Ahirufact:01

「すみません、道に迷ったのですが」

 今や定型句と化した言葉を、目の前の人間に投げかける。今夜の獲物は、住宅地を歩いていた若い女だ。どこで自分のことを知ったのだろう。今回それを考える必要はないだろう。恐らく、一縷の望みを託すにも値しない。

 女は突然目の前に現れた黄色の怪異に怯え、引けた腰で傘を振り回して追い払おうとしている。装飾から見て、日傘だ。アヒルチャンは基本的に雨の場所に現れない。雨というより、雷が苦手なのだ。

 アヒルチャンの身体を傘の先端が掠めていった。アヒルチャンは意に介さず、また静かに問いかける。

「すみません」

「な、何なの、アンタ……!どっか行ってよ……!」

 女は片手に持った傘を下手なフェンシングのように振り回している。もう片方の手には百貨店の紙袋が握られている。服か、化粧品か……どちらにせよ、目当てのものジンジャーエールは持っていなさそうだ。持っていたなら、見逃してあげたのだが。

「道に迷ったのですが」

「道!?何の道……!?」

「帰り道です、私の生まれた場所への」

「そんなの……!知るわけないじゃない……!」

 やっぱり。予想通りだった。アヒルチャンは肩を落とすこともなく、一歩歩み出る。女の振り回す傘は、掠めはすれど当たらない。この獲物は既に恐怖に飲まれている。アヒルチャンを絶対的な怪物と意識してしまっている。それならアヒルチャンに危害を加えることはできない。彼女は都市伝説のルールに巻き込まれている。逃れるためにはルールに従うしかない。ジンジャーエールを持たない彼女に、アヒルチャンから逃れる術は無い。

「では」

 もう一歩。獲物に歩み寄りながら、アヒルチャンは一度目を閉じて、そしてゆっくりと開いた。目の色が変わる。白目だった場所は黒く塗りつぶされ、そして底無しの黒目だった部分は収斂し、青とも赤ともつかない不気味な光を放つ。反転眼ブラックアイとなったアヒルチャンは、いくらか感情が読み取りやすくなる。即ち、食事を前にした興奮、嗜虐の悦楽を求める酷薄な笑みが露わになる。そしてそれは、捕食の最後通牒が終わったことを示す合図だった。

 獲物はもう傘を振り回す気力も無いようだった。握力を失った手から傘が離れ、落下する。

「いただきます」

 アヒルチャンは女の首筋に噛み付いた。噛み付く場所は何処だっていい。穴さえあれば命は奪える。ただ、この辺りに噛み付くと獲物はよく怯える。ただの経験則だ。女は思った通り悲鳴を上げていた。恐怖されることも、都市伝説としての生命維持には重要だ。語るものが居なければ、都市伝説は存在できない。

 頃合いを見て、牙を引き抜く。アヒルチャンは獲物の命のきっかり半分を奪うことにしている。慈悲というわけではない。生かしておけば、襲われた人間はその体験を他者に語る。そうすればアヒルチャンの語り部が増え、アヒルチャンを知る者が増え、食い扶持が増える。

「ごちそうさまでした」

 命の半分も取れば、大抵の人間は意識を失う。アヒルチャンは女の体を持ち上げ、近場で適当に人目につきやすい場所を探して安置した。

「さて、帰りましょうか」

 。発した独り言を無性に尊く感じた。


 アヒルチャンに生まれたときの記憶はない。忘れているのか、そもそも持ち合わせていないのか。気がついたときには、アヒルチャンはこの身の丈、この姿で、夜の街の雑踏に紛れるように立っていた。

 アヒルチャンはこのとき、まだアヒルチャンではなかった。ただの名もなき怪異として、街に佇んでいた。

 自分が何をすべき存在なのかはわかっていた。それは「モノを食べなければ死ぬ」程度の、ひどく些細で原始的な感覚としてあった。自分は人を襲う都市伝説だ。

 行き交う人々の殆どは自分に気づいていないようで、次々と彼女の横を素通りしていく。しばらくアヒルチャンは、そのまま人々を観察していた。そのうち、人混みの中で一つ、短い悲鳴が聞こえた。アヒルチャンは誰かが自分を知覚したのだと理解した。己の深層の世界で、細い糸のようなものが一本、近くの誰かへと向かって伸びている感覚を覚えた。

 アヒルチャンは繋がれた糸を手繰るように、その人のもとへ歩きだした。しばらく歩いたが、なかなか目的の人物に近づけない。その人物はアヒルチャンから一心不乱に逃げている。アヒルチャンは執拗にそれを追いかけた。

 歩いているうちに、何本か新しい糸が繋がっていたが、アヒルチャンはとにかく最初の糸を辿っていった。やがてアヒルチャンは、走り疲れて塀にもたれかかり休んでいる獲物に追いついた。アヒルチャンは無言でその獲物に手を伸ばし、喰らい付き、命の半分を無慈悲に奪い取った。

