Artifact:04 時騙しの法(前編)

 時は少し遡る。アヒルチャンが地下室に向かって外出してから数分後のことだ。ファイは一人、館で留守番することになり、書斎で苦いコーヒーの入ったカップを少しずつ傾けながら読書に勤しんでいた。

 昨日、ファイとアヒルチャンはキッチンのガスコンロが使用可能になっていることを発見した。その夜、外に出向いたアヒルチャンが、いつものようにどこからかインスタントコーヒーを調達してきたので、二人は湯を沸かして熱いコーヒーが飲めるようになった。

 ファイは最初こそコーヒーの苦味と熱さに顔をしかめ、舌を出して困惑していたものの、アヒルチャンが平然とブラックコーヒーを飲んでいるのを見ると「そういうものなんだ」と解したようで、少しずつだが表情を崩さず飲むことを心がけるようになった。ファイには、アヒルチャンの感覚を真似したい、共感したいといった感情があるようだった。

 《裏門》が使えるようになって以降、ファイはそれまでよりも増してアヒルチャンと一緒にいることを望むようになった。ファイとアヒルチャンは二人揃って何度か外出し、外の世界を観光した。アヒルチャンが門を繋げる場所は、主に日本の都市部だった。ファイは目に映る光景すべてに興味津々だった。二人は夜と人混みに紛れるようにして、地上から、また空から街並みを眺めた。アヒルチャンが持っていた小銭を使って、自動販売機で買い物をしたりもした。そして帰り際にはアヒルチャンと繋がりのある人間を探して、二人して追い回した。アヒルチャンが獲物から命を吸い上げている間、ファイは周囲を楽しげに観察していた。

 だが数日前のあるときを境に、アヒルチャンは一人での外出を望むようになった。その理由をファイが問うても、アヒルチャンは難しい顔をして語らなかった。ファイは一度は抗議したが、アヒルチャンの意思が揺らがないことは薄々分かっていた。結局ファイは「アヒルチャンがそうしたいなら」と、その行動を認めた。

「アヒルチャン、やっぱり一人の方が落ち着くのかな……」

 アヒルチャンはマイペースだ。初めてアヒルチャンと遭ったときも、アヒルチャンは一人だった。

「一人かあ……」

 こんなとき、あのときのように自身の記憶に沈潜することができたら、寂しさを紛らすこともできただろうか。それとも、余計に寂しさを募らせるだけだろうか。そういえば、記憶の中のファイ……《人形》には、誰か心を許せる親しい人が居たらしかった。

「もしかして、呼べば出てきてくれたりする?おーい、《人形》ー?」

 ファイの呼びかけは書斎に虚しく響いた。《人形》とはあの夢以来、一度も顔をあわせていない。彼女の言っていることはよくわからないが、強い感情を向けられるのは悪い気分ではなかった。

「……まあいいや」

 ファイは《人形》との対話を諦め、再び手元の本に目を落とす。『KHRONOMOS』──馴染みのある文字で書き記すならそう読める──と題された、随分と年季の入った分厚い本だ。これを今朝の探検中に倉庫の片隅で見つけ、引っ張り出してきて以来、ファイはほぼ一日をこの難解な本の解読に費やしていた。

「……んー、これは『砂』……?それとも『灰』かな……」

 ファイは頭を悩ます。解読とは言ったが、ファイは実際、この書物に記されているアルファベット風の文字で構成された言語の正体すら分かっていなかった。ただ、挿絵や図解は豊富であったため、その奇怪な幾何学模様めいた絵の数々から文意を推測することで好奇心を満たすことはできた。

「この輪っかみたいなの……この中にもさっきの砂みたいな粒がある……んー?」

 挿絵を指でなぞってみる。メビウスの輪じみた珍妙なリング状の絵は、何かの円環を示しているようだったが、その図だけではあまりに抽象的にすぎたため、結局ファイには何も分からなかった。

「この家の人は、この本を読めたってことだよね。じゃあ、あの《人形》も読めたのかな」

 もしそうなら、記憶を引き出すことができればファイにもこの本の内容が理解できたかもしれない。そう考えるともどかしさが募る。《人形》にかけられた記憶の鍵は、往々にしてファイの好奇心の邪魔をする。今度出会うことがあったら文句くらい言ってやろう……とファイは心に決めた。

