された。
「もごっ!?」
我知らず僅かに開いていたファイの口に、アヒルチャンの手袋に包まれた人差し指が突っ込まれていた。アヒルチャンは僅かに口角を上げながら、ファイの口内を掻き回している。状況の意味がわからず、ファイはとりあえず両腕を振り回して混乱を示した。
「
「面白い顔をしていますね。遊び甲斐があります」
そう言いながら目を細めて笑うと、アヒルチャンはファイの口から指を引き抜いた。ファイは口内の蹂躙から解放され、息を落ち着ける。そして何やら興味深げに濡れた指先を見つめているアヒルチャンに問いかけた。
「ねえ、今の、何がしたかったの……?」
「口が開いていたので、指を入れてみました」
「……それだけ?」
「それだけです」
「そっかー……」
ファイは微妙に成り立たない会話に頭を抱えると同時に、アヒルチャンと出会った頃のことを思い返していた。アヒルチャンはいつもマイペースで、話しかけても何も考えていないようなぼんやりした言葉を返してくることが多かった。
ファイは目の前の、自分とほぼ同じ背丈の黄色い存在を見つめる。窓からの月明かり以外に光の無いこの部屋において、眩しいほどに鮮明な黄色の肌。ファイの口を弄りながらこちらを見つめていた、吸いこまれそうになるほど濃淡の無い黒い目。そして自由奔放な振る舞い。彼女を構成する要素はどれも、ファイの知っているアヒルチャンと相違ない。
「……うん、やっぱり」
ファイは自分にだけ聞こえる程の声で呟く。このとき、ファイは一つの確信を得ていた。それはアヒルチャンと出会った日、帰り道の分からない森で見せた根拠のない自信と同種のものだ。根拠のない確信。それは希望といってもいい。分からないなら、分かるまで自分を信じて進むしかない。ずっとそう決めてきた。
つい先ほどまで感じていた絶望が払拭されたわけではなかった。だがファイは真剣な面持ちで、目の前の小さなアヒルチャンに改めて向き直った。言わねばならないことがあった。
「ちびアヒルチャン……はじめまして」
「はい?」
小さなアヒルチャンはテーブルの上に置いてあった、すっかり冷めたファイのコーヒーを勝手に飲んでいた。カップに口をつけたまま、視線だけをファイに向けている。
「私はファイ。この館の家主。一応だけど」
「ファイ」
小さなアヒルチャンは繰り返した。ファイはまたアヒルチャンと出会った日のことを思い出し、小さく笑みが溢れた。そして、本当に伝えるべき言葉を続けた。
「ここがどこだかは私にもわからないけど、色んなものがあって退屈はしないと思う。外に出たいなら《裏門》もあるし……。だから、ちびアヒルチャン、もしよかったら……ここで、一緒に暮らさない?」
それを聞いていたちびアヒルチャンはコーヒーカップを持ったまま固まると、こくりと一度だけ頷いた。
「……よかった!よろしくね、ちびアヒルチャン!」
望んでいた答えを得たファイは精一杯の笑みでちびアヒルチャンに駆け寄り、握手を求めようと手を差し出し、
「隙ありです」
「もごっ」
そして再び無防備に開いた口に人差し指を突っ込まれていた。
「じゃあ気を取り直して……ちびアヒルチャンに、おうちの中を紹介します!」
ファイは胸を張りながら、ちびアヒルチャンを先導して廊下を歩く。家主を自称したためか、新しい家族に威厳を示そうと張り切っているようだった。
「紹介……?私、この辺に出たのでちょっとは知ってますよ」
「出た……?あー」
転移ゲートのことだとファイは思い当たる。《裏門》を介した転移による出現座標は、バラツキが大きい。《裏門》が起動した日のように森の中に出ることもあれば、館のすぐ近くや館の廊下などに出ることもあった。手を繋いだり、互いに体の一部に触れたままゲートを潜った場合は二人共同じ場所に出現できるが、うっかり手を離してしまうと両者まったく別々の場所に飛ばされてしまうということも、数日前に偶発的に証明された。そしてどうやら、ちびアヒルチャンは誤差の小さいパターンを引いたらしい。
「いいのいいの。私が案内したいだけだし、それにアレももう一回持ってこないと」
「……アレ?」
「ひみつー。後のお楽しみだよ」
ファイはくるくると回りながら戯けた。だがちびアヒルチャンは特に反応を返さず、ファイの横をすり抜けて先に先にと歩いていく。
「あっちが面白そうですね」
「え、待って、ちびアヒルチャン、待って」
置いていかれたファイは反応を貰えなかったことに少し不満を感じながら、小走りでちびアヒルチャンを追いかけていった。
「この先は何があるんですか」
「あー」
ちびアヒルチャンの向かった先は、エントランス正面にある二階への大階段、その中ほどに大口を開けている、足場が崩れて生じた大穴だった。あらゆる瑕疵損傷が修復されつつあるこの館の中でも、何故かこの穴の修復スピードだけは一際遅い。
「二階はまだ行ったことないんだ。この穴が直ったら探検しようって、……アヒルチャンと約束したから」
ファイはしゃがみこみ、穴を覗きこみながら言った。
「……そうですか」