 食べ終わると、アヒルチャンはすぐさま次の糸を手繰った。アヒルチャンはその夜、六人の命を立て続けに食らった。


 アヒルチャンが襲う人間は日ごとにまちまちだった。十人近い人々を捕食する夜もあれば、誰も襲わない夜もあった。陽の出ている日中はなんとなく居心地が悪かったので、夜明けが来る前に廃ビルや薄暗い路地裏などを見つけて、そこに潜んで時間を潰した。

 アヒルチャンは生まれながらに忘れっぽい性格だった。そのため、努めて記憶を保持しておくことに慣れるまでは、何度も繋がりの糸を途切れさせてしまった。相手から忘れられても、自分がその繋がりの存在を忘れても、糸は途切れてしまう。厄介な性質に頭を悩ませる日々が続いた。

 幾夜かを経て、ある程度安定して空腹が満たせるようになると、余計なことを考える余裕も出てきた。その日のアヒルチャンは、獲物のいた場所の近くにあったマンションのロビーに腰を落ち着けていた。

 自分は都市伝説だ。それはわかる。自分を知る人間のもとに現れ、襲撃し、恐怖させ、捕食する。存在を維持し続けるためには、人間を食べ続ければいい。それが名前のない自分に与えられた役割であり、存在の条件だ。

 都市伝説とは虚構であり機構だ。人に語られることによって生じ、人に何らかの情念を抱かせ、いずれは忘れ去られて消えていく。そういった機能を有する単なる現象に過ぎない。忘れられないために、都市伝説は己のルールに沿って人と接触する。それでも完全な実存を得ることは適わない。所詮泡沫のような存在だ。

 アヒルチャンは、それでは無為だと思った。虚構の存在としてでも形を得た以上、己の望む何かを為したいと思った。

 不意に思い至ったのは、自分の誕生についてだった。都市伝説が人に語られて存在する以上、初めに自分のことを語った人間が居たはずだ。大抵の場合、そういった起点は群衆や時の流れの中に埋没し、消滅するものだ。だが、アヒルチャンは幸いにも『自分を知る人間』を辿ることができる。今は知覚できていないが、人間を食べ続ける過程で、自分の起源を知る人間に出会えるかもしれない。そうして人から人を辿って自分を生み出した人間の糸を見つけられれば。可能性は著しく低いが、見られない夢じゃない。

 帰り道を探そう。自分の生まれた場所への帰り道を。

 その日から、アヒルチャンは道に迷うようになった。


「……思えば、長く迷ってきましたね。私」

 アヒルチャンは回想を止め独り言ちた。アヒルチャンには今、帰る場所がある。それは自分の起源とは何ら関係のない場所だが、居心地のいい場所だ。

 帰り道を探す旅。少しの寄り道は、許されるだろうか。

「さあ、帰りの門はどこに開いたんでしょうか」

 今日、アヒルチャンは自身の転移能力ではなく、館の《裏門》を介してここに来ていた。《裏門》はファイの推測通り、アヒルチャンの転移できる場所に繋がっていた。そのため、アヒルチャン一人で使うなら直接転移するのと結果に特別な差はない。ただ、アヒルチャンはここ数日間ずっと、《裏門》を使って外食している。

 アヒルチャンはいつも通り、帰りのゲートを探すために空へと浮かび上がった。ゲートは眩く光り輝いているため、暗い夜に見つけることは難しくない。それだけ目立つものにも関わらず、アヒルチャンはゲートに意識を向ける人間を一度も目撃したことがない。きっと人混みの中にいた自分のように、誰もがその存在を知覚することは出来ないのだろう、とアヒルチャンは考えていた。

「見ーつけた」

 アヒルチャンはゲートを発見し、その場所へと飛行していく。アヒルチャンの背中に夜空の月と星が微かな光を投げかける。夜空を飛行する黄色の女性というこの不思議な光景を、地上にいる多くの人は知覚することすらできない。アヒルチャンのはなかなか増えない。


「……あれ?」

 ゲートの前に降り立ったとき、アヒルチャンはどこからか視線を感じた。辺りを見回してみても、誰もいない。それに、知覚されたなら『糸』が繋がってもいいはずだ。しかし、その感覚もない。

「おかしいですね」

 不審に思ったアヒルチャンは、もっと広い範囲を捜索してみようと思い、ゲートから離れた。アヒルチャンがゲートに背を向けて数歩進んだそのとき、アヒルチャンは背後に何かが降り立つ気配を感じた。

「まさか、上に居た……!?」

 アヒルチャンは素早く後ろを振り返った。小さな人影が、ゲートの光の中に消えていくのが見えた。

「どういうことです……!?」

 アヒルチャンは疑問を口にしながらも思考を止め、人影を追いかけて自身も光の中へと飛び込んだ。

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