「ふぁぁ……なんか眠くなってきたなあ……」

 欠伸をしつつ時計を見る。午前一時を過ぎた頃だ。ファイはアヒルチャンに食べられたあの日以来、日付が変わった辺りの時刻から眠気を感じるようになっていた。食事、睡眠。食べた食物がどうなるのか、睡眠は生命維持のために必要なのか、そういったことは定かではない。だがファイは目覚めて以来、着々と人間の欲求と行動を習得しているらしかった。

「アヒルチャン、まだ帰ってこない……」

 アヒルチャンの外出は主に午前零時あたりから三時頃までで、日によってその長さも様々だ。今日のアヒルチャンは零時三十分頃に出かけていったので、まだ三十分程度しか経過していない。

「ちょっとだけ……寝よ……」

 ファイは本を閉じてそばのテーブルに起き、代わりに目覚まし時計を手に取った。アヒルチャンから教わった目覚まし時計のセット方法を思い出しながら、微睡む眼でアラームのタイマーを約三十分後に合わせる。留守番している分、せめてアヒルチャンの帰りは起きて迎えたかった。

 アヒルチャンの持ってきた柔らかい毛布を膝にかけ、ファイはソファに腰かけた姿勢のまま目を閉じた。眠りに落ちるまでは一分とかからなかった。


 ファイが目覚めたとき、聞こえていたのは目覚まし時計のアラームではなく、誰かがガチャガチャと何かを弄っている作業音だった。

「……アヒルチャン?」

 アヒルチャンが帰ってきたのだろうか。出迎えられなかったと後悔を抱きつつ、ファイは寝ぼけ眼をこすり、書斎の様子を確認する。

 そこにいたのは確かにアヒルチャンだった。黄色の肌、夜色の髪、背中の冗談のように小さな羽、底のない黒い瞳。だが、体格が異なっている。そのアヒルチャンはファイと同じくらいの背格好……子供の体格だった。服装もいつものアヒルチャンと似ているが、幾らか少女趣味になっている。小さな手には光沢のある長い手袋。小さなアヒルチャンが、テーブルに置かれた目覚まし時計を興味深げに弄っていた。

「アヒルチャン……ちっちゃくなってる?」

 ファイはもう三度みたび目を擦り、夢ではないかと疑った。小さなアヒルチャンは変わらずそこにいて、時計の長針をぐるぐると回して遊んでいた。

「どうなってるんだろう、ちっちゃいアヒルチャン……ちびアヒルチャンだ」

 寝ぼけたファイの呟きが聞こえたようで、その小さなアヒルチャンはゆっくりと振り向いた。

「おかえり、えーと……ちびアヒルチャン?」

 ファイは戸惑いながらもアヒルチャンに呼びかける。アヒルチャンは目覚まし時計をテーブルに戻すと、いつもの感情の読めない表情でゆっくりとファイに近づいてきた。

「どうしたのアヒルチャン、ちっちゃくなっちゃって……」

「……?」

 ファイの座るソファの前に立ったアヒルチャンは首を傾げる。質問の意図を掴みかねている様子だ。

「何かおかしいですか」

 そう言うアヒルチャンの声もやはり、いつもより幼く響く。

「……わからないの?」

「何のことでしょう」

 ファイは寝起きの頭を回転させ、状況の理解に努めた。アヒルチャンは小さくなっていて、その自覚がない。目の前のアヒルチャンはいつもの表情でファイを見つめている。ふと目を向けたテーブルの上には、アヒルチャンが針を弄んだために最早時を告げる意味を成さなくなった時計。回された針。歪められた時間。過去への逆行。テーブルの上に置いたはずの例の本が消えている。

「……もしかして、この家のせい……?」

 ファイは一つの理由に思い至り、薄ら寒い恐怖を感じた。この館は時間を遡行している。壊れた家具が修復され、出しっ放しにした物品が独りでに元の場所に戻り、失われていた機能が蘇る。その影響がアヒルチャンにも及び、アヒルチャンを子供の姿に巻き戻してしまったのではないか。

 ファイは腕を捲った。それは《裏門》が起動したあの日、アヒルチャンに初めて食べられたときに差し出した腕だ。あの時牙に貫かれた傷は、一晩寝た翌日には綺麗さっぱり無くなっていた。まるで、体が傷を負う前の状態に巻き戻されたように。

 館の影響は、何も家具だけに及ぶものではないのかもしれない。その可能性に、今初めて思い至る。

「ねえ、アヒルチャン……聞きたいんだけど……私のこと、わかる?」

 ファイは恐る恐る尋ねる。小さなアヒルチャンは先ほどのように首を傾げ、はっきりと

「わかりません」

 と答えた。

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