一方のちびアヒルチャンは何か感じるものがあるのか、穴の先……二階の方に目を凝らしていた。そして視線はそのままに足だけを僅かずつ動かし、音も無くじりじりとファイの方に近づいていく。……間合いに入った。
「隙ありです」
「えっ」
突然、ファイの背中が重みを感じると同時に前傾し、足が階段から離れた。不意にちびアヒルチャンがファイの背中に飛びついてきたために、穴の淵にいたファイのバランスが崩れ、宙に投げ出されたのだ。地下室に落ちた時と同じ、重力の感覚。いや、あの時よりもちびアヒルチャンがしがみついている分重いのか。
「ひゃぁぁぁー!?」
距離にして二、三メートル。ファイは悲鳴をあげながら落下し、あわや顔面から瓦礫に突っ込むかと思われた。瞬間、激突のギリギリ手前のところでファイの運動がピタリと静止した。
「……あれ?」
「悲鳴は良かったのですが、顔が見えないのはイマイチかもしれません」
ファイの背中を掴んでいたちびアヒルチャンが手を離すと、ファイは残り数ミリの落下を再開した。どうやらちびアヒルチャンがファイの落下を止めてくれていたらしい。
「何……?今の何だったの……?」
顔や服の汚れを払いながら立ち上がったファイは、目を細めて笑っているちびアヒルチャンを見て察する。
「ちびアヒルチャン……びっくりしたじゃない」
「びっくりさせるつもりでしたからね」
「そっかー……」
「あっちに行きましょう」
ファイの無事を確認すると、すぐさまちびアヒルチャンは瓦礫を乗り越えてまたどこかへ歩いていった。
「自由だなあー……ちびアヒルチャン……」
ファイもそれを追いかける。なんだかいつもと逆だ。ファイにはその新鮮さが妙に心地よかった。
「次は例のアレというのが見たいです」
「ふふふ、待ってました」
ファイはちびアヒルチャンを物置部屋に案内する。屋敷の一室に簡素な棚を並べ、書斎や展示部屋に置ききれなかった書物や骨董品が保管・収納されている場所だ。ファイがこの場所の探索をするだけでも優に数週間はかかろうというほどの、膨大なコレクションが所狭しと並んでいる。
「確かここに……」
ファイは部屋に入ると、自分の身長で届く高さに置かれている、一つの段ボール箱の中を漁りはじめた。この段ボール箱の中には主に書物が詰め込まれている。ファイはその中の数冊を取り出して箱の底の方まで確認するが、目当てのものは見つからなかったようだった。
「あれー?ここに戻ってると思ったんだけどなー」
「戻る?」
困惑した表情のファイにちびアヒルチャンが尋ねる。
「うん、書斎のテーブルに置いておいたんだけど、寝てる間になくなっちゃって」
「それ、もしかしてこれですか」
ちびアヒルチャンは自らの服の中を探るような仕草をしたかと思うと、どこからか一冊の本を取り出した。表紙には『KHRONOMOS』。ファイが寝る前に読んでいた本だった。それを見てファイは思わず叫ぶ。
「それ!……え、どうして?」
「見たところ、時間に関する秘術を扱った本ですね。面白そうだったので、ちょっと借りてました」
「面白いって……もしかして、ちびアヒルチャン、これ読めるの!?」
驚愕するファイの前で、ちびアヒルチャンは無作為にいくつかページをめくり、目を走らせる。
「こういう魔道書の類に言語は不要なんですよ。どんな言語で書かれていようと、分かる人には分かるんです。アタマで読むのではなく認識で読むんだって……誰かが言ってました」
ちびアヒルチャンは本を閉じた。そしてもう満足したというようにファイに差し出す。
「ちびアヒルチャン……何者……?」
「さあ……?」
本を受け取ったファイとちびアヒルチャンが、二人して首を傾げる。そのまま十数秒の時が流れた。
「……そ、それで、何が書いてあったの、これ」
ファイは興奮した様子で問う。答えを教えてもらうのは少しずるいような気がしたが、真実を知りたいという好奇心が勝った。
「まだ細かいところは分かりませんが、魔術的に時間を制御するというのが概要のようです。時間移動などをはじめとして、高度なものだと時間自体の創造や消失などもありそうです」
「えっと、ちびアヒルチャンはこれが読めるってことは……もしかして、ちびアヒルチャンも時間移動とかできるようになるの?」
「さあ……?」
また二人の間に沈黙の十秒が流れた。もどかしくも会話が続かない。
「じゃあ……えっと、仮に、だけど……この本の力で、誰かを若返らせたり、成長させたり、とかって」
「できるんじゃないでしょうか。時間の制御の範疇だと思いますよ」
また答えは返ってこないだろうと思っていたファイは意表を突かれ、一瞬固まった。
「これは答えてくれるんだ、ちびアヒルチャン……どうして?」
「さあ……?」
「あ、今度はこっちか……」
沈黙のまま見つめ合うこと数秒。やがて二人はお互いに一度ずつ頷くと、示し合わせたように同時に歩き出し、倉庫を後にした。
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